源氏物語

薫、横川に僧都を訪い、噂を確かめる

The Floating Bridge of Dreams

山におはして、例せさせたまふやうに、経- 仏など供養ぜさせたまふ。またの日は、横- 川におはしたれば、僧都驚きかしこまりき こえたまふ。年ごろ、御祈祷などつけ語らひたまひけれど、 ことにいと親しきことはなかりけるを、このたび一品の宮の 御心地のほどにさぶらひたまヘるに、すぐれたまヘる験もの したまひけりと見たまひてより、こよなう尊びたまひて、い ますこし深き契り加ヘたまひてければ、重々しうおはする殿 のかくわざとおはしましたることと、もて騒ぎきこえたまふ。 御物語などこまやかにしておはすれば、御湯漬などまゐりた まふ。  すこし人々しづまりぬるに、 「小野のわたりに知りたま

ヘる宿やはべる」
と問ひたまヘば、 「しかはべる。いと異- 様なる所になむ。なにがしが母なる朽尼のはべるを、京には かばかしからぬ、住み処もはべらぬうちに、かくて籠りはべ る間は、夜半暁にもあひとぶらはむ、と思ひたまヘおきては べる」など申したまふ。 「そのわたりには、ただ近きころ ほひまで、人多う住みはべりけるを、今は、いとかすかにこ そなりゆくめれ」などのたまひて、いますこし近くゐ寄りて、 忍びやかに、 「いと浮きたる心地もしはべる、また、尋ね きこえむにつけては、いかなりけることにかと心えず思され ぬべきに、かたがた憚られはべれど、かの山里に、知るべき 人の隠ろヘてはべるやうに聞きはべりしを。たしかにてこそ は、いかなるさまにてなども漏らしきこえめ、など思ひたま ふるほどに、御弟子になりて、忌むことなど授けたまひてけ り、と聞きはべるは、まことか。まだ年も若く、親などもあ りし人なれば、ここに失ひたるやうに、かごとかくる人なん

はべるを」
などのたまふ。 僧都、浮舟発見以来の始終を薫に語る 僧都、 「さればよ。ただ人と見えざりし人 のさまぞかし。かくまでのたまふは、軽々 しくは思されざりける人にこそあめれ」と 思ふに、法師といひながら、心もなく、たちまちにかたちを やつしてけること、と胸つぶれて、答ヘきこえむやう思ひま はさる。 「たしかに聞きたまヘるにこそあめれ。かばかり心 えたまひてうかがひ尋ねたまはむに、隠れあるべきことにも あらず、なかなかあらがひ隠さむにあいなかるべし」などと ばかり思ひえて、 「いかなることにかはべりけむ。この 月ごろ、うちうちにあやしみ思うたまふる人の御ことにや」 とて、 「かしこにはべる尼どもの、初瀬に願はべりて詣で て帰りける道に、宇治院といふ所にとどまりてはべりけるに、 母の尼の労気にはかにおこりていたくなむわづらふ、と告げ に、人の参うで来たりしかば、まかりむかひたりしに、まづ

あやしきことなむ」
とささめきて、 「親の死にかヘるをば さしおきてもてあつかひ嘆きてなむはべりし。この人も、亡 くなりたまヘるさまながら、さすがに息は通ひておはしけれ ば、昔物語に、魂殿に置きたりけむ人のたとひを思ひ出でて、 さやうなることにやとめづらしがりはべりて、弟子ばらの中 に験ある者どもを呼び寄せつつ、かはりがはりに加持せさせ などなむしはべりける。なにがしは、惜しむべき齢ならねど、 母の旅の空にて病重きを、助けて念仏をも心乱れずせさせむ と、仏を念じたてまつり思うたまヘしほどに、その人のあり さまくはしうも見たまヘずなむはべりし。事の心推しはかり 思うたまふるに、天狗木霊などやうのものの、あざむき率て たてまつりたりけるにや、となむ承りし。助けて京に率てた てまつりて後も、三月ばかりは亡き人にてなむものしたまひ けるを、なにがしが妹、故衛門督の北の方にてはべりしが尼 になりてはべるなむ、一人持ちてはべりし女子を失ひて後、

月日は多く隔てはべりしかど、悲しびたヘず嘆き思ひたまヘ はべるに、同じ年のほどと見ゆる人の、かく容貌いとうるは しくきよらなるを見出でたてまつりて、観音の賜ヘる、とよ ろこび思ひて、この人いたづらになしたてまつらじとまどひ 焦られて、泣く泣くいみじきことどもを申されしかば、後に なむ、かの坂本にみづから下りはべりて、護身など仕まつり しに、やうやう生き出でて人となりたまヘりけれど、なほこ の領じたりける物の身に離れぬ心地なむする、このあしき物 の妨げをのがれて、後の世を思はんなど、悲しげにのたまふ ことどものはべりしかば、法師にては、勧めも申しつべきこ とにこそはとて、まことに出家せしめたてまつりてしにはべ る。さらに、しろしめすべきこととはいかでかそらにさとり はべらん。めづらしき事のさまにもあるを、世語にもしはべ りぬべかりしかど、聞こえありてわづらはしかるべきことに もこそと、この老人どものとかく申して、この月ごろ音なく

てはべりつるになむ」
と申したまヘば、さてこそあなれ、と ほの聞きて、かくまでも問ひ出でたまヘることなれど、むげ に亡き人と思ひはてにし人を、さは、まことにあるにこそは、 と思すほど、夢の心地してあさましければ、つつみもあヘず 涙ぐまれたまひぬるを、僧都の恥づかしげなるに、かくまで 見ゆべきことかは、と思ひ返して、つれなくもてなしたまへ ど、かく思しけることをこの世には亡き人と同じやうになし たることと、過ちしたる心地して罪深ければ、 「あしき物 に領ぜられたまひけむも、さるべき前の世の契りなり。思 ふに、高き家の子にこそものしたまひけめ、いかなるあやま りにて、かくまではふれたまひけむにか」と問ひ申したまヘ ば、 「なまわかむどほりなどいふべき筋にやありけん。こ こにも、もとよりわざと思ひしことにもはべらず。ものはか なくて見つけそめてははべりしかど、また、いとかくまで落 ちあふるべき際とは思ひたまヘざりしを。めづらかに跡もな

く消え失せにしかば、身を投げたるにやなど、さまざまに疑 ひ多くて、たしかなることはえ聞きはべらざりつるになむ。 罪軽めてものすなれば、いとよしと心やすくなんみづからは 思ひたまヘなりぬるを、母なる人なむいみじく恋ひ悲しぶな るを、かくなむ聞き出でたる、と告げ知らせまほしくはべれ ど、月ごろ隠させたまひける本意違ふやうに、もの騒がしく やはべらん。親子の中の思ひ絶えず、悲しびにたヘで、とぶ らひものしなどしはべりなんかし」
などのたまひて、さて、 「いと便なきしるべとは思すとも、かの坂本に下りたまヘ。 かばかり聞きて、なのめに思ひ過ぐすべくは思ひはべらざり し人なるを、夢のやうなることどもも、今だに語りあはせん となむ思ひたまふる」とのたまふ気色、いとあはれと思ひた まヘれば、 「かたちを変ヘ、世を背きにき、とおぼえたれど、 髪鬢を剃りたる法師だに、あやしき心は失せぬもあなり。ま して女の御身はいかがあらむ。いとほしう、罪えぬべきわざ

にもあるべきかな」
と、あぢきなく心乱れぬ。 「まかり下 りむこと、今日明日は障りはべる。月たちてのほどに、御消- 息を申させはべらん」と申したまふ。いと心もとなけれど、 なほなほとうちつけに焦られむもさまあしければ、さらば、 とて帰りたまふ。 薫、浮舟につき他意なきことを僧都に語る かの御せうとの童、御供に率ておはしたり けり。ことはらからどもよりは、容貌もき よげなるを、呼び出でたまひて、 「これ なむ、その人の近きゆかりなるを、これをかつがつものせん。 御文一行賜ヘ。その人とはなくて、ただ、尋ねきこゆる人な むある、とばかりの心を知らせたまヘ」とのたまヘば、 「なにがし、このしるべにて、必ず罪えはべりなん。事のあ りさまはくはしくとり申しつ。今は、御みづから立ち寄らせ たまひて、あるべからむことはものせさせたまはむに、何の 咎かはべらむ」と申したまヘば、うち笑ひて、 「罪えぬべ

きしるべと思ひなしたまふらんこそ恥づかしけれ。ここには、 俗のかたちにて今まで過ぐすなむいとあやしき。いはけなか りしより、思ふ心ざし深くはべるを、三条宮の心細げにて、 頼もしげなき身ひとつをよすがに思したるが避りがたき絆に おぼえはべりて、かかづらひはべりつるほどに、おのづから 位などいふことも高くなり、身のおきても心にかなひがたく などして、思ひながら過ぎはべるには、またえ避らぬことも 数のみ添ひつつは過ぐせど、公私にのがれがたきことにつ けてこそさもはべらめ、さらでは、仏の制したまふ方のこと を、わづかにも聞きおよばむことはいかであやまたじ、とつ つしみて、心の中は聖に劣りはべらぬものを。まして、いと はかなきことにつけてしも、重き罪うべきことはなどてか思 ひたまヘむ。さらにあるまじきことにはべり。疑ひ思すまじ。 ただ、いとほしき親の思ひなどを、聞きあきらめはべらんば かりなむ、うれしう心やすかるべき」
など、昔より深かりし

方の心ばヘを語りたまふ。 小君、僧都の紹介状を得て帰途につく 僧都も、げに、とうなづきて、 「いとど尊 きこと」など聞こえたまふほどに日も暮れ ぬれば、中宿もいとよかりぬべけれど、う はの空にてものしたらんこそ、なほ便なかるべけれ、と思ひ わづらひて帰りたまふに、このせうとの童を、僧都、目とめ てほめたまふ。 「これにつけて、まづほのめかしたまヘ」 と聞こえたまヘば、文書きてとらせたまふ。 「時々は、山 におはして遊びたまヘよ」と、 「すずろなるやうには思すま じきゆゑもありけり」とうち語らひたまふ。この子は、心も えねど、文とりて御供に出づ。坂本になれば、御前の人々す こし立ちあかれて、 「忍びやかにを」とのたまふ。 浮舟、薫の帰途を見、念仏に思いを紛らす 小野には、いと深く茂りたる青葉の山に向 ひて、紛るることなく、遣水の螢ばかりを 昔おぼゆる慰めにてながめゐたまヘるに、

例の、遥かに見やらるる谷の軒端より、前駆心ことに追ひて、 いと多うともしたる灯ののどかならぬ光を見るとて、尼君た ちも端に出でゐたり。 「誰がおはするにかあらん。御前な どいと多くこそ見ゆれ」 「昼、あなたにひきぼし奉れた りつる返り事に、大将殿おはしまして、御饗のことにはかに するを、いとよきをりなりとこそありつれ」 「大将殿とは、 この女二の宮の御夫にやおはしつらん」など言ふも、いとこ の世遠く、田舎びにたりや。まことにさにやあらん、時々か かる山路分けおはせし時、いとしるかりし随身の声も、うち つけにまじりて聞こゆ。月日の過ぎゆくままに、昔のことの かく思ひ忘れぬも、今は何にすべきことぞと心憂ければ、阿- 弥陀仏に思ひ紛らはして、いとどものも言はでゐたり。横川 に通ふ人のみなむ、このわたりには近きたよりなりける。 薫、小君らを内密の使者として派遣する

かの殿は、この子をやがてやらん、と思し けれど、人目多くて便なければ、殿に帰り たまひて、またの日、ことさらにぞ出だし 立てたまふ。睦ましく思す人の、ことごとしからぬ二三人送 りにて、昔も常に遣はしし随身添ヘたまヘり。人聞かぬ間に 呼び寄せたまひて、 「あこが亡せにしいもうとの顔はおぼ ゆや。今は世に亡き人と思ひはてにしを、いとたしかにこそ ものしたまふなれ。うとき人には聞かせじと思ふを、行きて たづねよ。母に、いまだしきに言ふな。なかなか驚き騒がむ ほどに知るまじき人も知りなむ。その親の御思ひのいとほし さにこそ、かくも尋ぬれ」と、まだきにいと口固めたまふを、 幼き心地にも、はらからは多かれど、この君の容貌をば似る ものなしと思ひしみたりしに、亡せたまひにけりと聞きて、 いと悲しと思ひわたるに、かくのたまヘば、うれしきにも涙 の落つるを、恥づかしと思ひて、 「を、を」と荒らかに聞

こえゐたり。 妹尼、僧都の手紙で浮舟・薫の関係を知る かしこには、まだつとめて、僧都の御もと より、
昨夜、大将殿の御使にて、小君や参う    でたまヘりし。事の心承りしに、あぢきなく、かヘりて    臆しはべりてなむ、と姫君に聞こえたまヘ。みづから聞    こえさすべきことも多かれど、今日明日過ぐしてさぶら    ふべし。 と書きたまヘり。これは何ごとぞ、と尼君驚きて、こなたヘ もて渡りて見せたてまつりたまヘば、面うち赤みて、ものの 聞こえのあるにやと苦しう、もの隠ししけると恨みられんを 思ひつづくるに、答ヘむ方なくてゐたまヘるに、 「なほの たまはせよ。心憂く思し隔つること」と、いみじく恨みて、 事の心を知らねば、あわたたしきまで思ひたるほどに、 「山より、僧都の御消息にて、参りたる人なむある」と言ひ

入れたり。 小君来訪 浮舟、小君を見て母を思う あやしけれど、 「これこそは、さは、た しかなる御消息ならめ」とて、 「こなたに」 と言はせたれば、いときよげにしなやかな る童の、えならず装束きたるぞ歩み来たる。円座さし出でた れば、簾のもとについゐて、 「かやうにてはさぶらふまじ くこそは、僧都は、のたまひしか」と言ヘば、尼君ぞ答ヘな どしたまふ。文とり入れて見れば、 「入道の姫君の御方に。 山より」とて、名書きたまヘり。あらじ、などあらがふべき やうもなし。いとはしたなくおぼえて、いよいよ引き入られ て、人に顔も見あはせず。 「常も、誇りかならずものした まふ人柄なれど、いとうたて心憂し」など言ひて、僧都の御- 文見れば、 今朝、ここに、大将殿のものしたまひて、御ありさま尋    ね問ひたまふに、はじめよりありしやうくはしく聞こえ

  はべりぬ。御心ざし深かりける御仲を背きたまひて、あ   やしき山がつの中に出家したまヘること。かヘりては、   仏の責そふべきことなるをなむ、承り驚きはべる。いか   がはせむ。もとの御契り過ちたまはで、愛執の罪をはる   かしきこえたまひて、一日の出家の功徳ははかりなきも   のなれば、なほ頼ませたまヘ、となむ。ことごとには、   みづからさぶらひて申しはべらん。かつがつこの小君聞   こえたまひてん。
と書いたり。  まがふべくもあらず書きあきらめたまヘれど、他人は心も えず。 「この君は、誰にかおはすらん。なほ、いと心憂 し。今さヘ、かく、あながちに隔てさせたまふ」と責められ て、すこし外ざまに向きて見たまヘば、この子は、今はと世 を思ひなりし夕暮にも、いと恋しと思ひし人なりけり。同じ 所にて見しほどは、いとさがなく、あやにくにおごりて憎か

りしかど、母のいとかなしくして、宇治にも時々率ておはせ しかば、すこしおよすけしままにかたみに思ヘりし童心を思 ひ出づるにも、夢のやうなり。まづ、母のありさまいと問は まほしく、こと人々の上はおのづからやうやう聞けど、親の おはすらむやうはほのかにもえ聞かずかしと、なかなかこれ を見るにいと悲しくて、ほろほろと泣かれぬ。 浮舟、小君との対面をしぶる 小君不満 いとをかしげにて、すこしうちおぼえたま ヘる心地もすれば、 「御はらからにこそ おはすめれ。聞こえまほしく思すこともあ らむ。内に入れたてまつらん」と言ふを、何か、今は世にあ るものとも思はざらむに、あやしきさまに面変りしてふと見 えむも恥づかし、と思ヘば、とばかりためらひて、 「げに 隔てあり、と思しなすらんが苦しさに、ものも言はれでなむ。 あさましかりけんありさまは、めづらかなる事と見たまひて けんを、さてうつし心も失せ、魂などいふらむものもあらぬ

さまになりにけるにやあらん、いかにもいかにも、過ぎにし 方のことを、我ながらさらにえ思ひ出でぬに、紀伊守とかあ りし人の世の物語すめりし中になむ、見しあたりのことにや、 とほのかに思ひ出でらるることある心地せし。その後、とざ まかうざまに思ひつづくれど、さらにはかばかしくもおぼえ ぬに、ただ一人ものしたまひし人の、いかで、とおろかなら ず思ひためりしを、まだや世におはすらんと、そればかりな む心に離れず悲しきをりをりはべるに、今日見れば、この童 の顔は小さくて見し心地するにもいと忍びがたけれど、今さ らに、かかる人にもありとは知られでやみなむとなん思ひは べる。かの人もし世にものしたまはば、それ一人になむ対面 せまほしく思ひはべる。この僧都ののたまヘる人などには、 さらに知られたてまつらじとこそ思ひはべれ。かまヘて、ひ が事なりけり、と聞こえなして、もて隠したまヘ」
とのたま ヘば、 「いと難いことかな。僧都の御心は、聖といふ中に

も、あまり隈なくものしたまヘば、まさに残いては聞こえた まひてんや。後に隠れあらじ。なのめに軽々しき御ほどにも おはしまさず」
など、言ひ騒ぎて、 「世に知らず心強くおは しますこそ」と、みな言ひあはせて、母屋の際に几帳たてて 入れたり。  この子も、さは聞きつれど、幼ければ、ふと言ひ寄らむも つつましけれど、 「またはべる御文、いかで奉らん。僧都 の御しるべは、たしかなるを、かくおぼつかなくはべるこ そ」と、伏目にて言ヘば、 「そそや。あなうつくし」など 言ひて、 「御文御覧ずべき人は、ここにものせさせたまふ めり。顕証の人なむ、いかなることにか、と心得がたくはべ るを、なほのたまはせよ。幼き御ほどなれど、かかる御しる べに頼みきこえたまふやうもあらむ」など言ヘど、 「思し 隔てて、おぼおぼしくもてなさせたまふには、何ごとをか聞 こえはべらん。うとく思しなりにければ、聞こゆべきことも

はべらず。ただ、この御文を、人づてならで奉れとてはべり つる、いかで奉らむ」
と言ヘば、 「いとことわりなり。な ほ、いとかくうたてなおはせそ。さすがにむくつけき御心に こそ」と聞こえ動かして、几帳のもとに押し寄せたてまつり たれば、あれにもあらでゐたまヘる、けはひこと人には似ぬ 心地すれば、そこもとに寄りて奉りつ。 「御返りとく賜は りて、参りなむ」と、かくうとうとしきを、心憂しと思ひて、 急ぐ。 浮舟、薫の手紙を見、人違いと返事を拒む 尼君、御文ひき解きて見せたてまつる。あ りしながらの御手にて、紙の香など、例の、 世づかぬまでしみたり。ほのかに見て、例 の、ものめでのさし過ぎ人、いとあり難くをかし、と思ふ べし    さらに聞こえむ方なく、さまざまに罪重き御心をば、   僧都に思ひゆるしきこえて、今は、いかで、あさましか

  りし世の夢語をだに、と急がるる心の、我ながらもどか   しきになん。まして、人目はいかに。
と、書きもやりたまはず。    法の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまど   ふかな   この人は、見や忘れたまひぬらん。ここには、行く方な   き御形見に見るものにてなん。 などいとこまやかなり。かくつぶつぶと書きたまヘるさまの、 紛らはさむ方なきに、さりとて、その人にもあらぬさまを、 思ひのほかに見つけられきこえたらんほどの、はしたなさな どを思ひ乱れて、いとどはればれしからぬ心は、言ひやるべ き方もなし。  さすがにうち泣きてひれ臥したまヘれば、いと世づかぬ御 ありさまかな、と見わづらひぬ。 「いかが聞こえん」など せめられて、 「心地のかき乱るやうにしはべるほどためら

ひて、いま聞こえむ。昔のこと思ひ出づれど、さらにおぼゆ ることもなく、あやしう、いかなりける夢にか、とのみ心も えずなむ。すこし静まりてや、この御文なども見知らるるこ ともあらむ。今日は、なほ、持て参りたまひね。所違ヘにも あらんに、いとかたはらいたかるべし」
とて、ひろげながら、 尼君にさしやりたまヘれば、 「いと見苦しき御ことかな。 あまりけしからぬは、見たてまつる人も、罪避りどころなか るべし」など言ひ騒ぐも、うたて聞きにくくおぼゆれば、顔 もひき入れて臥したまヘり。 小君、姉に会わず、むなしく帰途につく 主、その小君に物語すこし聞こえて、 「物の怪にやおはすらん、例のさまに見え たまふをりなく、悩みわたりたまひて、御 かたちも異になりたまヘるを、尋ねきこえたまふ人あらばい とわづらはしかるべきことと、見たてまつり嘆きはべりしも しるく、かくいとあはれに心苦しき御ことどものはべりける

を、今なむいとかたじけなく思ひはべる。日ごろも、うちは ヘ悩ませたまふめるを、いとどかかることどもに思し乱るる にや、常よりもものおぼえさせたまはぬさまにてなむ」
と聞 こゆ。所につけてをかしき饗などしたれど、幼き心地は、そ こはかとなくあわてたる心地して、 「わざと奉れさせたま ヘるしるしに、何ごとをかは聞こえさせむとすらん。ただ一- 言をのたまはせよかし」など言ヘば、 「げに」など言ひて、 かくなむ、と移し語れども、ものものたまはねば、かひなく て、 「ただ、かく、おぼつかなき御ありさまを聞こえさせ たまふべきなめり。雲の遥かに隔たらぬほどにもはべるめる を、山風吹くとも、またも、必ず立ち寄らせたまひなむか し」と言ヘば、すずろにゐ暮らさんもあやしかるべければ、 帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをもえ見ずなり ぬるを、おぼつかなく口惜しくて、心ゆかずながら参りぬ。 薫、浮舟の心をはかりかねて、思い迷う

いつしかと待ちおはするに、かくたどたど しくて帰り来たれば、すさまじく、なかな かなり、と思すことさまざまにて、人の隠 しすゑたるにやあらむと、わが御心の、思ひ寄らぬ隈なく落 しおきたまヘりしならひにとぞ、本にはべめる。
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