源氏物語

薫浮舟を求めつつ躊躇 中将の君も遠慮す

The Eastern Cottage

筑波山を分け見まほしき御心はありながら、 端山の繁りまであながちに思ひ入らむも、 いと人聞き軽々しうかたはらいたかるべき ほどなれば、思し憚りて、御消息をだにえ伝へさせたまはず。 かの尼君のもとよりぞ、母北の方に、のたまひしさまなどた びたびほのめかしおこせけれど、まめやかに御心とまるべき 事とも思はねば、たださまでも尋ね知りたまふらんこととば かりをかしう思ひて、人の御ほどのただ今世にあり難げなる をも、数ならましかばなどぞ、よろづに思ひける。 中将の君、とくに浮舟の良縁を切願する 守の子どもは、母亡くなりにけるなどあま た、この腹にも姫君とつけてかしづくあり、 まだ幼きなど、すぎすぎに五六人ありけれ

ば、さまざまにこのあつかひをしつつ、他人と思ひ隔てたる 心のありければ、常にいとつらきものに守をも恨みつつ、い かでひきすぐれて面だたしきほどにしなしても見えにしがな と、明け暮れ、この母君は思ひあつかひける。さま容貌のな のめにとりまぜてもありぬべくは、いとかうしも、何かは苦 しきまでももて悩ままし、同じごと思はせてもありぬべきを、 ものにもまじらず、あはれにかたじけなく生ひ出でたまへば、 あたらしく心苦しきものに思へり。  むすめ多かりと聞きて、なま君達めく人々もおとなひ言ふ、 いとあまたありけり。はじめの腹の二三人は、みなさまざま にくばりて、おとなびさせたり。今は、わが姫君を、思ふや うにて見たてまつらばやと、明け暮れまもりて、撫でかしづ くこと限りなし。 常陸介の人柄と生活 左近少将の求婚

守も賎しき人にはあらざりけり。上達部の 筋にて、仲らひもものきたなき人ならず、 徳いかめしうなどあれば、ほどほどにつけ ては思ひあがりて、家の内もきらきらしくものきよげに住み なし、事好みしたるほどよりはあやしう荒らかに田舎びたる 心ぞつきたりける。若うより、さる東国の方の遥かなる世界 に埋もれて年経ければにや、声などほとほとうちゆがみぬべ く、ものうち言ふすこしたみたるやうにて、豪家のあたり恐 ろしくわづらはしきものに憚り怖ぢ、すべていとまたく隙間 なき心もあり。をかしきさまに、琴笛の道は遠う、弓をなん いとよくひきける。なほなほしきあたりとも言はず、勢にひ かされて、よき若人ども集ひ、装束ありさまはえならずとと のへつつ、腰折れたる歌合はせ、物語庚申をし、まばゆく見- 苦しく遊びがちに好めるを、この懸想の君達、「らうらうじ くこそあるべけれ。容貌なんいみじかなる」などをかしき方

に言ひなして心を尽くしあへる中に、左近少将とて、年二十- 二三ばかりのほどにて、心ばせしめやかに、才ありといふ方 は人にゆるされたれど、きらきらしういまめいてなどはえあ らぬにや、通ひし所なども絶えて、いとねむごろに言ひわた りけり。 少将、浮舟と婚約 介、実の娘に尽くす この母君、あまたかかること言ふ人々の中 に、 「この君は人柄もめやすかなり。心定 まりてもの思ひ知りぬべかなるを、人もあ てなり、これよりまさりてことごとしき際の人、はた、かか るあたりを、さいへど、尋ね寄らじ」と思ひて、この御方に 取りつぎて、さるべきをりをりは、をかしきさまに返り事な どせさせたてまつる。心ひとつに思ひまうけて、守こそおろ かに思ひなすとも、我は命を譲りてかしづきて、さま容貌の めでたきを見つきなば、さりとも、おろかになどはよも思ふ 人あらじと思ひたちて、八月ばかりと契りて、調度をまうけ、

はかなき遊び物をせさせても、さまことにやうをかしう、蒔- 絵螺鈿のこまやかなる心ばへまさりて見ゆる物をば、この御- 方にととり隠して、劣りのを、 「これなむよき」とて見すれ ば、守はよくしも見知らず、そこはかとなき物どもの人の調- 度といふかぎりはただとり集めて並べ据ゑつつ、目をはつか にさし出づばかりにて。琴琵琶の師とて、内教坊のわたりよ り迎へとりつつ習はす。手ひとつ弾きとれば、師を起居拝み てよろこび、禄を取らすること埋むばかりにてもて騒ぐ。は やりかなる曲物など教へて、師と、をかしき夕暮などに、弾 き合はせて遊ぶ時は、涙もつつまず、をこがましきまでさす がにものめでしたり。かかる事どもを、母君は、すこしもの のゆゑ知りて、いと見苦しと思へば、ことにあへしらはぬを、 「あこをば思ひおとしたまへり」と、常に恨みけり。 少将、浮舟が介の実子ならぬを知り腹立つ

かくて、かの少将、契りしほどを待ちつけ で、 「同じくはとく」と責めければ、わが 心ひとつにかう思ひいそぐもいとつつまし う、人の心の知りがたさを思ひて、はじめより伝へそめける 人の来たるに、近う呼び寄せて語らふ。 「よろづ多く思 ひ憚ることの多かるを。月ごろかうのたまひてほど経ぬるを、 並々の人にもものしたまはねば、かたじけなう心苦しうて。 かう思ひたちにたるを、親などものしたまはぬ人なれば、心 ひとつなるやうにて、かたはらいたう、うちあはぬさまに見 えたてまつることもやと、かねてなん思ふ。若き人々あまた はべれど、思ふ人具したるは、おのづからと思ひ譲られて、 この君の御ことをのみなむ、はかなき世の中を見るにも、う しろめたくいみじきを、もの思ひ知りぬべき御心ざまと聞き て、かうよろづのつつましさを忘れぬべかめるも、もし思は ずなる御心ばへも見えば、人わらへに悲しうなんあるべき」

と言ひけるを、少将の君に参うでて、 「しかじかなん」と申 しけるに、気色あしくなりぬ。 「はじめより、さらに、守の御むすめにあらずといふこ とをなむ聞かざりつる。同じことなれど、人聞きもけ劣りた る心地して、出で入りせむにもよからずなんあるべき。よう も案内せで、浮かびたることを伝へける」とのたまふに、い とほしくなりて、「くはしくも知りたまへず。女どもの知 るたよりにて、仰せ言を伝へはじめはべりしに、中にかしづ くむすめとのみ聞きはべれば、守のにこそは、とこそ思ひた まへつれ。他人の子持たまへらむとも、問ひ聞きはべらざり つるなり。容貌心もすぐれてものしたまふこと、母上のかな しうしたまひて、面だたしう気高きことをせん、とあがめか しづかると聞きはべりしかば、いかでかの辺のこと伝へつべ からん人もがなとのたまはせしかば、さるたより知りたまへ り、ととり申ししなり。さらに、浮かびたる罪はべるまじき

ことなり」
と、腹あしく言葉多かるものにて、申すに、君、 いとあてやかならぬさまにて、 「かやうのあたりに行き通 はむ、人のをさをさゆるさぬことなれど、今様のことにて咎 あるまじう、もてあがめて後見だつに罪隠してなむあるたぐ ひもあめるを、同じことと内々には思ふとも、よそのおぼえ なむ、へつらひて人言ひなすべき。源少納言、讚岐守などの うけばりたる気色にて出で入らむに、守にもをさをさ承けら れぬさまにてまじらはんなむ、いと人げなかるべき」とのた まふ。 少将、介との縁組を欲して実の娘を所望す この人追従あり、うたてある人の心にて、 これをいと口惜しうこなたかなたに思ひけ れば、 「まことに守のむすめと思さば、 まだ若うなどおはすとも、しか伝へはべらんかし。中に当る なん、姫君とて、守はいとかなしうしたまふなる」と聞こゆ。 「いさや。はじめよりしか言ひ寄れることをおきて、また

言はんこそうたてあれ。されど、わが本意は、かの守の主の 人柄もものものしく大人しき人なれば、後見にもせまほしう、 見るところありて思ひはじめしことなり。もはら顔容貌のす ぐれたらん女の願ひもなし。品あてに艶ならん女を願はば、 やすくえつべし。されど、さびしう事うちあはぬみやび好め る人のはてはては、ものきよくもなく、人にも人ともおぼえ たらぬを見れば、すこし人に譏らるとも、なだらかにて世の 中を過ぐさむことを願ふなり。守に、かくなんと語らひて、 さもとゆるす気色あらば、何かはさも」
とのたまふ。 常陸介、少将の意向を知って満足する この人は、妹のこの西の御方にあるたより に、かかる御文などもとり伝へはじめけれ ど、守にはくはしくも見え知られぬ者なり けり。ただ行きに守のゐたりける前に行きて、 「とり申す べきことありてなむ」と言はす。守、 「このわたりに時々出 で入りはすと聞けど、前には呼び出でぬ人の、何ごと言ひに

かあらん」
と、なま荒々しき気色なれど、 「左近少将殿の 御消息にてなむさぶらふ」と言はせたれば、会ひたり。語ら ひがたげなる顔して、近うゐ寄りて、 「月ごろ内の御方に 消息聞こえさせたまふを、御ゆるしありて、この月のほどに、 と契りきこえさせたまふことはべるを、日をはからひて、い つしか、と思ほすほどに、ある人の申しけるやう、まことに 北の方の御腹にものしたまへど、守の殿の御むすめにはおは せず、君達のおはし通はむに、世の聞こえなんへつらひたる やうならむ、受領の御婿になりたまふかやうの君たちは、た だ私の君のごとく思ひかしづきたてまつり、手に捧げたるご と思ひあつかひ後見たてまつるにかかりてなむ、さるふるま ひしたまふ人々ものしたまふめるを、さすがにその御願ひは あながちなるやうにて、をさをさ承けられたまはで、け劣り ておはし通はんこと便なかるべきよしをなむ、切に譏り申す 人々あまたはべるなれば、ただ今思しわづらひてなむ、はじ

めよりただきらきらしう、人の後見と頼みきこえんに、たへ たまへる御おぼえを選び申して、聞こえはじめ申ししなり。 さらに、他人ものしたまふらんといふこと知らざりければ、 本の心ざしのままに、まだ幼きもあまたおはすなるをゆるい たまはば、いとうれしくなむ、御気色見て参うで来、と仰せ られつれば」
と言ふに、守、 「さらに、かかる御消息はべる よし、くはしく承らず。まことに同じことに思うたまふべき 人なれど、よからぬ童べあまたはべりて、はかばかしからぬ 身に、さまざま思ひたまへあつかふほどに 母なるものも、 これを他人と思ひわけたること、とくねり言ふことはべりて、 ともかくも口入れさせぬ人のことにはべれば、ほのかに、し かなむ仰せらるることはべりとは聞きはべりしかど、なにが しを取りどころに思しける御心は知りはべらざりけり。さる は、いとうれしく思ひたまへらるる御ことにこそはべるなれ。 いとらうたしと思ふ女の童は、あまたの中に、これをなん命

にもかへむと思ひはべる。のたまふ人々あれど、今の世の人 の御心さだめなく聞こえはべるに、なかなか胸いたき目をや 見むの憚りに、思ひさだむることもなくてなん。いかでうし ろやすくも見たまへおかんと、明け暮れかなしく思うたまふ るを、少将殿におきたてまつりては、故大将殿にも、若くよ り参り仕うまつりき。家の子にて見たてまつりしに、いと警- 策に、仕うまつらまほしと、心つきて思ひきこえしかど、遥 かなる所にうちつづきて過ぐしはべる年ごろのほどに、うひ うひしくおぼえはべりてなん、参りも仕まつらぬを、かかる 御心ざしのはべりけるを。かへすがへす、仰せのごと奉らむ はやすきことなれど、月ごろの御心違へたるやうに、この人 の思ひたまへんことをなん、思うたまへ憚りはべる」
と、い とこまやかに言ふ。 仲人、少将の人物を大げさに称賛する

よろしげなめり、とうれしく思ふ。 「何 かと思し憚るべきことにもはべらず。かの 御心ざしは、ただ一ところの御ゆるしはべ らむを願ひ思して、いはけなく年足らぬほどにおはすとも、 真実のやむごとなく思ひおきてたまへらんをこそ、本意かな ふにはせめ。もはら、さやうのほとりばみたらむふるまひす べきにもあらず、となむのたまひつる。人柄はいとやむごと なく、おぼえ心にくくおはする君なりけり。若き君たちとて、 すきずきしくあてびてもおはしまさず、世のありさまもいと よく知りたまへり。領じたまふ所どころもいと多くはべり。 まだころの御徳なきやうなれど、おのづからやむごとなき人 の御けはひのありけるやう、直人の限りなき富、といふめる 勢にはまさりたまへり。来年四位になりたまひなむ。こた みの頭は疑ひなく、帝の御口づからごてたまへるなり。よろ づのこと足らひてめやすき朝臣の妻をなん定めざなる。は

や、さるべき人選りて後見をまうけよ。上達部には、我しあ れば、今日明日といふばかりになし上げてん、とこそ仰せら るなれ。何ごとも、ただこの君ぞ、帝にも親しく仕うまつり たまふなる。御心、はた、いみじう警策に、重々しくなんお はしますめる。あたら人の御婿を。かう聞きたまふほどに思 ほしたちなむこそよからめ。かの殿には、我も我も婿にとり たてまつらんと、所どころにはべるなれば、ここにしぶしぶ なる御けはひあらば、外ざまにも思しなりなん。これ、ただ、 うしろやすきことをとり申すなり」
と、いと多く、よげに言 ひつづくるに、いとあさましく鄙びたる守にて、うち笑みつ つ聞きゐたり。 介、少将を婿に望む 少将妹にのりかえる 「このごろの御徳などの心もとなから むことは、なのたまひそ。なにがし命はべ らむほどは、頂にも捧げたてまつりてん。 心もとなく何を飽かぬとか思すべき。たとひ、あへずして、

仕うまつりさしつとも、残りの宝物、領じはべる所どころ、 ひとつにてもまたとり争ふべき人なし。子ども多くはべれど、 これはさまことに思ひそめたる者にはべり。ただ真心に思し かへりみさせたまはば、大臣の位を求めむと思し願ひて、世 になき宝物をも尽くさむとしたまはんに、なき物はべるまじ。 当時の帝、しか恵み申したまふなれば、御後見は心もとなか るまじ。これ、かの御ためも、なにがしが女の童のためにも、 幸ひとあるべきことにや、とも知らず」
と、よろしげに言ふ 時に、いとうれしくなりて、妹にもかかることありとも語ら ず、あなたにも寄りつかで、守の言ひつることを、いともい ともよげにめでたし、と思ひて聞こゆれば、君、すこし鄙び てぞある、とは聞きたまへど、憎からず、うち笑みて聞きゐ たまへり。大臣にならむ贖労を取らんなどぞ、あまりおどろ おどろしきことと耳とどまりける。 「さて、かの北の方 にはかくとものしつや。心ざしことに思ひはじめたまふらん

に、ひき違へたらむ、ひがひがしくねぢけたるやうにとりな す人もあらん。いさや」
と思したゆたひたるを、 「何か。 北の方も、かの姫君をばいとやむごとなきものに思ひかしづ きたてまつりたまふなり。ただ、中のこのかみにて、年もお となびたまふを心苦しきことに思ひて、そなたにとおもむけ て申されけるなりけり」と聞こゆ。月ごろは、またなく、世 の常ならずかしづく、と言ひつるものの、うちつけにかく言 ふもいかならむ、と思へども、なほ一わたりはつらしと思は れ、人にはすこし譏らるとも、ながらへて頼もしきことをこ そと、いとまたく賢き君にて、思ひとりてければ、日をだに とりかへで、契りし暮にぞおはしはじめける。 浮舟の結婚の準備 常陸介破談を告げる 北の方は人知れずいそぎたちて、人々の装- 束せさせ、しつらひなどよしよししうした まふ。御方をも、頭洗はせ、とりつくろひ て見るに、少将などいふほどの人に見せんも惜しくあたらし

きさまを、 「あはれや、親に知られたてまつりて生ひ立ちた まはましかば、おはせずなりにたれども、大将殿ののたまふ らんさまに、おほけなくともなどかは思ひたたざらまし。さ れど、内々にこそかく思へ、外の音聞きは、守の子とも思ひ わかず、また、実を尋ね知らむ人もなかなかおとしめ思ひぬ べきこそ悲しけれ」など思ひつづく。 「いかがはせむ。さか り過ぎたまはんもあいなし。賎しからずめやすきほどの人の かくねむごろにのたまふめるを」など、心ひとつに思ひ定む るも、仲人のかく言よくいみじきに、女は、まして、すかさ れたるにやあらん。明日明後日と思へば、心あわたたしく急 がしきに、こなたにも心のどかにゐられたらず、そそめき歩 くに、守、外より入り来て、長々と、とどこほるところもな く言ひつづけて、 「我を思ひ隔てて、あこの御懸想人を 奪はむとしたまひけるが、おほけなく心幼きこと。めでたか らむ御むすめをば、要ぜさせたまふ君達あらじ。賤しく異や

うならむなにがしらが女子をぞ、いやしうも尋ねのたまふめ れ。かしこく思ひくはだてられけれど、もはら本意なしとて、 外ざまへ思ひなりたまひぬべかむなれば、同じくは、と思ひ てなん、さらば御心、とゆるし申しつる」
など、あやしく奥 なく、人の思はむところも知らぬ人にて、言ひ散らしゐたり。 北の方あきれて、ものも言はれで、とばかり思ふに、心憂さ をかきつらね、涙も落ちぬばかり思ひつづけられてやをら立 ちぬ。 中将の君、乳母とともに浮舟の不運を嘆く こなたに渡りて見るに、いとらうたげにを かしげにてゐたまへるに、さりとも人には 劣りたまはじ、とは思ひ慰さむ。乳母と二- 人、 「心憂きものは人の心なりけり。おのれは、同じご と思ひあつかふとも、この君のゆかりと思はむ人のためには、 命をも譲りつべくこそ思へ。親なしと聞き侮りて、まだ幼く なりあはぬ人を、さし越えて、かくは言ひなるべしや。かく

心憂く、近きあたりに見じ聞かじ、と思ひぬれど、守のかく 面だたしきことに思ひて、承けとり騒ぐめれば、あひあひに たる世の人のありさまを、すべてかかることに口入れじ、と 思ふ。いかで、ここならぬ所にしばしありにしがな」
とうち 泣きつつ言ふ。乳母もいと腹立たしく、わが君をかくおとし むること、と思ふに、 「何か。これも御幸ひにて違ふこと とも知らず。かく心口惜しくいましける君なれば、あたら御 さまをも見知らざらまし。わが君をば、心ばせあり、もの思 ひ知りたらん人にこそ見せたてまつらまほしけれ。大将殿の 御さま容貌の、ほのかに見たてまつりしに、さも命延ぶる心- 地のしはべりしかな。あはれに、はた、聞こえたまふなり。 御宿世にまかせて、思し寄りねかし」と言へば、 「あな 恐ろしや。人の言ふを聞けば、年ごろ、おぼろけならん人を ば見じ、とのたまひて、右の大殿、按察大納言、式部卿宮な どのいとねむごろにほのめかしたまひけれど聞き過ぐして、

帝の御かしづきむすめをえたまへる君は、いかばかりの人か まめやかには思さん。かの母宮などの御方にあらせて、時々 も見む、とは思しもしなん。それ、はた、げにめでたき御あ たりなれども、いと胸いたかるべきことなり。宮の上の、か く幸ひ人と申すなれど、もの思はしげに思したるを見れば、 いかにもいかにも、二心なからん人のみこそ、めやすく頼も しきことにはあらめ。わが身にても知りにき。故宮の御あり さまは、いと情々しくめでたくをかしくおはせしかど、人数 にも思さざりしかば、いかばかりかは心憂くつらかりし。こ の、いと言ふかひなく、情なく、さまあしき人なれど、ひた おもむきに二心なきを見れば、心やすくて年ごろをも過ぐし つるなり。をりふしの心ばへの、かやうに愛敬なく用意なき ことこそ憎けれ、嘆かしく恨めしきこともなく、かたみにう ちいさかひても、心にあはぬことをばあきらめつ。上達部親- 王たちにて、みやびかに心恥づかしき人の御あたりといふと

も、わが数ならではかひあらじ、よろづのことわが身からな りけり、と思へば、よろづに悲しうこそ見たてまつれど、い かにして、人わらへならずしたてたてまつらむ」
と語らふ。 常陸介、実の娘の婚儀の用意に奔走する 守は急ぎたちて、 「女房など、こなたに めやすきあまたあなるを、このほどはあら せたまへ。やがて、帳なども新しく仕立て られためる方を。事にはかになりにためれば、取り渡し、と かくあらたむまじ」とて、西の方に来て、起居とかくしつら ひ騒ぐ。めやすきさまにさ はらかに、あたりあたりあ るべき限りしたる所を、さ かしらに屏風ども持て来て、 いぶせきまで立てあつめて、 廚子二階などあやしきま でし加へて、心をやりてい

そげば、北の方見苦しく見れど、口入れじ、と言ひてしかば、 ただに見聞く。御方は、北面にゐたり。 「人の御心は見- 知りはてぬ。ただ同じ子なれば、さりともいとかくは思ひ放 ちたまはじ、とこそ思ひつれ。されば、世に母なき子はなく やはある」とて、むすめを、昼より乳母と二人、撫でつくろ ひ立てたれば、にくげにもあらず、十五六のほどにて、いと 小さやかにふくらかなる人の、髪うつくしげにて小袿のほど なり。裾いとふさやかなり。これをいとめでたしと思ひて撫 でつくろふ。 「何か、人の異ざまに思ひ構へられける人 をしも、と思へど、人柄のあたらしく、警策にものしたまふ 君なれば、我も我もと婿に取らまほしくする人の多かなるに、 取られなんも口惜しくてなん」と、かの仲人にはかられて言 ふもいとをこなり。  男君も、このほどのいかめしく思ふやうなることと、よろ づの罪あるまじう思ひて、その夜も変へず来そめぬ。 中将の君、中の君に浮舟の庇護を依頼する

母君、御方の乳母、いとあさましく思ふ。 ひがひがしきやうなれば、とかく見あつか ふも心づきなければ、宮の北の方の御もと に御文奉る。   その事とはべらでは、なれなれしくや、とかしこ  まりて、え思ひたまふるままにも聞こえさせぬを、つつ  しむべきことはべりて、しばし所かへさせんと思うたま  ふるに、いと忍びてさぶらひぬべき隠れの方さぶらはば、  いともいともうれしくなむ。数ならぬ身ひとつの蔭に隠  れもあへず、あはれなることのみ多くはべる世なれば、  頼もしき方にはまづなん。 と、うち泣きつつ書きたる文を、あはれとは見たまひけれど、 故宮のさばかりゆるしたまはでやみにし人を、我ひとり残り て、知り語らはんもいとつつましく、また、見苦しきさまに て世にあぶれんも知らず顔にて聞かんこそ、心苦しかるべけ

れ、ことなることなくてかたみに散りぼはんも、亡き人の御 ために見苦しかるべきわざを、思しわづらふ。  大輔がもとにも、いと心苦しげに言ひやりたりければ、 「さるやうこそははべらめ。人にくくはしたなくも、なの たまはせそ。かかる劣りの者の、人の御中にまじりたまふも、 世の常のことなり。あまりいと情なくのたまはせしことな り」など聞こえて、 「さらば、かの西の方に、隠ろへたる 所し出でて、いとむつかしげなめれど、さても過ぐいたまひ つべくは、しばしのほど」と言ひつかはしつ。いとうれし、 と思ほして、人知れず出で立つ。御方も、かの御あたりをば 睦びきこえまほし、と思ふ心なれば、なかなかかかる事ども の出で来たるをうれしと思ふ。 常陸介、左近少将を大いに歓待する 守、少将のあつかひを、いかばかりめでた きことをせんと思ふに、そのきらきらしか るべきことも知らぬ心には、ただ、あらら

かなる東絹どもを、押しまろがして投げ出でつ。食物もとこ ろせきまでなん運び出でて、ののしりける。下衆などは、そ れをいとかしこき情に思ひければ、君も、いとあらまほしく、 心賢くとり寄りにけり、と思ひけり。北の方、このほどを見- 棄てて知らざらんもひがみたらむ、と思ひ念じて、ただする ままにまかせて見ゐたり。客人の御出居、侍所としつらひ騒 げば、家は広けれど、源少納言、東の対には住む、男子など の多かるに、所もなし。この御方に客人住みつきぬれば、廊 などほとりばみたらむに住ませたてまつらむも飽かずいとほ しくおぼえて、とかく思ひめぐらすほど、宮に、とは思ふな りけり。 中将の君、浮舟を連れて中の君の邸に赴く この御方ざまに、数まへたまふ人のなきを、 侮るなめり、と思へば、ことにゆるいたま はざりしあたりを、あながちに参らす。乳- 母、若き人々二三人ばかりして、西の廂の、北に寄りて人げ

遠き方に局したり。年ごろかくはるかなりつれど、うとく思 すまじき人なれば、参る時は恥ぢたまはず。いとあらまほし く、けはひことにて、若君の御あつかひをしておはする御あ りさま、うらやましくおぼゆるもあはれなり。我も、故北の 方には離れたてまつるべき人かは、仕うまつると言ひしばか りに数まへられたてまつらず、口惜しくてかく人には侮らる る、と思ふには、かく、しひて睦びきこゆるもあぢきなし。 ここには、御物忌と言ひてければ、人も通はず。二三日ばか り母君もゐたり。こたみは、心のどかに、この御ありさまを 見る。 中将の君匂宮夫妻の姿を見て思案に乱れる 宮渡りたまふ。ゆかしくて物のはさまより 見れば、いときよらに、桜を折りたるさま したまひて、わが頼もし人に思ひて、恨め しけれど心には違はじと思ふ常陸守より、さま容貌も人のほ どもこよなく見ゆる五位四位ども、あひひざまづきさぶら

ひて、この事かの事と、あたりあたりの事ども、家司どもな ど申す。また若やかなる五位ども、顔も知らぬどもも多かり。 わが継子の式部丞にて蔵人なる、内裏の御使にて参れり。御 あたりにもえ近く参らず。こよなき人の御けはひを、 「あは れ、こは何人ぞ。かかる御あたりにおはするめでたさよ。よ そに思ふ時は、めでたき人々と聞こゆとも、つらき目見せた まはばと、ものうく推しはかりきこえさせつらんあさましさ よ。この御ありさま容貌を見れば、七夕ばかりにても、かや うに見たてまつり通はむは、いといみじかるべきわざかな」 と思ふに、若君抱きてうつくしみおはす。女君、短き几帳を 隔てておはするを、押しやりて、ものなど聞こえたまふ。御- 容貌どもいときよらに似あひたり。故宮のさびしくおはせし 御ありさまを思ひくらぶるに、宮たちと聞こゆれど、いとこ よなきわざにこそありけれ、とおぼゆ。  帳の内に入りたまひぬれば、若君は、若き人、乳母なども

てあそびきこゆ。人々参り集まれど、悩ましとて、大殿籠り 暮らしつ。御台こなたにまゐる。よろづのこと気高く、心こ とに見ゆれば、わがいみじきことを尽くすと見思へど、なほ なほしき人のあたりは口惜しかりけり、と思ひなりぬれば、 わがむすめも、かやうにてさし並べたらむにはかたはならじ かし、勢を頼みて、父ぬしの、后にもなしてんと思ひたる人- 人、同じわが子ながら、けはひこよなきを思ふも、なほ今よ り後も心は高くつかふべかりけりと、夜一夜あらまし語思ひ つづけらる。 中将の君、匂宮の比ならぬ少将を侮蔑する 宮、日たけて起きたまひて、 「后の宮、 例の、悩ましくしたまへば、参るべし」と て、御装束などしたまひておはす。ゆかし うおぼえてのぞけば、うるはしくひきつくろひたまへる、は た、似るものなく気高く愛敬づききよらにて、若君をえ見棄 てたまはで遊びおはす。御粥強飯などまゐりてぞ、こなたよ

り出でたまふ。今朝より参りて、侍所の方にやすらひける人- 人、今ぞ参りてものなど聞こゆる中に、きよげだちて、なで ふことなき人のすさまじき顔したる、直衣着て太刀佩きたる あり。御前にて何とも見えぬを、 「かれぞこの常陸守の婿 の少将な。はじめはこの御方にと定めけるを、守のむすめを えてこそいたはられめなど言ひて、かじけたる女の童をえた るななり」「いさ、この御あたりの人はかけても言はず」「か の君の方より、よく聞くたよりのあるぞ」など、おのがどち 言ふ。聞くらむとも知らで人のかく言ふにつけても胸つぶれ て、少将をめやすきほどと思ひける心も口惜しく、げにこと なることなかるべかりけり、と思ひて、いとどしく侮らはし く思ひなりぬ。  若君の這ひ出でて、御廉のつまよりのぞきたまへるをうち 見たまひて、たち返り寄りおはしたり。 「御心地よろしく 見えたまはば、やがてまかでなん。なほ苦しくしたまはば、

今宵は宿直にぞ。今は一夜を隔つるもおぼつかなきこそ、苦 しけれ」
とて、しばし慰め遊ばして、出でたまひぬるさまの、 かへすがへす見るとも見るとも飽くまじくにほひやかにをか しければ、出でたまひぬるなごりさうざうしくぞながめら るる。 中将の君、中の君に浮舟の身柄を委ねる 女君の御前に出で来て、いみじくめでたて まつれば、田舎びたる、と思して笑ひたま ふ。 「故上の亡せたまひしほどは、言 ふかひなく幼き御ほどにて、いかにならせたまはんと、見た てまつる人も故宮も思し嘆きしを、こよなき御宿世のほどな りければ、さる山ふところの中にも、生ひ出でさせたまひし にこそありけれ。口惜しく、故姫君のおはしまさずなりにた るこそ飽かぬことなれ」など、うち泣きつつ聞こゆ。君も、 うち泣きたまひて、 「世の中の恨めしく心細きをりをり も、また、かくながらふれば、すこしも思ひ慰めつべきをり

もあるを、いにしへ頼みきこえける蔭どもに後れたてまつり けるは、なかなかに世の常に思ひなされて、見たてまつり知 らずなりにければ、あるを、なほこの御ことは尽きせずいみ じくこそ。大将の、よろづのことに心の移らぬよしを愁へつ つ、浅からぬ御心のさまを見るにつけても、いとこそ口惜し けれ」
とのたまへば、 「大将殿は、さばかり世に例なき まで帝のかしづき思したなるに、心おごりしたまふらむかし。 おはしまさましかば、なほこのことせかれしもしたまはざら ましや」など聞こゆ。 「いさや。やうのものと、人笑は れなる心地せましも、なかなかにやあらまし。見はてぬにつ けて、心にくくもある世にこそは、と思へど、かの君は、い かなるにかあらむ、あやしきまでもの忘れせず、故宮の御後 の世をさへ思ひやり深く後見歩きたまふめる」など、心うつ くしう語りたまふ。 「かの過ぎにし御代りに尋ねて見ん と、この数ならぬ人をさへなん、かの弁の尼君にはのたまひ

ける、さもや、と思うたまへ寄るべきことにははべらねど、 一本ゆゑにこそは、とかたじけなけれどあはれになむ思うた まへらるる御心深さなる」
など言ふついでに、この君をもて わづらふこと、泣く泣く語る。  こまかにはあらねど、人も聞きけりと思ふに、少将の思ひ 侮りけるさまなどほのめかして、 「命はべらむ限りは、 何か、朝夕の慰めぐさにて見過ぐしつべし。うち棄てはべり なん後は、思はずなるさまに散りぼひはべらむが悲しさに、 尼になして深き山にやし据ゑて、さる方に世の中を思ひ絶え てはべらましなどなん、思うたまへわびては、思ひよりはべ る」など言ふ。 「げに心苦しき御ありさまにこそはあな れど、何か。人に侮らるる御ありさまは、かやうになりぬる 人のさがにこそ。さりとてもたへぬわざなりければ、むげに、 その方に思ひおきてたまへりし身だに、かく心より外になが らふれば、まいていとあるまじき御ことなり。やついたまは

んも、いとほしげなる御さまにこそ」
など、いとおとなびて のたまへば、母君、いとうれし、と思ひたり。ねびにたるさ まなれど、よしなからぬさましてきよげなり。いたく肥え過 ぎにたるなむ常陸殿とは見えける。   「故宮の、つらう情なく思し放ちたりしに、いとど人 げなく人にも侮られたまふ、と見たまふれど、かう聞こえ させ御覧ぜらるるにつけてなん、いにしへのうさも慰みはべ る」など、年ごろの物語、浮島のあはれなりしことも聞こえ 出づ。 「わが身ひとつ、とのみ言ひあはする人もなき筑- 波山のありさまもかく明らめきこえさせて、いつもいつも、 いとかくてさぶらはまほしく思ひたまへなりはべりぬれど、 かしこにはよからぬあやしの者ども、いかにたち騒ぎ求めは べらん。さすがに心あわたたしく思ひたまへらるる。かかる ほどのありさまに身をやつすは口惜しきものになんはべりけ ると、身にも思ひ知らるるを、この君はただまかせきこえさ

せて、知りはべらじ」
など、かこちきこえかくれば、げに見- 苦しからでもあらなん、と見たまふ。 薫、来訪 中将の君かいま見て感嘆する 容貌も心ざまも、え憎むまじうらうたげな り。もの恥ぢもおどろおどろしからず、さ まよう児めいたるものからかどなからず、 近くさぶらふ人々にも、いとよく隠れてゐたまへり。ものな ど言ひたるも、昔の人の御さまにあやしきまでおぼえたてま つりてぞあるや。かの人形求めたまふ人に見せたてまつらば やと、うち思ひ出でたまふをりしも、 「大将殿参りたまふ」 と人聞こゆれば、例の、御几帳ひきつくろひて、心づかひす。 この客人の母君、 「いで見たてまつらん。ほのかに見た てまつりける人のいみじきものに聞こゆめれど、宮の御あり さまには、え並びたまはじ」と言へば、御前にさぶらふ人々、 「いさや、えこそ聞こえ定めね」と聞こえあへり。 「い かばかりならん人か、宮をば消ちたてまつらむ」など言ふほ

どに、今ぞ車より下りたまふなる、と聞くほど、かしがまし きまで追ひののしりて、とみにも見えたまはず。待たれたる ほどに、歩み入りたまふさまを見れば、げに、あなめでた、 をかしげとも見えずながらぞ、なまめかしうあてにきよげな るや。すずろに、見え苦しう恥づかしくて、額髪などもひき つくろはれて、心恥づかしげに用意多く際もなきさまぞした まへる。内裏より参りたまへるなるべし、御前どものけはひ あまたして、 「昨夜、后の宮の悩みたまふよし承りて参り たりしかば、宮たちのさぶらひたまはざりしかば、いとほし く見たてまつりて、宮の御代りに今までさぶらひはべりつる。 今朝もいと懈怠して参らせたまへるを、あいなう御過ちに推 しはかりきこえさせてなむ」と聞こえたまへば、 「げに おろかならず、思ひやり深き御用意になん」とばかり答へき こえたまふ。宮は内裏にとまりたまひぬるを見おきて、ただ ならずおはしたるなめり。 中の君、憂愁の薫に浮舟をすすめる

例の、物語いとなつかしげに聞こえたまふ。 事に触れて、ただいにしへの忘れがたく、 世の中のものうくなりまさるよしを、あら はには言ひなさで、かすめ愁へたまふ。 「さしも、いかでか、 世を経て心に離れずのみはあらむ。なほ浅からず言ひそめて し事の筋なれば、なごりなからじとにや」など見なしたまへ ど、人の御気色はしるきものなれば、見もてゆくままに、あ はれなる御心ざまを、岩木ならねば、思ほし知る。恨みきこ えたまふことも多かれば、いとわりなくうち嘆きて、かかる 御心をやむる禊をせさせたてまつらまほしく思ほすにやあら ん、かの人形のたまひ出でて、 「いと忍びてこのわたり になん」と、ほのめかしきこえたまふを、かれもなべての心- 地はせずゆかしくなりにたれど、うちつけにふと移らむ心地、 はた、せず。 「いでや、その本尊、願ひ満てたまふべくはこそ 尊からめ、時々心やましくは、なかなか山水も濁りぬべく」

とのたまへば、はてはては、 「うたての御聖心や」と、 ほのかに笑ひたまふもをかしう聞こゆ。 「いでさらば、伝へ はてさせたまへかし。この御のがれ言葉こそ、思ひ出づれば ゆゆしく」とのたまひても、また涙ぐみぬ。   見し人のかたしろならば身にそへて恋しき瀬々のなで   ものにせむ と、例の、戯れに言ひなして、紛らはしたまふ。   「みそぎ河瀬々にいださんなでものを身に添ふかげ   とたれか頼まん 引く手あまたに、とかや。いとほしくぞはべるや」とのたま へば、 「つひに寄る瀬は、さらなりや。いとうれたきやうな る、水の泡にも争ひはべるかな。かき流さるるなでものは、 いでまことぞかし、いかで慰むべきことぞ」など言ひつつ、 暗うなるもうるさければ、かりそめにものしたる人も、あや しく、と思ふらむもつつましきを、 「今宵はなほとく帰

りたまひね」
と、こしらへやりたまふ。 中将の君浮舟を薫へと願う 人々薫を称賛す 「さらば、その客人に、かかる心の願ひ年 経ぬるを、うちつけになど浅う思ひなすま じうのたまはせ知らせたまひて、はしたな げなるまじうはこそ。いとうひうひしうならひにてはべる身 は、何ごともをこがましきまでなん」と、語らひきこえおき て出でたまひぬるに、この母君、「いとめでたく、思ふやう なる御さまかな」とめでて、乳母ゆくりかに思ひよりて、た びたび言ひしことを、あるまじきことに言ひしかど、この御 ありさまを見るには、天の川を渡りても、かかる彦星の光を こそ待ちつけさせめ、わがむすめは、なのめならん人に見せ んは惜しげなるさまを、夷めきたる人をのみ見ならひて、少- 将をかしこきものに思ひけるを、悔しきまで思ひなりにけり。 寄りゐたまへりつる真木柱も褥も、なごり匂へる移り香、言 へばいとことさらめきたるまであり難し。時々見たてまつる

人だに、たびごとにめできこゆ。 「経などを読みて、功徳 のすぐれたることあめるにも、香のかうばしきをやむごとな きことに、仏のたまひおきけるもことわりなりや。薬王品な どにとりわきてのたまへる牛頭栴檀とかや、おどろおどろし きものの名なれど、まづかの殿の近くふるまひたまへば、仏 はまことしたまひけり、とこそおぼゆれ。幼くおはしけるよ り、行ひもいみじくしたまひければよ」など言ふもあり。ま た、 「前の世こそゆかしき御ありさまなれ」など、口々め づることどもを、すずろに笑みて聞きゐたり。 中将の君、浮舟を中の君に託して辞去する 君は、忍びてのたまひつることを、ほのめ かしのたまふ。 「思ひそめつること、 執念きまで軽々しからずものしたまふめる を、げにただ今のありさまなどを思へば、わづらはしき心地 すべけれど、かの世を背きてもなど思ひ寄りたまふらんも、 同じことに思ひなして、試みたまへかし」とのたまへば、

「つらき目見せず、人に侮られじの心にてこそ、鳥の音 聞こえざらん住まひまで思ひたまへおきつれ。げに、人の御 ありさまけはひを見たてまつり思ひたまふるは、下仕のほど などにても、かかる人の御あたりに馴れきこえんは、かひあ りぬべし。まいて若き人は、心つけたてまつりぬべくはべる めれど、数ならぬ身に、もの思ひの種をやいとど蒔かせて見 はべらん。高きも短きも、女といふものはかかる筋にてこそ、 この世、後の世まで苦しき身になりはべるなれ、と思ひたま へはべればなむ、いとほしく思ひたまへはべる。それもただ 御心になん。ともかくも、思し棄てずものせさせたまへ」と 聞こゆれば、いとわづらはしくなりて、 「いさや。来し 方の心深さにうちとけて。行く先のありさまは知りがたき を」と、うち嘆きて、ことにものものたまはずなりぬ。  明けぬれば、車など率て来て、守の消息など、いと腹立た しげにおびやかしたれば、 「かたじけなくよろづに頼み

きこえさせてなん。なほ、しばし隠させたまひて、巌の中に ともいかにとも、思ひたまへめぐらしはべるほど、数にはべ らずとも、思ほし放たず、何ごとをも教へさせたまへ」
など 聞こえおきて。この御方も、いと心細くならはぬ心地にたち 離れんを思へど、いまめかしくをかしく見ゆるあたりに、し ばしも見馴れたてまつらむと思へば、さすがにうれしくもお ぼえけり。 匂宮帰邸、中将の君の車を見とがめる 車引き出づるほどの、すこし明かうなりぬ るに、宮、内裏よりまかでたまふ。若君お ぼつかなくおぼえたまひければ、忍びたる さまにて、車なども例ならでおはしますに、さしあひて、押 しとどめて立てたれば、廊に御車寄せて下りたまふ。 「何 ぞの車ぞ。暗きほどに急ぎ出づるは」と目とどめさせたまふ。 かやうにてぞ、忍びたる所には出づるかしと、御心ならひに 思し寄るも、むくつけし。 「常陸殿のまかでさせたまふ」

と申す。若やかなる御前ども、 「殿こそあざやかなれ」と 笑ひあへるを聞くも、げにこよなの身のほどや、と悲しく思 ふ。ただ、この御方のことを思ふゆゑにぞ、おのれも人々し くならまほしくおぼえける。まして、正身をなほなほしくや つして見むことは、いみじくあたらしう思ひなりぬ。  宮入りたまひて、 「常陸殿といふ人や、ここに通はした まふ。心ある朝ぼらけに急ぎ出でつる車副などこそ、ことさ らめきて見えつれ」など、なほ思し疑ひてのたまふ。聞きに くくかたはらいたし、と思して、 「大輔などが若くての ころ、友だちにてありける人は。ことにいまめかしうも見え ざめるを、ゆゑゆゑしげにものたまひなすかな。人の聞きと がめつべきことをのみ、常にとりないたまふこそ。なき名は 立てで」と、うち背きたまふも、らうたげにをかし。 匂宮、偶然に浮舟を見つけて言い寄る

明くるも知らず大殿籠りたるに、人々あま た参りたまへば、寝殿に渡りたまひぬ。后 の宮は、ことごとしき御悩みにもあらで、 おこたりたまひにければ、心地よげにて、右の大殿の君たち など、碁うち韻塞などしつつ遊びたまふ。  夕つ方、宮こなたに渡らせたまへれば、女君は御柑*のほど なりけり。人々もおのおのうち休みなどして、御前には人も なし。小さき童のあるして、 「をりあしき御柑*のほどこそ、 見苦しかめれ。さうざうしくてやながめん」と聞こえたまへ ば、 「げに。おはしまさぬ隙々にこそ例はすませ、あやし う、日ごろ、ものうがらせたまひて。今日過ぎば、この月は 日もなし。九十月はいかでかはとて、仕まつらせつるを」と、 大輔いとほしがる。  若君も寝たまへりければ、そなたにこれかれあるほどに、 宮はたたずみ歩きたまひて、西の方に例ならぬ童の見えける

を、今参りたるかなど思してさしのぞきたまふ。中のほどな る障子の細目に開きたるより見たまへば、障子のあなたに、 一尺ばかりひき離けて屏風立てたり。そのつまに、几帳、簾 に添へて立てたり。帷子一重をうち懸けて、紫苑色のはなや かなるに、女郎花の織物と見ゆる重なりて、袖口さし出でた り。屏風の一枚畳まれたるより、心にもあらで見ゆるなめり。 今参りの口惜しからぬなめり、と思して、この廂に通ふ障子 を、いとみそかに押し開けたまひて、やをら歩み寄りたまふ も、人知らず。こなたの廊の中の壼前栽のいとをかしう色々 に咲き乱れたるに、遣水のわたりの石高きほどいとをかしけ れば、端近く添ひ臥してながむるなりけり。開きたる障子を、 いますこし押し開けて、屏風のつまよりのぞきたまふに、宮 とは思ひもかけず、例、こなたに来馴れたる人にやあらんと 思ひて起き上りたる様体、いとをかしう見ゆるに、例の御心 は過ぐしたまはで、衣の裾をとらへたまひて、こなたの障子

はひきたてたまひて、屏風のはさまにゐたまひぬ。あやし、 と思ひて、扇をさし隠して、見かへりたるさまいとをかし。 扇を持たせながらとらへたまひて、 「誰ぞ。名のりこそゆ かしけれ」とのたまふに、むくつけくなりぬ。さるもののつ らに、顔を外ざまにもて隠して、いといたう忍びたまへれば、 この、ただならずほのめかしたまふらん大将にや、かうばし きけはひなども思ひわたさるるに、いと恥づかしくせん方 なし。 乳母の困惑 右近、事態を中の君に報告する 乳母、人げの例ならぬをあやしと思ひて、 あなたなる屏風を押し開けて来たり。 「これはいかなることにかはべらん。あや しきわざにもはべるかな」と聞こゆれど、憚りたまふべきこ とにもあらず、かくうちつけなる御しわざなれど、言の葉多 かる御本性なれば、何やかやとのたまふに、暮れはてぬれど、 「誰と聞かざらむほどはゆるさじ」とてなれなれしく臥し

たまふに、宮なりけり、と思ひはつるに、乳母、言はん方な くあきれてゐたり。  大殿油は燈籠にて、 「いま渡らせたまひなん」と人々言 ふなり。御前ならぬ方の御格子どもぞ下ろすなる。こなたは 離れたる方にしなして、高き棚廚子一具ばかり立て、屏風の 袋に入れこめたる所どころに寄せかけ、何かのあららかな るさまにし放ちたり。かく人のものしたまへばとて、通ふ道 の障子一間ばかりぞ開けたるを、右近とて、大輔がむすめの さぶらふ来て、格子下ろしてここに寄り来なり。 「あな暗 や。まだ大殿油もまゐらざりけり。御格子を、苦しきに、急 ぎまゐりて、闇にまどふよ」とて引き上ぐるに、宮も、なま 苦しと聞きたまふ。乳母、はた、いと苦しと思ひて、ものづ つみせずはやりかにおぞき人にて、 「もの聞こえはべらん。 ここに、いとあやしき事のはべるに、見たまへ困じてなんえ 動きはべらでなむ」 「何ごとぞ」とて探り寄るに、袿姿

なる男の、いとかうばしくて添ひ臥したまへるを、例のけし からぬ御さまと思ひ寄りにけり。女の心あはせたまふまじき こと、と推しはからるれば、 「げにいと見苦しきことにも はべるかな。右近はいかにか聞こえさせん。いま参りて、御- 前にこそは忍びて聞こえさせめ」とて立つを、あさましくか たはに誰も誰も思へど、宮は怖ぢたまはず、あさましきまで あてにをかしき人かな、なほ、何人ならん、右近が言ひつる 気色も、いとおしなべての今参りにはあらざめり、と心得が たく思されて、と言ひかく言ひ恨みたまふ。心づきなげに気- 色ばみてももてなさねど、ただいみじう死ぬばかり思へるが いとほしければ、情ありてこしらへたまふ。  右近、上に、 「しかじかこそおはしませ。いとほしく、い かに思ほすらん」と聞こゆれば、 「例の、心憂き御さま かな。かの母も、いかにあはあはしくけしからぬさまに思ひ たまはんとすらむ。うしろやすくと、かへすがへす言ひおき

つるものを」
と、いとほしく思せど、いかが聞こえむ、さぶ らふ人々もすこし若やかによろしきは見棄てたまふなく、あ やしき人の御癖なれば。いかでかは思ひ寄りたまひけんと、 あさましきにものも言はれたまはず。 匂宮、中宮の病を知らされ浮舟から離れる 「上達部あまた参りたまへる日にて、遊 び戯れたまひては、例も、かかる時はおそ くも渡りたまへば、みなうちとけてやすみ たまふぞかし。さても、いかにすべきことぞ。かの乳母こそ おずましかりけれ。つと添ひゐてまもりたてまつり、引きも かなぐりたてまつりつべくこそ思ひたりつれ」と、少将と二- 人していとほしがるほどに、内裏より人参りて、大宮この夕- 暮より御胸悩ませたまふを、ただ今いみじく重く悩ませたま ふよし申さす。右近、 「心なきをりの御悩みかな。聞こえさ せん」とて立つ。少将、 「いでや、今はかひなくもあべいこ とを。をこがましく、あまりなおびやかしきこえたまひそ」

と言へば、 「いな、まだしかるべし」と、忍びてささめき かはすを、上は、 「いと聞きにくき人の御本性にこそあめれ。 すこし心あらん人は、わがあたりをさへうとみぬべかめり」 と思す。  参りて、御使の申すよりも、いますこしあわたたしげに申 しなせば、動きたまふべきさまにもあらぬ御気色に、 「誰 か参りたる。例の、おどろおどろしくおびやかす」とのたま はすれば、 「宮の侍に、平重経となん名のりはべりつる」 と聞こゆ。出でたまはんことのいとわりなく口惜しきに、人- 目も思されぬに、右近立ち出でて、この御使を西面にて問へ ば、申しつぎつる人も寄り来て、 「中務宮参らせたまひぬ。 大夫はただ今なん、参りつる道に、御車引き出づる、見はべ りつ」と申せば、げににはかに時々悩みたまふをりをりもあ るを、と思すに、人の思すらんこともはしたなくなりて、い みじう恨み契りおきて出でたまひぬ。 乳母、嘆きかつ浮舟を慰め励ます

恐ろしき夢のさめたる心地して、汗におし 漬して臥したまへり。乳母うちあふぎなど して、 「かかる御住まひは、よろづにつ けて、つつましう便なかりけり。かくおはしましそめて、さ らによきことはべらじ。あな恐ろしや。限りなき人と聞こゆ とも、やすからぬ御ありさまはいとあぢきなかるべし。よそ のさし離れたらん人にこそ、よしともあしともおぼえられた まはめ。人聞きもかたはらいたきことと思ひたまへて、降魔 の相を出だして、つと見たてまつりつれば、いとむくつけく 下衆下衆しき女と思して、手をいたく抓ませたまひつるこそ、 直人の懸想だちて、いとをかしくもおぼえはべりつれ。かの 殿には、今日もいみじくいさかひたまひけり。ただ一ところ の御上を見あつかひたまふとて、わが子どもをば思し棄てた り、客人のおはするほどの御旅居見苦し、と荒々しきまでぞ 聞こえたまひける。下人さへ聞きいとほしがりけり。すべて、

この少将の君ぞ、いと愛敬なくおぼえたまふ。この御ことは べらざらましかば、内々やすからずむつかしき事はをりをり はべりとも、なだらかに、年ごろのままにておはしますべき ものを」
など、うち泣きつつ言ふ。  君は、ただ今はともかくも思ひめぐらされず、ただいみじ くはしたなく、見知らぬ目を見つるに添へても、いかに思す らんと思ふに、わびしければ、うつぶし臥して泣きたまふ。 いと苦し、と見あつかひて、 「何かかく思す。母おはせぬ 人こそ、たづきなう悲しかるべけれ。よそのおぼえは、父な き人はいと口惜しけれど、さがなき継母に憎まれんよりは、 これはいとやすし。ともかくもしたてまつりたまひてん。な 思し屈ぜそ。さりとも、初瀬の観音おはしませば、あはれと 思ひきこえたまふらん。ならはぬ御身に、たびたびしきりて 詣でたまふことは。人のかく侮りざまにのみ思ひきこえたる を、かくもありけり、と思ふばかりの御幸ひおはしませ、と

こそ念じはべれ。あが君は人笑はれにてはやみたまひなむ や」
と、世をやすげに言ひゐたり。 匂宮参内 中の君、浮舟を居間に招く 宮は急ぎて出でたまふなり。内裏近き方に やあらん、こなたの御門より出でたまへば、 もののたまふ御声も聞こゆ。いとあてに限 りもなく聞こえて、心ばへある古言などうち誦じたまひて過 ぎたまふほど、すずろにわづらはしくおぼゆ。移し馬ども牽 き出だして、宿直にさぶらふ人、十人ばかりして参りたまふ。  上、いとほしく、うたて思ふらんとて、知らず顔にて、 「大宮悩みたまふとて参りたまひぬれば、今宵は出でた まはじ。柑*のなごりにや、心地も悩ましくて起きゐはべるを、 渡りたまへ。つれづれにも思さるらん」と聞こえたまへり。 「乱り心地のいと苦しうはべるを、ためらひて」と、乳母 して聞こえたまふ。 「いかなる御心地ぞ」と、たち返り とぶらひきこえたまへば、 「何心地ともおほえはべらず。

ただいと苦しくはべり」
と聞こえたまへば、少将右近、目ま じろきをして、 「かたはらぞいたく思すらむ」と言ふも、た だなるよりはいとほし。 「いと口惜しう心苦しきわざかな。 大将の心とどめたるさまにのたまふめりしを、いかにあはあ はしく思ひおとさむ。かくのみ乱りがはしくおはする人は、 聞きにくく、実ならぬことをもくねり言ひ、また、まことに すこし思はずならむことをも、さすがに見ゆるしつべうこそ おはすめれ、この君は、言はでうしと思はんこと、いと恥づ かしげに心深きを、あいなく思 ふこと添ひぬる人の上なめり。 年ごろ見ず知らざりつる人の上 なれど、心ばへ容貌を見れば、 え思ひはなつまじう、らうたく 心苦しきに、世の中はあり難く、 むつかしげなるものかな。わが

身のありさまは、飽かぬこと多かる心地すれど、かくものは かなき目も見つべかりける身の、さははふれずなりにけるに こそ、げにめやすきなりけれ。今は、ただ、この憎き心添ひ たまへる人のなだらかにて思ひ離れなば、さらに何ごとも思 ひ入れずなりなん」
と思ほす。いと多かる御髪なれば、とみ にもえほしやらず、起きゐたまへるも苦し。白き御衣一襲ば かりにておはする、細やかにをかしげなり。 浮舟、中の君に対面して慰められる この君は、まことに、心地もあしくなりに たれど、乳母、 「いとかたはらいたし。事 しもあり顔に思すらむを。ただおほどかに て見えたてまつりたまへ。右近の君などには、事のありさま はじめより語りはべらん」と、せめてそそのかしたてて、こ なたの障子のもとにて、 「右近の君にもの聞こえさせん」 と言へば、立ちて出でたれば、 「いとあやしくはべりつる 事のなごりに、身も熱うなりたまひて、まめやかに苦しげに

見えさせたまふを、いとほしく見はべる。御前にて慰めきこ えさせたまへ、とてなん。過ちもおはせぬ身を、いとつつま しげに思ほしわびためるも、いささかにても世を知りたまへ る人こそあれ、いかでかはと、ことわりにいとほしく見たて まつる」
とて、ひき起こして参らせたてまつる。  我にもあらず、人の思ふらむことも恥づかしけれど、いと やはらかにおほどき過ぎたまへる君にて、押し出でられてゐ たまへり。額髪などのいたう濡れたるをもて隠して、灯の方 に背きたまへるさま、上をたぐひなく見たてまつるに、け劣 るとも見えず、あてにをかし。これに思しつきなば、めざま しげなることはありなんかし、いとかからぬをだに、めづら しき人をかしうしたまふ御心を、と二人ばかりぞ、御前にて え恥ぢあへたまはねば、見ゐたりける。物語いとなつかしく したまひて、 「例ならずつつましき所など、な思ひなし たまひそ。故姫君のおはせずなりにし後、忘るる世なくいみ

じく、身も恨めしく、たぐひなき心地して過ぐすに、いとよ く思ひよそへられたまふ御さまを見れば、慰む心地してあは れになむ。思ふ人もなき身に、昔の御心ざしのやうに思ほさ ば、いとうれしくなん」
など語らひたまへど、いとものつつ ましくて、また鄙びたる心に、答へきこえんこともなくて、 「年ごろ、いと遙かにのみ思ひきこえさせしに、かう見た てまつりはべるは、何ごとも慰む心地しはべりてなん」とば かり、いと若びたる声にて言ふ。 中の君、浮舟をいとおしむ 女房たちの推測 絵など取り出でさせて、右近に詞読ませて 見たまふに、向ひてもの恥ぢもえしあへた まはず、心に入れて見たまへる灯影、さら にここと見ゆるところなく、こまかにをかしげなり。額つき まみのかをりたる心地して、いとおほどかなるあてさは、た だそれとのみ思ひ出でらるれば、絵はことに目もとどめたま はで、 「いとあはれなる人の容貌かな、いかでかうしもあり

けるにかあらん。故宮にいとよく似たてまつりたるなめりか し。故姫君は宮の御方ざまに、我は母上に似たてまつりたる とこそは、古人ども言ふなりしか。げに似たる人はいみじき ものなりけり」
と思しくらぶるに、涙ぐみて見たまふ。 「か れは、限りなくあてに気高きものから、なつかしうなよよか に、かたはなるまで、なよなよとたわみたるさまのしたまへ りしにこそ。これは、まだ、もてなしのうひうひしげに、よ ろづの事をつつましうのみ思ひたるけにや、見どころ多かる なまめかしさぞ劣りたる。ゆゑゆゑしきけはひだにもてつけ たらば、大将の見たまはんにも、さらにかたはなるまじ」な ど、このかみ心に思ひあつかはれたまふ。  物語などしたまひて、暁方になりてぞ寝たまふ。かたは らに臥せたまひて、故宮の御ことども、年ごろおはせし御あ りさまなど、まほならねど語りたまふ。いとゆかしう、見た てまつらずなりにけるをいと口惜しう悲し、と思ひたり。昨-

夜の心知りの人々は、 「いかなりつらんな、いとらうたげ なる御さまを。いみじう思すとも、かひあるべきことかは。 いとほし」と言へば、右近ぞ、 「さもあらじ。かの御乳母の、 ひき据ゑて、すずろに語り愁へし気色、もて離れてぞ言ひし。 宮も、逢ひても逢はぬやうなる心ばへにこそうちうそぶき口 ずさびたまひしか」 「いさや、ことさらにもやあらん、そは 知らずかし」 「昨夜の灯影のいとおほどかなりしも、事あり 顔には見えたまはざりしを」などうちささめきて、いとほし がる。 中将の君、事情を知って浮舟を引き取る 乳母、車請ひて、常陸殿へ去ぬ。北の方にか うかうと言へば、胸つぶれ騒ぎて、 「人も けしからぬさまに言ひ思ふらむ。正身もい かが思すべき。かかる筋のもの憎みは、あて人もなきものな り」と、おのが心ならひに、あわたたしく思ひなりて、夕つ方 参りぬ。宮おはしまさねば心やすくて、 「あやしく心幼

げなる人を参らせおきて、うしろやすくは頼みきこえさせな がら、鼬のはべらむやうなる心地のしはべれば、よからぬも のどもに、憎み恨みられはべる」
と聞こゆ。 「いとさ言 ふばかりの幼げさにはあらざめるを。うしろめたげに気色ば みたる御まかげこそわづらはしけれ」とて笑ひたまへるが、 心恥づかしげなる御まみを見るも、心の鬼に恥づかしくぞお ぼゆる。いかに思すらん、と思へば、えもうち出できこえず。 「かくてさぶらひたまはば、年ごろの願ひの満つ心地し て、人の漏り聞きはべらむもめやすく、面だたしきことにな ん思ひたまふるを、さすがにつつましきことになんはべりけ る。深き山の本意は、みさをになんはべるべきを」とてうち 泣くもいといとほしくて、 「ここは、何ごとかうしろめ たくおぼえたまふべき。とてもかくても、うとうとしく思ひ 放ちきこえばこそあらめ、けしからずだちてよからぬ人の時- 時ものしたまふめれど、その心をみな人見知りためれば、心

づかひして、便なうはもてなしきこえじ、と思ふを、いかに 推しはかりたまふにか」
とのたまふ。 「さらに御心をば 隔てありても思ひきこえさせはべらず。かたはらいたうゆる しなかりし筋は、何にかかけても聞こえさせはべらん。その 方ならで、思しはなつまじき綱もはべるをなん、とらへどこ ろに頼みきこえさする」など、おろかならず聞こえて、 「明日明後日、固き物忌にはべるを、おほぞうならぬ所にて 過ぐして、またも参らせはべらむ」と聞こえていざなふ。い とほしく本意なきわざかなと思せど、えとどめたまはず。 中将の君、浮舟を三条の小家に移す あさましうかたはなることにおどろき騒ぎ たれば、をさをさものも聞こえで出でぬ。 かやうの方違へ所と思ひて、小さき家設け たりけり。三条わたりに、ざればみたるが、まだ造りさした る所なれば、はかばかしきしつらひもせでなんありける。 「あはれ、この御身ひとつをよろづにもて悩みきこゆる

かな。心にかなはぬ世には、あり経まじきものにこそありけ れ。みづからばかりは、ただひたぶるに品々しからず人げな う、たださる方にはひ籠りて過ぐしつべし、この御ゆかりは、 心憂しと思ひきこえしあたりを、睦びきこゆるに、便なきこ とも出で来なば、いと人わらへなるべし。あぢきなし。異や うなりとも、ここを人にも知らせず、忍びておはせよ。おの づからともかくも仕うまつりてん」
と言ひおきて、みづから は帰りなんとす。君は、うち泣きて、世にあらんことところ せげなる身と思ひ屈したまへるさまいとあはれなり。親、は た、まして、あたらしく惜しければ、つつがなくて思ふごと 見なさむと思ひ、さるかたはらいたきことにつけて、人にも あはあはしく思はれ言はれんがやすからぬなりけり。心地な くなどはあらぬ人の、なま腹立ちやすく、思ひのままにぞす こしありける。かの家にも隠ろへては据ゑたりぬべけれど、 しか隠ろへたらむをいとほしと思ひて、かくあつかふに、年

ごろかたはら避らず、明け暮れ見ならひて、かたみに心細く わりなし、と思へり。 「ここは、まだかくあばれて、危 げなる所なめり。さる心したまへ。曹司曹司にある者ども召 し出でて使ひたまへ。宿直人のことなど言ひおきてはべるも、 いとうしろめたけれど、かしこに腹立ち恨みらるるがいと苦 しければ」と、うち泣きて帰る。 中将の君左近少将をのぞき見る 歌の贈答 少将のあつかひを、守は、またなきものに 思ひいそぎて、もろ心に、さまあしく、営 まずと怨ずるなりけり。いと心憂く、この 人によりかかる紛れどももあるぞかしと、またなく思ふ方の ことのかかれば、つらく心憂くて、をさをさ見入れず。かの 宮の御前にていと人げなく見えしに、多く思ひおとしてけれ ば、私ものに思ひかしづかましを、など思ひしことはやみに たり。ここにてはいかが見ゆらむ、まだうちとけたるさま見 ぬに、と思ひて、のどかにゐたまへる昼つ方、こなたに渡り

て物よりのぞく。白き綾のなつかしげなるに、今様色の擣目 などもきよらなるを着て、端の方に前栽見るとてゐたるは、 いづこかは劣る、いときよげなめるは、と見ゆ。むすめ、いと まだ片なりに、何心もなきさまにて添ひ臥したり。宮の上の 並びておはせし御さまどもの思ひ出づれば、口惜しのさまど もや、と見ゆ。前なる御達にものなど言ひ戯れて、うちとけ たるは、いと、見しやうににほひなく人わろげにも見えぬを、 かの宮なりしは、異少将なりけり、と思ふ、をりしも言ふこ とよ。 「兵部卿宮の萩のなほことにおもしろくもあるかな。 いかでさる種ありけん。同じ枝ざしなどのいと艶なるこそ。 一日参りて、出でたまふほどなりしかば、え折らずなりにき。 ことだに惜しき、と宮のうち誦じたまへりしを、若き人たち に見せたらましかば」とて、我も歌詠みゐたり。 「いで や、心ばせのほどを思へば、人ともおぼえず、出で消えはい とこよなかりけるに。何ごと言ひゐたるぞ」と呟かるれど、

いと心地なげなるさまは、さすがにしたらねば、いかが言ふ とて、試みに、    しめ結ひし小萩がうへもまよはぬにいかなる露に   うつる下葉ぞ とあるに、いとほしくおぼえて、    「宮城野の小萩がもとと知らませばつゆもこころをわ   かずぞあらまし いかでみづから聞こえさせあきらめむ」と言ひたり。 中将の君、浮舟の将来を思って薫に及ぶ 故宮の御こと聞きたるなめり、と思ふに、 いとど、いかで人とひとしく、とのみ思ひ あつかはる。あいなう、大将殿の御さま容- 貌ぞ、恋しう面影に見ゆる。同じうめでたしと見たてまつり しかど、宮は思ひ離れたまひて、心もとまらず。侮りて押し 入りたまへりけるを思ふもねたし。この君は、さすがに、尋 ね思す心ばへのありながら、うちつけにも言ひかけたまはず、

つれなし顔なるしもこそいたけれ、よろづにつけて思ひ出で らるれば、 「若き人はまして、かくや思ひ出できこえたまふ らん。わがものにせんと、かく憎き人を思ひけむこそ、見苦 しきことなべかりけれ」など、ただ心にかかりて、ながめの みせられて、とてやかくてやと、よろづによからむあらまし ごとを思ひつづくるに、いと難し。 「やむごとなき御身のほ ど、御もてなし、見たてまつりたまへらむ人は、いますこし なのめならず、いかばかりにてかは心をとどめたまはん。世 の人のありさまを見聞くに、劣りまさり、賤しうあてなる品 に従ひて、容貌も心もあるべきものなりけり。わが子どもを 見るに、この君に似るべきやはある。少将をこの家の内にま たなきものに思へども、宮に見くらべたてまつりしは、いと も口惜しかりしに、推しはからる。当代の御かしづきむすめ を得たてまつりたまへらむ人の御目移しには、いともいとも 恥づかしく、つつましかるべきものかな」と思ふに、すずろ

に心地もあくがれにけり。 浮舟、隠れ家で思いわびる 中将の君と贈答 旅の宿はつれづれにて、庭の草もいぶせき 心地するに、賤しき東国声したる者どもば かりのみ出で入り、慰めに見るべき前栽の 花もなし。うちあばれて、はればれしからで明かし暮らすに、 宮の上の御ありさま思ひ出づるに、若い心地に恋しかりけり。 あやにくだちたまへりし人の御けはひも、さすがに思ひ出で られて、何ごとにかありけむ、いと多くあはれげにのたまひ しかな、なごりをかしかりし御移り香も、まだ残りたる心地 して、恐ろしかりしも思ひ出でらる。  母君、たつやと、いとあはれなる文を書きておこせたまふ。 おろかならず心苦しう思ひあつかひたまふめるに、かひなう もてあつかはれたてまつること、とうち泣かれて、 「いかに つれづれに見ならはぬ心地したまふらん。しばし忍び過ぐし たまへ」とある返り事に、 「つれづれは何か。心やすくて

なむ。   ひたぶるにうれしからまし世の中にあらぬところと思は   ましかば」
と、幼げに言ひたるを見るままに、ほろほろとうち泣きて、 かうまどはしはふるるやうにもてなすことと、いみじければ、   うき世にはあらぬところをもとめても君がさかり   を見るよしもがな と、なほなほしきことどもを言ひかはしてなん、心のべける。 薫、宇治を訪れ、新造の御堂を見る かの大将殿は、例の、秋深くなりゆくころ、 ならひにしことなれば、寝ざめ寝ざめにも の忘れせず、あはれにのみおぼえたまひけ れば、宇治の御堂造りはてつと聞きたまふに、みづからおは しましたり。久しう見たまはざりつるに、山の紅葉もめづら しうおぼゆ。こぼちし寝殿、こたみはいとはればれしう造り なしたり。昔、いと事そぎて聖だちたまへりし住まひを思ひ

出づるに、故宮も恋しうおぼえたまひて、さまかへてけるも 口惜しきまで、常よりもながめたまふ。もとありし御しつら ひは、いと尊げにて、いま片つ方を女しくこまやかになど、 一方ならざりしを、網代屏風、何かのあらあらしきなどは、 かの御堂の僧坊の具にことさらになさせたまへり。山里めき たる具どもを、ことさらにせさせたまひて、いたうも事そが ず、いときよげにゆゑゆゑしくしつらはれたり。 薫、弁の尼に浮舟への仲介を頼んで帰京 遣水のほとりなる岩にゐたまひて、とみに も立たれず、 絶えはてぬ清水になどかなき人のお   もかげをだにとどめざりけん 涙を拭ひつつ、弁の尼君の方に立ち寄りたまへれば、いと悲 しと、見たてまつるにただひそみにひそむ。長押にかりそ めにゐたまひて、簾のつま引き上げて物語したまふ。几帳に 隠ろへてゐたり。言のついでに、 「かの人は、先つころ宮に

と聞きしを、さすがにうひうひしくおぼえてこそ、訪れ寄ら ね。なほこれより伝へはてたまへ」
とのたまへば、「一- 日、かの母君の文はべりき。忌違ふとて、ここかしこになん あくがれたまふめる、このごろもあやしき小家に隠ろへもの したまふめるも心苦しく、すこし近きほどならましかば、そ こにも渡して心やすかるべきを、荒ましき山道に、たはやす くもえ思ひたたでなん、とはべりし」と聞こゆ。 「人々の かく恐ろしくすめる道に、まろこそ旧りがたく分け来れ。何 ばかりの契りにか、と思ふは、あはれになん」とて、例の、 涙ぐみたまへり。 「さらば、その心やすからん所に、消息し たまへ。みづからやは、かしこに出でたまはぬ」とのたまへ ば、 「仰せ言を伝へはべらんことはやすし。今さらに京 を見はべらんことはものうくて。宮にだにえ参らぬを」と聞 こゆ。 「などてか。ともかくも人の聞き伝へばこそあらめ、 愛宕の聖だに、時に従ひては出でずやはありける。深き契り

を破りて、人の願ひを満てたまはむこそ尊からめ」
とのたま へば、 「人済すこともはべらぬに。聞きにくきこともこ そ出でまうで来れ」と、苦しげに思ひたれど、 「なほよきを りななるを」と、例ならず強ひて、 「明後日ばかり車奉らん。 その旅の所、尋ねおきたまへ。ゆめ、をこがましうひがわざ すまじくを」と、ほほ笑みてのたまへば、わづらはしく、い かに思すことならん、と思へど、奥なくあはあはしからぬ御- 心ざまなれば、おのづからわが御ためにも、人聞きなどはつ つみたまふらむ、と思ひて、 「さらば承りぬ。近きほど にこそ。御文などを見せさせたまへかし。ふりはへ、さかし らめきて、心しらひのやうに思はれはべらんも、今さらに伊- 賀たうめにやとつつましくてなん」と聞こゆ。 「文はやすか るべきを、人のもの言ひいとうたてあるものなれば。右大将 は、常陸守のむすめをなんよばふなるなども、とりなしてん をや。その守の主、いと荒々しげなめり」とのたまへば、う

ち笑ひて、いとほし、と思ふ。  暗うなれば出でたまふ。下草のをかしき花ども、紅葉など 折らせたまひて、宮に御覧ぜさせたまふ。かひなからずおは しぬべけれど、かしこまりおきたるさまにて、いたうも馴れ きこえたまはずぞあめる。内裏より、ただの親めきて、入道 の宮にも聞こえたまへば、いとやむごとなき方は限りなく思 ひきこえたまへり。こなたかなたとかしづききこえたまふ宮- 仕に添へて、むつかしき私心の添ひたるも、苦しかりけり。 弁の尼、京に出て浮舟の隠れ家を訪れる のたまひしまだつとめて、睦ましく思す下- 臈侍一人、顔知らぬ牛飼つくり出でて遣 はす。 「庄の者どもの田舎びたる召し出で つつ、つけよ」とのたまふ。必ず出づべくのたまへりければ、 いとつつましく苦しけれど、うちけさうじつくろひて乗りぬ。 野山のけしきを見るにつけても、いにしへよりの古事ども思 ひ出でられて、ながめ暮らしてなん来着きける。いとつれづ

れに人目も見えぬ所なれば、引き入れて、 「かくなん参り来 つる」と、しるべの男して言はせたれば、初瀬の供にありし 若人出で来て下ろす。あやしき所をながめ暮らし明かすに、 昔語もしつべき人の来たれば、うれしくて呼び入れたまひ て。親と聞こえける人の御あたりの人と思ふに、睦ましきな るべし。 「あはれに、人知れず、見たてまつりし後より は、思ひ出できこえぬをりなけれど、世の中かばかり思ひた まへ棄てたる身にて、かの宮にだに参りはべらぬを、この大- 将殿の、あやしきまでのたまはせしかば、思うたまへおこし てなん」と聞こゆ。君も乳母も、めでたしと見おききこえて し人の御さまなれば、忘れぬさまにのたまふらむもあはれな れど、にはかにかく思したばかるらんとは思ひも寄らず。 薫、隠れ家を来訪、浮舟と一夜を語らう 宵うち過ぐるほどに、宇治より人参れりと て、門忍びやかにうちたたく。さにやあら ん、と思へど、弁開けさせたれば、車をぞ

引き入るなる。あやし、と思ふに、 「尼君に対面たまはら む」とて、この近き御庄の預りの名のりをせさせたまへれば、 戸口にゐざり出でたり。雨すこしうちそそくに、風はいと冷 やかに吹き入りて、言ひ知らずかをり来れば、かうなりけり と、誰も誰も心ときめきしぬべき御けはひをかしければ、用- 意もなくあやしきに、まだ思ひあへぬほどなれば、心騒ぎて、 「いかなることにかあらん」と言ひあへり。 「心やすき所 にて、月ごろの思ひあまることも聞こえさせんとてなむ」と 言はせたまへり。いかに聞こゆべきことにかと、君は苦しげ に思ひてゐたまへれば、乳母見苦しがりて、 「しかおはしま したらむを、立ちながらやは帰したてまつりたまはん。かの 殿にこそ、かくなむ、と忍びて聞こえめ。近きほどなれば」 と言ふ。 「うひうひしく。などてかさはあらん。若き御 どちもの聞こえたまはんは、ふとしもしみつくべくもあらぬ を。あやしきまで、心のどかにもの深うおはする君なれば、

よも人のゆるしなくて、うちとけたまはじ」
など言ふほど、 雨やや降り来れば、空はいと暗し。宿直人のあやしき声した る、夜行うちして、 「家の辰巳の隅のくづれいと危し。 この、人の御車入るべくは、引き入れて御門鎖してよ。かか る、人の供人こそ、心はうたてあれ」など言ひあへるも、む くむくしく聞きならはぬ心地したまふ。 「佐野のわたりに家 もあらなくに」など口ずさびて、里びたる簀子の端つ方にゐ たまへり。    さしとむるむぐらやしげき東屋のあまりほどふる雨そ   そきかな とうち払ひたまへる追風、いとかたはなるまで東国の里人も 驚きぬべし。  とざまかうざまに聞こえのがれん方なければ、南の廂に御- 座ひきつくろひて、入れたてまつる。心やすくしも対面した まはぬを、これかれ押し出でたり。遣戸といふもの鎖して、

いささか開けたれば、 「飛騨の工匠も恨めしき隔てかな。か かる物の外には、まだゐならはず」と愁へたまひて、いかが したまひけん、入りたまひぬ。かの人形の願ひものたまはで、 ただ、 「おぼえなきもののはさまより見しより、すずろに恋 しきこと。さるべきにやあらむ、あやしきまでぞ思ひきこゆ る」とぞ語らひたまふべき。人のさまいとらうたげにおほど きたれば、見劣りもせず、いとあはれと思しけり。 翌朝、薫、浮舟を伴って隠れ家を出る ほどもなう明けぬる心地するに、鶏などは 鳴かで、大路近き所に、おぼとれたる声し て、いかにとか聞きも知らぬ名のりをして、 うち群れて行くなどぞ聞こゆる。かやうの朝ぼらけに見れば、 物戴きたる者の鬼のやうなるぞかし、と聞きたまふも、かか る蓬のまろ寝にならひたまはぬ心地もをかしくもありけり。 宿直人も門開けて出づる音す。おのおの入りて臥しなどする を聞きたまひて、人召して、車、妻戸に寄せさせたまふ。か

き抱きて乗せたまひつ。誰も誰も、あやしう、あへなきこと を思ひ騒ぎて、 「九月にもありけるを。心憂のわざや。いか にしつることぞ」と嘆けば、尼君もいといとほしく、思ひの 外なる事どもなれど、 「おのづから思すやうあらん。う しろめたうな思ひたまひそ。九月は明日こそ節分と聞きし か」と言ひ慰む。今日は十三日なりけり。尼君、 「こたみは え参らじ。宮の上聞こしめさむこともあるに。忍びて行き帰 りはべらんも、いとうたてなん」と聞こゆれど、まだきこの ことを聞かせたてまつらんも心恥づかしくおぼえたまひて、 「それは後にも罪さり申したまひてん。かしこもしるべなく ては、たづきなき所を」と責めてのたまふ。 「人一人やはべ るべき」とのたまへば、この君に添ひたる侍従と乗りぬ。乳- 母、尼君の供なりし童などもおくれて、いとあやしき心地し てゐたり。 宇治への道中、薫、弁の尼 共に大君を思う

近きほどにや、と思へば、宇治へおはする なりけり。牛などひきかふべき心まうけし たまへりけり。河原過ぎ、法性寺のわたり おはしますに、夜は明けはてぬ。若き人はいとほのかに見た てまつりて、めできこえて、すずろに恋ひたてまつるに、世 の中のつつましさもおぼえず。君ぞ、いとあさましきにもの もおぼえで、うつぶし臥したるを、 「石高きわたりは苦しき ものを」とて、抱きたまへり。薄物の細長を、車の中にひき 隔てたれば、はなやかにさし出でたる朝日影に、尼君はいと はしたなくおぼゆるにつけて、故姫君の御供にこそ、かやう にても見たてまつりつべかりしか、ありふれば思ひかけぬこ とをも見るかな、と悲しうおぼえて、つつむとすれどうちひ そみつつ泣くを、侍従はいと憎く、もののはじめに、かたち 異にて乗り添ひたるをだに思ふに、なぞかくいやめなると、 憎くをこにも思ふ。老いたる者は、すずろに涙もろにあるも

のぞと、おろそかにうち思ふなりけり。  君も、見る人は憎からねど、空のけしきにつけても、来し 方の恋しさまさりて、山深く入るままにも、霧たちわたる心- 地したまふ。うちながめて寄りゐたまへる袖の、重なりなが ら長やかに出でたりけるが、川霧に濡れて、御衣の紅なるに、 御直衣の花のおどろおどろしう移りたるを、おとしがけの高 き所に見つけて、ひき入れたまふ。    かたみぞと見るにつけては朝露のところせきまでぬる   る袖かな と、心にもあらず独りごちたまふを聞きて、いとどしぼるば かり尼君の袖も泣き濡らすを、若き人、あやしう見苦しき世 かな、心ゆく道にいとむつかしきこと添ひたる心地す。忍び がたげなる鼻すすりを聞きたまひて、我も忍びやかにうちか みて、いかが思ふらんといとほしければ、 「あまたの年ごろ、 この道を行きかふたび重なるを思ふに、そこはかとなくもの

あはれなるかな。すこし起き上りて、この山の色も見たまへ。 いと埋れたりや」
と、強ひてかき起こしたまへば、をかしき ほどにさし隠して、つつましげに見出だしたるまみなどは、 いとよく思ひ出でらるれど、おいらかに、あまりおほどき過 ぎたるぞ、心もとなかめる。いといたう児めいたるものから、 用意の浅からずものしたまひしはやと、なほ、行く方なき悲 しさは、むなしき空にも満ちぬべかめり。 宇治に到着する 浮舟不安な身の上を思う おはし着きて、あはれ亡き魂や宿りて見た まふらん、誰によりてかくすずろにまどひ 歩くものにもあらなくに、と思ひつづけた まひて、下りてはすこし心しらひて立ち去りたまへり。女は、 母君の思ひたまはむことなど、いと嘆かしけれど、艶なるさ まに、心深くあはれに語らひたまふに、思ひ慰めて下りぬ。 尼君はことさらに下りで廊にぞ寄するを、わざと思ふべき住 まひにもあらぬを、用意こそあまりなれ、と見たまふ。御庄

より、例の、人々騒がしきまで参り集まる。女の御台は、尼- 君の方よりまゐる。道はしげかりつれど、このありさまはい とはればれし。川のけしきも山の色も、もてはやしたるつく りざまを見出だして、日ごろのいぶせさ慰みぬる心地すれど、 いかにもてないたまはんとするにかと、浮きてあやしうお ぼゆ。  殿は京に御文書きたまふ。    まだなりあはぬ仏の御飾など見たまへおきて、今日よ   ろしき日なりければ、急ぎものしはべりて、乱り心地の   悩ましきに、物忌なりけるを思ひたまへ出でてなん。今-   日明日ここにてつつしみはべるべき。 など、母宮にも姫宮にも聞こえたまふ。 薫、今後の浮舟のあつかいを思案する うちとけたる御ありさま、いますこしをか しくて入りおはしたるも恥づかしけれど、 もて隠すべくもあらでゐたまへり。女の御-

装束など、色々によくと思ひてし重ねたれど、すこし田舎び たることもうちまじりてぞ。昔のいと萎えばみたりし御姿の、 あてになまめかしかりしのみ思ひ出でられて。髪の裾のをか しげさなどは、こまごまとあてなり、宮の御髪のいみじくめ でたきにも劣るまじかりけり、と見たまふ。かつは、 「この 人をいかにもてなしてあらせむとすらん。ただ今、ものもの しげにてかの宮に迎へ据ゑんも音聞き便なかるべし。さりと て、これかれある列にて、おほぞうにまじらはせんは本意な からむ。しばし、ここに隠してあらん」と思ふも、見ずはさ うざうしかるべくあはれにおぼえたまへば、おろかならず語 らひ暮らしたまふ。故宮の御ことものたまひ出でて、昔物語 をかしうこまやかに言ひ戯れたまへど、ただいとつつましげ にて、ひたみちに恥ぢたるを、さうざうしう思す。 「あやま りてかうも心もとなきはいとよし。教へつつも見てん。田舎 びたるざれ心もてつけて、品々しからず、はやりかならまし

かばしも形代不用ならまし」
と思ひなほしたまふ。 薫、琴を調べ、浮舟に教え語らう ここにありける琴箏の琴召し出でて、かか ること、はた、ましてえせじかし、と口惜 しければ、独り調べて、宮亡せたまひて後、 ここにてかかるものにいと久しう手触れざりつかしと、めづ らしく我ながらおぼえて、いとなつかしくまさぐりつつなが めたまふに、月さし出でぬ。宮の御琴の音のおどろおどろし くはあらで、いとをかしくあはれに弾きたまひしはや、と思 し出でて、 「昔、誰も誰もおはせし世に、ここに生ひ出でた まへらましかば、いますこしあはれはまさりなまし。親王の 御ありさまは、よその人だにあはれに恋しくこそ思ひ出でら れたまへ。などて、さる所には年ごろ経たまひしぞ」とのた まへば、いと恥づかしくて、白き扇をまさぐりつつ添ひ臥し たるかたはらめ、いと隈なう白うて、なまめいたる額髪の隙 など、いとよく思ひ出でられてあはれなり。まいて、かやう

のこともつきなからず教へなさばや、と思して、 「これはす こしほのめかいたまひたりや。あはれ、わがつまといふ琴は、 さりとも手ならしたまひけん」など問ひたまふ。 「その大- 和言葉だに、つきなくならひにければ、ましてこれは」と言 ふ、いとかたはに心おくれたりとは見えず。ここに置きて、 え思ふままにも来ざらむことを思すが、今より苦しきは、な のめには思さぬなるべし。琴は押しやりて、 「楚王の台の上 の夜の琴の声」と誦じたまへるも、かの弓をのみ引くあたり にならひて、いとめでたく思ふやうなりと、侍従も聞きゐた りけり。さるは、扇の色も心おきつべき閨のいにしへをば知 らねば、ひとへにめできこゆるぞ、おくれたるなめるかし。 事こそあれ、あやしくも言ひつるかな、と思す。 弁の尼の贈歌、薫、和して感慨を託す 尼君の方よりくだものまゐれり。箱の蓋に、 紅葉蔦など折り敷きて、ゆゑなからず取り まぜて、敷きたる紙に、ふつつかに書きた

るもの、隈なき月にふと見ゆれば、目とどめたまふほどに、 くだもの急ぎにぞ見えける。    やどり木は色かはりぬる秋なれどむかしおぼえて   澄める月かな と古めかしく書きたるを、恥づかしくもあはれにも思されて、 里の名もむかしながらに見し人のおもがはりせるねや   の月かげ わざと返り事とはなくてのたまふ、侍従なむ伝へけるとぞ。
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