源氏物語

源氏謫居の間、人々ひそかに嘆きを重ねる

The Wormwood Patch

藻塩たれつつわびたまひしころほひ、都に も、さまざま思し嘆く人多かりしを、さて もわが御身の拠りどころあるは、一方の思 ひこそ苦しげなりしか、二条の上などものどやかにて、旅の 御住み処をもおぼつかなからず聞こえ通ひたまひつつ、位を 去りたまへる仮の御よそひをも、竹の子の世のうき節を、 時々につけてあつかひきこえた まふに、慰めたまひけむ、なかな か、その数と人にも知られず、立 ち別れたまひしほどの御ありさま をもよそのことに思ひやりたまふ 人々の、下の心砕きたまふたぐひ

多かり。 末摘花の邸一途に窮乏し、荒廃する 常陸の宮の君は、父親王の亡せたまひにし なごりに、また思ひあつかふ人もなき御身 にていみじう心細げなりしを、思ひかけぬ 御事の出で来て、とぶらひきこえたまふこと絶えざりしを、 いかめしき御勢にこそ、事にもあらず、はかなきほどの御- 情ばかりと思したりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、大- 空の星の光を盥の水に映したる心地して、過ぐしたまひしほ どに、かかる世の騒ぎ出で来て、なべての世うく思し乱れし 紛れに、わざと深からぬ方の心ざしはうち忘れたるやうにて、 遠くおはしましにし後、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまは ず。そのなごりに、しばしば泣く泣くも過ぐしたまひしを、 年月経るままに、あはれにさびしき御ありさまなり。  古き女ばらなどは、 「いでや、いと口惜しき御宿世なりけ り。おぼえず神仏の現はれたまへらむやうなりし御心ばへ

に、かかるよすがも人は出でおはするものなりけりと、あり 難う見たてまつりしを、おほかたの世の事といひながら、ま た頼む方なき御ありさまこそ悲しけれ」
と、つぶやき嘆く。 さる方にありつきたりしあなたの年ごろは、言ふかひなきさ びしさに目馴れて過ぐしたまふを、なかなかすこし世づきて ならひにける年月に、いとたへがたく思ひ嘆くべし。すこし もさてありぬべき人々は、おのづから参りつきてありしを、 みな次々に従ひて行き散りぬ。女ばらの命たへぬもありて、 月日に従ひては、上下人数少なくなりゆく。 末摘花、荒れまさる邸を守り生きる もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の住 み処になりて、うとましうけ遠き木立に、 梟の声を朝夕に耳馴らしつつ、人げにこ そさやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしか らぬ物ども、ところ得て、やうやう形をあらはし、ものわ びしき事のみ数知らぬに、まれまれ残りてさぶらふ人は、

「なほいとわりなし。この受領どもの、おもしろき家造り好 むが、この宮の木立を心につけて、放ちたまはせてむやと、 ほとりにつきて、案内し申さするを、さやうにせさせたまひ て、いとかうもの恐ろしからぬ御住まひに、思し移ろはなむ。 立ちとまりさぶらふ人も、いとたへがたし」など聞こゆれど、 「あないみじや。人の聞き思はむこともあり。生ける世 に、しかなごりなきわざはいかがせむ。かく恐ろしげに荒れ はてぬれど、親の御影とまりたる心地する古き住み処と思ふ に、慰みてこそあれ」 と、うち泣きつつ、思しもかけず。  御調度どもも、いと古代に馴れたるが昔様にてうるはし きを、なま物のゆゑ知らむと思へる人、さるもの要じて、わ ざとその人かの人にせさせたまへる、とたづね聞きて案内す るも、おのづからかかる貧しきあたりと思ひ侮りて言ひ来 るを、例の女ばら、 「いかがはせん。そこそは世の常のこ と」とて、取り紛らはしつつ、目に近き今日明日の見苦しさ

をつくろはんとする時もあるを、いみじう諫めたまひて、 「見よと思ひたまひてこそ、しおかせたまひけめ。など てかかろがろしき人の家の飾とはなさむ。亡き人の御本意違 はむがあはれなること」とのたまひて、さるわざはせさせた まはず。  はかなきことにても、見とぶらひきこゆる人はなき御身な り。ただ御兄の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ 時はさしのぞきたまへど、それも世になき古めき人にて、同 じき法師といふ中にも、たづきなく、この世を離れたる聖に ものしたまひて、しげき草蓬をだに、かき払はむものとも思 ひ寄りたまはず。  かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあ らそひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉ぢ籠めたるぞ頼 もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を、馬牛などの踏みな らしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞめ

ざましき。  八月、野分荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、 はかなき板葺なりしなどは骨のみわづかに残りて、立ちとま る下衆だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。 盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりのさびしければ にや、この宮をば不用のものに踏み過ぎて寄り来ざりければ、 かくいみじき野ら藪なれども、さすがに寝殿の内ばかりはあ りし御しつらひ変らず。つややかに掻い掃きなどする人もな し、塵は積れど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、 明かし暮らしたまふ。 末摘花、時代離れの古風な日常を過ごす はかなき古歌物語などやうのすさびごとに てこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住 まひをも思ひ慰むるわざなめれ、さやうの ことにも心おそくものしたまふ。わざと好ましからねど、お のづから、また急ぐことなきほどは、同じ心なる文通はしな

どうちしてこそ、若き人は木草につけても心を慰めたまふべ けれど、親のもてかしづきたまひし御心おきてのままに、世 の中をつつましきものに思して、まれにも言通ひたまふべき 御あたりをも、さらに馴れたまはず、古りにたる御廚子開け て、唐守、藐姑射の刀自、かぐや姫の物語の絵に描きたるを ぞ、時々のまさぐりものにしたまふ。  古歌とても、をかしきやうに選り出で、題をも、よみ人を もあらはし心得たるこそ見どころもありけれ、うるはしき紙- 屋紙、陸奥国紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたる などは、いとすさまじげなるを、せめてながめたまふをりを りは、引きひろげたまふ。今の世の人のすめる、経うち誦み、 行ひなどいふことはいと恥づかしくしたまひて、見たてまつ る人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かやうにうる はしくぞものしたまひける。 叔母、末摘花に対して報復を企てる

侍従などいひし御乳母子のみこそ、年ごろ あくがれはてぬ者にてさぶらひつれど、通 ひ参りし斎院亡せたまひなどして、いとた へがたく心細きに、この姫君の母北の方のはらから、世にお ちぶれて受領の北の方になりたまへるありけり。むすめども かしづきて、よろしき若人どもも、むげに知らぬ所よりは、 親どもも参うで通ひしを、と思ひて、時々行き通ふ。この姫- 君は、かく人疎き御癖なれば、睦ましくも言ひ通ひたまはず。 「おのれをばおとしめたまひて、面ぶせに思したりしかば、 姫君の御ありさまの心苦しげなるも、えとぶらひきこえず」 など、なま憎げなる言葉ども言ひ聞かせつつ、時々聞こえ けり。  もとよりありつきたるさやうの並々の人は、なかなかよき 人のまねに心をつくろひ、思ひあがるも多かるを、やむごと なき筋ながらも、かうまで落つべき宿世ありければにや、心

すこしなほなほしき御叔母にぞありける。 「わがかく劣りの さまにて、あなづらはしく思はれたりしを、いかでかかる世 の末に、この君を、わがむすめどもの使ひ人になしてしがな。 心ばせなどの古びたる方こそあれ、いとうしろやすき後見な らむ」と思ひて、 「時々ここに渡らせたまひて。御琴の音 も承らまほしがる人なむはべる」と聞こえけり。この侍従 も、常に言ひもよほせど、人にいどむ心にはあらで、ただこ ちたき御ものづつみなれば、さも睦びたまはぬを、ねたしと なむ思ひける。 叔母、西国へ同行を勧誘、末摘花拒む かかるほどに、かの家主大弐になりぬ。 むすめどもあるべきさまに見おきて、下り なむとす。この君をなほもいざなはむの心- 深くて、 「遥かにかくまかりなむとするに、心細き御あり さまの、常にしもとぶらひきこえねど、近き頼みはべりつる ほどこそあれ、いとあはれにうしろめたなくなむ」など言よ

がるを、さらに承け引きたまはねば、 「あな憎。ことごと しや。心ひとつに思しあがるとも、さる藪原に年経たまふ人 を、大将殿もやむごとなくしも思ひきこえたまはじ」など、 怨じうけひけり。  さるほどに、げに世の中に赦されたまひて、都に帰りたま ふと、天の下のよろこびにてたち騒ぐ。我もいかで、人より 先に、深き心ざしを御覧ぜられんとのみ思ひきほふ男女に つけて、高きをも下れるをも、人の心ばへを見たまふに、あ はれに思し知ること、さまざまなり。かやうにあわたたしき ほどに、さらに思ひ出でたまふけしき見えで月日経ぬ。 「今は限りなりけり。年ごろあらぬさまなる御さまを、悲 しういみじきことを思ひながらも、萌え出づる春に逢ひたま はなむ、と念じわたりつれど、たびしかはらなどまでよろこ び思ふなる御位改まりなどするを、よそにのみ聞くべきなり けり。悲しかりしをりの愁はしさは、ただわか身ひとつのた

めになれるとおぼえし、かひなき世かな」
と、心砕けてつら く悲しければ、人知れず音をのみ泣きたまふ。 大弐の北の方、 「さればよ。まさにかくたづきなく、人わ ろき御ありさまを、数まへたまふ人はありなむや。仏聖も、 罪軽きをこそ導きよくしたまふなれ、かかる御ありさまにて、 たけく世を思し、宮上などのおはせし時のままにならひたま へる、御心おごりのいとほしきこと」といとどをこがましげ に思ひて、 「なほ思ほしたちね。世のうき時は見えぬ山路 をこそは尋ぬなれ。田舎などはむつかしきものと思しやるら めど、ひたぶるに人わろげには、よももてなしきこえじ」な ど、いと言よく言へば、むげに屈じにたる女ばら、 「さもな びきたまはなむ。たけきこともあるまじき御身を、いかに思 して、かく立てたる御心ならむ」と、もどきつぶやく。  侍従も、かの大弐の甥だつ人語らひつきて、とどむべくも あらざりければ、心より外に出で立ちて、 「見たてまつり

おかんがいと心苦しきを」
とて、そそのかしきこゆれど、な ほかくかけ離れて久しうなりたまひぬる人に頼みをかけたま ふ。御心の中に、 「さりとも、あり経ても思し出づるつ いであらじやは。あはれに心深き契りをしたまひしに、わが 身はうくて、かく忘られたるにこそあれ、風のつてにても、 わがかくいみじきありさまを聞きつけたまはば、必ずとぶら ひ出でたまひてん」と、年ごろ思しければ、おほかたの御家 ゐも、ありしよりけにあさましけれど、わが心もて、はかな き御調度どもなどもとり失はせたまはず、心強く同じさまに て念じ過ごしたまふなりけり。  音泣きがちに、いとど思し沈みたるは、ただ山人の赤き木 の実ひとつを顔に放たぬと見えたまふ、御側目などは、おぼ ろけの人の見たてまつりゆるすべきにもあらずかし。くはし くは聞こえじ。いとほしう、もの言ひさがなきやうなり。 末摘花の絶望 叔母来訪し侍従を連れ去る

冬になりゆくままに、いとどかきつかむ方 なく、悲しげにながめ過ごしたまふ。かの 殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆす りてしたまふ。ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐ れ行ひにしみ、尊きかぎりを選らせたまひければ、この禅師 の君参りたまへりけり。帰りざまに立ち寄りたまひて、 「しかじか。権大納言殿の御八講に参りてはべりつるなり。 いとかしこう、生ける浄土の飾におとらず、いかめしうおも しろき事どもの限りをなむしたまひつる。仏菩薩の変化の 身にこそものしたまふめれ。五つの濁り深き世になどて生ま れたまひけむ」と言ひて、やがて出でたまひぬ。言少なに、 世の人に似ぬ御あはひにて、かひなき世の物語をだにえ聞こ えあはせたまはず。さても、かばかりつたなき身のありさま を、あはれにおぼつかなくて過ぐしたまふは、心憂の仏菩薩 やとつらうおぼゆるを、げに限りなめり、とやうやう思ひな

りたまふに、大弐の北の方にはかに来たり。  例はさしも睦びぬを、さそひたてむの心にて、奉るべき御- 装束など調じて、よき車に乗りて、面もち気色ほこりかにも の思ひなげなるさまして、ゆくりもなく走り来て、門開けさ するより、人わろくさびしきこと限りもなし。左右の戸もみ なよろぼひ倒れにければ、男ども助けてとかく開け騒ぐ。い づれか、このさびしき宿にも必ず分けたる跡あなる三つの径 とたどる。  わづかに南面の格子上げたる間に寄せたれば、いとどはし たなし、と思したれど、あさましう煤けたる几帳さし出でて、 侍従出で来たり。容貌などおとろへにけり。年ごろいたうつ ひえたれど、なほものきよげによしあるさまして、かたじけ なくとも、とりかへつべく見ゆ。 「出で立ちなむことを思ひながら、心苦しきありさまの、 見捨てたてまつりがたきを、侍従の迎へになむ参り来たる。

心うく思し隔てて、御みづからこそあからさまにも渡らせた まはね、この人をだにゆるさせたまへとてなむ。などかうあ はれげなるさまには」
とて、うちも泣くべきぞかし。されど 行く道に心をやりて、いと心地よげなり。 「故宮おはせし 時、おのれをば、面ぶせなり、と思し棄てたりしかば、疎々 しきやうになりそめにしかど、年ごろも何かは。やむごとな きさまに思しあがり、大将殿などおはしまし通ふ御宿世のほ どをかたじけなく思ひたまへられしかばなむ、睦びきこえさ せんも憚ること多くて過ぐしはむべるを、世の中のかくさだ めもなかりければ、数ならぬ身は、なかなか心やすくはべる ものなりけり。及びなく見たてまつりし御ありさまのいと悲 しく心苦しきを、近きほどは怠るをりものどかに頼もしくな むはべりけるを、かく遥かにまかりなむとすれば、うしろめ たくあはれになむおぼえたまふ」など語らへど、心とけても 答へたまはず。

「いとうれしきことなれど、世に似ぬさまにて、何か は。かうながらこそ朽ちも亡せめとなむ思ひはべる」とのみ のたまへば、 「げにしかなむ思さるべけれど、生ける身を 棄てて、かくむくつけき住まひするたぐひははべらずやあら む。大将殿の造り磨きたまはむにこそは、ひきかへ玉の台に もなりかへらめとは、頼もしうははべれど、ただ今は式部卿- 宮の御むすめより外に心わけたまふ方もなかなり。昔よりす きずきしき御心にて、なほざりに通ひたまひける所どころ、 みな思し離れにたなり。ましてかうものはかなきさまにて、 藪原に過ぐしたまへる人をば、心清く我を頼みたまへるあり さまと、尋ねきこえたまふこと、いと難くなむあるべき」な ど言ひ知らするを、げに、と思すもいと悲しくて、つくづく と泣きたまふ。  されど動くべうもあらねば、よろづに言ひわづらひ暮らし て、 「さらば、侍従をだに」と、日の暮るるままに急げば、

心あわたたしくて、泣く泣く、 「さらば、まづ今日は、か うせめたまふ送りばかりに参うではべらむ。かの聞こえたま ふもことわりなり。また思しわづらふもさることにはべれば、 中に見たまふるも心苦しくなむ」と忍びて聞こゆ。この人さ へうち棄ててむとするを、恨めしうもあはれにも思せど、言 ひとどむべき方もなくて、いとど音をのみたけきことにても のしたまふ。  形見に添へたまふべき身馴れ衣も、しほなれたれば、年経 ぬるしるし見せたまふべきものなくて、わが御髪の落ちたり けるを取り集めて鬘にしたまへるが、九尺余ばかりにて、い ときよらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香のい とかうばしき一壼具してたまふ。 「たゆまじき筋を頼みし玉かづら思ひのほかにかけ はなれぬる 故ままの、のたまひおきしこともありしかば、かひなき身な

りとも、見はててむとこそ思ひつれ。うち棄てらるるもこと わりなれど、誰に見ゆづりてか、と恨めしうなむ」
とて、い みじう泣いたまふ。この人もものも聞こえやらず。 「まま の遺言はさらにも聞こえさせず。年ごろの忍びがたき世のう さを過ぐしはべりつるに、かくおぼえぬ道にいざなはれて、 遙かにまかりあくがるること」とて、 「玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけ てちかはむ 命こそ知りはべらね」など言ふに、 「いづら、暗うなり ぬ」とつぶやかれて、心もそらにてひき出づれば、かへり見 のみせられける。  年ごろ、わびつつも行き離れざりつる人の、かく別れぬる ことを、いと心細う思すに、世に用ゐらるまじき老人さへ、 「いでや、ことわりぞ。いかでか立ちとまりたまはむ。我ら もえこそ念じはつまじけれ」と、おのが身々につけたるたよ

りども思ひ出でて、とまるまじう思へるを、人わろく聞きお はす。 末摘花の邸わびしく雪に埋もれる 霜月ばかりになれば、雪霰がちにて、外に は消ゆる間もあるを、朝日夕日をふせぐ蓬- 葎の蔭に深う積りて、越の白山思ひやらる る雪の中に、出で入る下人だになくて、つれづれとながめた まふ。はかなきことを聞こえ慰め、泣きみ笑ひみ紛らはしつ る人さへなくて、夜も塵がましき御帳の中もかたはらさびし く、もの悲しく思さる。  かの殿には、めづらし人に、いとどもの騒がしき御ありさ まにて、いとやむごとなく思されぬ所どころには、わざとも え訪れたまはず。まして、その人はまだ世にやおはすらむと ばかり思し出づるをりもあれど、たづねたまふべき御心ざし も急がであり経るに、年かはりぬ。 源氏、末摘花の邸のそばを通りかかる

卯月ばかりに、花散里を思ひ出できこえた まひて、忍びて、対の上に御暇聞こえて 出でたまふ。日ごろ降りつるなごりの雨い ますこしそそきて、をかしきほどに月さし出でたり。昔の御- 歩き思し出でられて、艶なるほどの夕月夜に、道のほどよろ づの事思し出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立 茂く森のやうなるを過ぎたまふ。  大きなる松に藤の咲きかかりて、月影になよびたる、風に つきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなきかをりなり。 橘にはかはりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳も いたうしだりて、築地もさはらねば、乱れ伏したり。見し心- 地する木立かな、と思すは、はやうこの宮なりけり。いとあ はれにておしとどめさせたなふ。例の、惟光はかかる御忍び 歩きに後れねばさぶらひけり。召し寄せて、 「ここは常陸 の宮ぞかしな」 「しかはべり」と聞こゆ。 「ここにあり

し人は、まだやながむらん。とぶらふべきを、わざとものせむ もところせし。かかるついでに入りて消息せよ。よくたづね 寄りてをうち出でよ。人違へしてはをこならむ」
とのたまふ。  ここには、いとどながめまさるころにて、つくづくとおは しけるに、昼寝の夢に故宮の見えたまひければ、覚めていと なごり悲しく思して、漏り濡れたる廂の端つ方おし拭はせて、 ここかしこの御座ひきつくろはせなどしつつ、例ならず世づ きたまひて、 亡き人を恋ふる袂のひまなきに荒れたる軒のしづ くさへ添ふ も心苦しきほどになむありける。 惟光、邸内を探り、かろうじて案内を乞う 惟光入りて、めぐるめぐる人の音する方や と見るに、いささかの人げもせず。されば こそ、往き来の道に見入るれど、人住みげ もなきものを、と思ひて、帰り参るほどに、月明かくさし出

でたるに見れば、格子二間ばかりあげて、簾動くけしきなり。 わづかに見つけたる心地、恐ろしくさへおぼゆれど、寄りて 声づくれば、いともの古りたる声にて、まづ咳を先にたてて、 「かれは誰ぞ。何人ぞ」と問ふ。名のりして、 「侍従の君 と聞こえし人に対面たまはらむ」と言ふ。 「それは外になん ものしたまふ。されど思しわくまじき女なむはべる」と言ふ。 声いたうねび過ぎたれど、聞きし老人と聞き知りたり。  内には、思ひも寄らず、狩衣姿なる男、忍びやかに、もて なしなごやかなれば、見ならはずなりにける目にて、もし狐 などの変化にやとおぼゆれど、近う寄りて、 「たしかにな む承らまほしき。変らぬ御ありさまならば、たづねきこえ させたまふべき御心ざしも絶えずなむおはしますめるかし。 今宵も行き過ぎがてにとまらせたまへるを、いかが聞こえさ せむ。うしろやすくを」と言へば、女どもうち笑ひて、 「変 らせたまふ御ありさまならば、かかる浅茅が原をうつろひた

まはでははべりなんや。ただ推しはかりて聞こえさせたまへ かし。年経たる人の心にも、たぐひあらじとのみ、めづらか なる世をこそは見たてまつり過ごしはべる」
と、ややくづし 出でて、問はず語りもしつべきがむつかしければ、 「よし よし。まづかくなむ聞こえさせん」とて参りぬ。 源氏、惟光に導かれて邸内にはいる 「などかいと久しかりつる。いかにぞ。 昔の跡も見えぬ蓬のしげさかな」とのたま へば、 「しかじかなむたどり寄りてはべ りつる。侍従がをばの少将といひはべりし老人なん、変らぬ 声にてはべりつる」と、ありさま聞こゆ。いみじうあはれに、 「かかるしげき中に、何心地して過ぐしたまふらむ。今までと はざりけるよ」と、わが御心の情なさも思し知らる。 「い かがすべき。かかる忍び歩きも難かるべきを。かかるついで ならではえ立ち寄らじ。変らぬありさまならば、げにさこそ はあらめと推しはからるる人ざまになむ」とはのたまひなが

ら、ふと入りたまはむこと、なほつつましう思さる。ゆゑあ る御消息もいと聞こえまほしけれど、見たまひしほどの口お そさもまだ変らずは、御使の立ちわづらはむもいとほしう、 思しとどめつ。惟光も、 「さらにえ分けさせたまふまじき蓬 の露けさになむはべる。露すこし払はせてなむ、入らせたま ふべき」と聞こゆれば、 たづねてもわれこそとはめ道もなく深きよもぎのも とのこころを と独りごちて、なほ下りたまへば、御さきの露を馬の鞭して 払ひつつ入れたてまつる。雨そそきも、なほ秋の時雨めきて うちそそけば、 「御かささぶらふ。げに木の下露は、雨に まさりて」と聞こゆ。御指貫の裾はいたうそぼちぬめり。昔 だにあるかなきかなりし中門など、まして形もなくなりて、 入りたまふにつけても、いと無徳なるを、立ちまじり見る人 なきぞ心やすかりける。 末摘花、源氏と対面、和歌を唱和する

姫君は、さりともと、待ち過ぐしたまへる 心もしるくうれしけれど、いと恥づかしき 御ありさまにて対面せんもいとつつましく 思したり。大弐の北の方の奉りおきし御衣どもをも、心ゆか ず思されしゆかりに、見入れたまはざりけるを、この人々の 香の御唐櫃に入れたりけるが、いとなつかしき香したるを奉 りければ、いかがはせむに着かへたまひて、かのすすけたる 御几帳ひき寄せておはす。  入りたまひて、 「年ごろの隔てにも、心ばかりは変らず なん、思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨 めしさに、今まで試みき こえつるを、杉ならぬ木- 立のしるさに、え過ぎで なむ負けきこえにける」 とて、帷子をすこしかき

やりたまへれば、例のいとつつましげに、とみにも答へきこ えたまはず。かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思 ひおこしてぞ、ほのかに聞こえ出でたまひける。 「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれもおろ かならず、また変らぬ心ならひに、人の御心の中もたどり知 らずながら、分け入りはべりつる露けさなどをいかが思す。 年ごろの怠り、はた、なべての世に思しゆるすらむ。今より 後の御心にかなはざらむなん、言ひしに違ふ罪も負ふべき」 など、さしも思されぬことも、情々しう聞こえなしたまふこ とどもあんめり。  たちとどまりたまはむも、所のさまよりはじめ、まばゆき 御ありさまなれば、つきづきしうのたまひすぐして出でたま ひなむとす。ひき植ゑしならねど、松の木高くなりにける年- 月のほどもあはれに、夢のやうなる御身のありさまも思しつ づけらる。

「藤波のうち過ぎがたく見えつるはまつこそ宿のしる しなりけれ 数ふればこよなうつもりぬらむかし。都に変りにける事の多 かりけるも、さまざまあはれになむ。いまのどかにぞ鄙の別 れにおとろへし世の物語も聞こえ尽くすべき。年経たまへら む、春秋の暮らしがたさなども、誰にかは愁へたまはむと、 うらもなくおぼゆるも、かつはあやしうなむ」など聞こえた まへば、 年をへてまつしるしなきわが宿を花のたよりにす ぎぬばかりか と忍びやかにうちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、昔 よりはねびまさりたまへるにや、と思さる。  月入り方になりて、西の妻戸の開きたるより、さはるべき 渡殿だつ屋もなく、軒のつまも残りなければ、いとはなやか にさし入りたれば、あたりあたり見ゆるに、昔に変らぬ御し

つらひのさまなど、忍ぶ草にやつれたる上の見るめよりは、 みやびかに見ゆるを、昔物語に、たふこぼちたる人もありけ るを思しあはするに、同じさまにて年ふりにけるもあはれな り。ひたぶるにものづつみしたるけはひの、さすがにあてや かなるも、心にくく思されて、さる方にて忘れじ、と心苦し く思ひしを、年ごろさまざまのもの思ひにほれぼれしくて隔 てつるほど、つらしと思はれつらむと、いとほしく思す。  かの花散里も、あざやかに今めかしうなどははなやぎたま はぬ所にて、御目移しこよなからぬに、咎多う隠れにけり。 源氏、末摘花を心厚く庇護する 祭、御禊などのほど、御いそぎどもにこと つけて、人の奉りたる物いろいろに多かる を、さるべきかぎり御心加へたまふ。中に も、この宮には、こまやかに思しよりて、睦ましき人々に仰 せ言たまひ、下部どもなど遣はして、蓬払はせ、めぐりの 見苦しきに、板垣といふものうち堅め繕はせたまふ。かうた

づね出でたまへりと聞き伝へんにつけても、わが御ため面目 なければ、渡りたまふことはなし。御文いとこまやかに書き たまひて、二条院近き所を造らせたまふを、 「そこになむ渡 したてまつるべき。よろしき童べなど、求めさぶらはせたま へ」など、人々の上まで思しやりつつ、とぶらひきこえたま へば、かくあやしき蓬のもとには置きどころなきまで、女ば らも空を仰ぎてなむ、そなたに向きてよろこびきこえける。  なげの御すさびにても、おしなべたる世の常の人をば目と どめ耳たてたまはず、世にすこしこれはと思ほえ、心地にと まるふしあるあたりを尋ね寄りたまふものと人の知りたるに、 かくひき違へ、何ごともなのめにだにあらぬ御ありさまをも のめかし出でたまふは、いかなりける御心にかありけむ。こ れも昔の契りなめりかし。  今は限りとあなづりはてて、さまざまに競ひ散りあかれし 上下の人々、我も我も参らむとあらそひ出づる人もあり。心

ばへなど、はた、埋れいたきまでよくおはする御ありさまに、 心やすくならひて、ことなる事なきなま受領などやうの家に ある人は、ならはずはしたなき心地するもありて、うちつけ の心みえに参り帰る。  君は、いにしへにもまさりたる御勢のほとにて、ものの 思ひやりもまして添ひたまひにければ、こまやかに思しおき てたるに、にほひ出でて、宮の内やうやう人目見え、木草の 葉もただすごくあはれに見えなされしを、遣水かき払ひ、前- 栽の本立ちも涼しうしなしなどして、ことなるおぼえなき下- 家司の、ことに仕へまほしきは、かく御心とどめて思さるる ことなめりと見とりて、御気色たまはりつつ、追従し仕うま つる。 末摘花、二条東院に移り住む 二年ばかりこの古宮にながめたまひて、 東の院といふ所になむ、後は渡したてま つりたまひける。対面したまふことなどは、

いと難けれど、近き標のほどにて、おほかたにも渡りたまふ に、さしのぞきなどしたまひつつ、いとあなづらはしげにも てなしきこえたまはず。  かの大弐の北の方上りて驚き思へるさま、侍従が、うれし きものの、いましばし待ちきこえざりける心浅さを恥づかし う思へるほどなどを、いますこし問はず語りもせまほしけれ ど、いと頭いたう、うるさくものうければなむ、いままたも ついであらむをりに、思ひ出でてなむ聞こゆべきとぞ。
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