源氏物語

匂宮、初瀬詣での帰途、宇治に中宿りする

Beneath the Oak

二月の二十日のほどに、兵部卿宮初瀬に詣 でたまふ。古き御願なりけれど、思しも立 たで年ごろになりにけるを、宇治のわたり の御中宿のゆかしさに、多くはもよほされたまへるなるべし。 恨めしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さる る、ゆゑもはかなしや。上達部いとあまた仕うまつりたまふ。 殿上人などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつ れり。  六条院より伝はりて、右大殿しりたまふ所は、川よりをち にいと広くおもしろくてあるに、御設けせさせたまへり。大- 臣も、帰さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかな る御物忌の重くつつしみたまふべく申したなれば、え参らぬ

よしのかしこまり申したまへり。宮、なますさまじと思した るに、宰相中将今日の御迎へに参りあひたまへるに、なか なか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと御心ゆ きぬ。大臣をば、うちとけて見えにくく、ことごとしきもの に思ひきこえたまへり。御子の君たち、右大弁、侍従宰相、 権中将、頭少将、蔵人兵衛佐などみなさぶらひたまふ。帝- 后も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御お ぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人 も、みな私の君に心寄せ仕うまつりたまふ。 八の宮、薫たちを歓待 匂宮歌を贈答する 所につけて、御しつらひなどをかしうしな して、碁、双六、弾棊の盤ともなどとり出 でて、心々にすさび暮らしたまひつ。宮は、 ならひたまはぬ御歩きに悩ましく思されて、ここにやすらは むの御心も深ければ、うち休みたまひて、夕つ方ぞ御琴など 召して遊びたまふ。

 例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして物の音 澄みまさる心地して、かの聖の宮にも、たださし渡るほどな れば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに昔の事思し出でら れて、 「笛をいとをかしうも吹きとほしたなるかな。誰 ならん。昔の六条院の御笛の音聞きしは、いとをかしげに愛- 敬づきたる音にこそ吹きたまひしか。これは澄みのぼりて、 ことごとしき気のそひたるは、致仕の大臣の御族の笛の音に こそ似たなれ」など独りごちおはす。 「あはれに久しう なりにけりや。かやうの遊びなどもせで、あるにもあらで過 ぐし来にける年月の、さすがに多く数へらるるこそかひなけ れ」などのたまふついでにも、姫君たちの御ありさまあたら しく、かかる山ふところにひきこめてはやまずもがなと思し つづけらる。宰相の君の、同じうは近きゆかりにて見まほし げなるを、さしも思ひ寄るまじかめり、まいて今様の心浅か らむ人をばいかでかは、など思し乱れ、つれづれとながめた

まふ所は、春の夜もいと明かしがたきを、心やりたまへる旅- 寝の宿は、酔の紛れにいととう明けぬる心地して、飽かず帰 らむことを、宮は思す。  はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむる などいろいろ見わたさるるに、川ぞひ柳の起き臥しなびく水- 影などおろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、い とめづらしく見棄てがたし、と思さる。宰相は、かかるたよ りを過ぐさずかの宮に参うでばや、と思せど、あまたの人目 を避きて独り漕ぎ出でたまはん舟渡りのほども軽らかにや、 と思ひやすらひたまふほどに、かれより御文あり。    山風にかすみ吹きとく声はあれどへだてて見ゆる   をちの白波 草にいとをかしう書きたまへり。宮、思すあたりと見たまへ ば、いとをかしう思いて、 「この御返りは我せん」とて、    をちこちの汀に波はへだつともなほ吹きかよへ宇治

  の川風
 中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さ しやりたまふほど酣酔楽遊びて、水にのぞきたる廊に造りお ろしたる橋の心ばへなど、さる方にいとをかしうゆゑある宮 なれば、人々心して舟より下りたまふ。ここは、また、さま 異に、山里びたる網代屏風などの、ことさらにことそぎて、 見どころある御しつらひを、さる心してかき払ひ、いといた うしなしたまへり。いにしへの、音などいと二なき弾物ども を、わざと設けたるやうにはあらで、次々弾き出でたまひて、 壱越調の心に、桜人遊びたまふ。主の宮の御琴をかかるつい でにと人々思ひたまへれど、箏の琴をぞ心にも入れずをりを り掻き合はせたまふ。耳馴れぬけにやあらむ、いともの深く おもしろし、と若き人々思ひしみたり。所につけたる饗いと をかしうしたまひて、よそに思ひやりしほどよりは、なま孫- 王めく賎しからぬ人あまた、王四位の古めきたるなど、か

く人目見るべきをりと、 かねていとほしがりきこ えけるにや、さるべきか ぎり参りあひて、瓶子と る人もきたなげならず、 さる方に、古めきて、よしよししうもてなしたまへり。客人 たちは、御むすめたちの住まひたまふらん御ありさま思ひや りつつ、心つく人もあるべし。  かの宮は、まいて、かやすきほどならぬ御身をさへ、とこ ろせく思さるるを、かかるをりにだにと忍びかねたまひて、 おもしろき花の枝を折らせたまひて、御供にさぶらふ上童の をかしきして奉りたまふ。   「山桜にほふあたりにたづねきておなじかざしを折り   てけるかな 野をむつましみ」とやありけん。御返りは、いかでかはなど、

聞こえにくく思しわづらふ。 「かかるをりのこと、わざとが ましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎き事になむしは べりし」など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたて まつりたまふ。   「かざしをる花のたよりに山がつの垣根を過ぎぬ春   のたび人 野をわきてしも」と、いとをかしげにらうらうじく書きたま へり。  げに川風も心わかぬさまに吹き通ふ物の音どもおもしろく 遊びたまふ。御迎へに、藤大納言仰せ言にて参りたまへり。 人々あまた参り集ひ、もの騒がしくて競ひ帰りたまふ。若き 人々、飽かず、かへりみのみせられける。宮は、またさるべ きついでして、と思す。花盛りにて、四方の霞もながめやる ほどの見どころあるに、漢のも倭のも歌ども多かれど、うる さくて尋ねも聞かぬなり。 匂宮の執心 八の宮、姫君の行く末を案ずる

もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやら ずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべ なくても御文は常にありけり。宮も、 「な ほ聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか 心ときめきにもなりぬべし。いとすきたまへる親王なれば、 かかる人なむと聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」 と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、 かやうのこと戯れにももて離れたまへる御心深さなり。  いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど 暮らしがたくながめたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌ど もいよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦 しう、かたほにもおはせましかばあたらしう惜しき方の思ひ はうすくやあらまし、など明け暮れ思し乱る。姉君二十五、 中の君二十三にぞなりたまひける。  宮は重くつつしみたまふべき年なりけり。もの心細く思し

て、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたま はねば、出立いそぎをのみ思せば、涼しき道にもおもむきた まひぬべきを、ただこの御事どもに、いといとほしく、限り なき御心強さなれど、必ず、今はと見棄てたまはむ御心は乱 れなむ、と見たてまつる人も推しはかりきこゆるを。思すさ まにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじ う、見ゆるされぬべき際の人の、真心に後見きこえんなど思 ひよりきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一ところ 一ところ世に住みつきたまふよすがあらば、それを見ゆづる 方に慰めおくべきを、さまで深き心にたづねきこゆる人もな し。まれまれはかなきたよりに、すき事聞こえなどする人は、 まだ若々しき人の心のすさびに、物詣の中宿、往き来のほど のなほざり事に気色ばみかけて、さすがに、かくながめたま ふありさまなど推しはかり、侮らはしげにもてなすは、めざ ましうて、なげの答へをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、な

ほ見ではやまじ、と思す御心深かりける。さるべきにやおは しけむ。 薫、八の宮から姫君たちの後見を託される 宰相中将、その秋中納言になりたまひぬ。 いとどにほひまさりたまふ。世の営みにそ へても、思すこと多かり。いかなる事、と いぶせく思ひわたりし年ごろよりも、心苦しうて過ぎたまひ にけむいにしへざまの思ひやらるるに、罪軽くなりたまふば かり、行ひもせまほしくなむ。かの老人をばあはれなるもの に思ひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛らはしつつ、 心寄せとぶらひたまふ。  宇治に参うでで久しうなりにけるを、思ひ出でて参りたま へり。七月ばかりになりにけり。都にはまだ入りたたぬ秋の けしきを、音羽の山近く、風の音もいと冷やかに、槇の山辺 もわづかに色づきて、なほ、たづね来たるに、をかしうめづ らしうおぼゆるを、宮はまいて、例よりも待ちよろこびきこ

えたまひて、このたびは心細げなる物語いと多く申したまふ。 「亡からむ後、この君たちをさるべきもののたよりにも とぶらひ、思ひ棄てぬものに数まへたまへ」などおもむけつ つ聞こえたまへば、 「一言にても承りおきてしかば、さら に思ひたまへ怠るまじくなん。世の中に心をとどめじとはぶ きはべる身にて、何ごとも頼もしげなき生ひ先の少なさにな むはべれど、さる方にてもめぐらひはべらむ限りは、変らぬ 心ざしを御覧じ知らせんとなむ、思ひたまふる」など聞こえ たまへば、うれしと思いたり。  夜深き月のあ きらかにさし出 でて、山の端近 き心地するに、 念誦いとあはれ にしたまひて、

昔物語したまふ。 「このごろの世はいかがなりにたらむ。 宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びのをりに さぶらひあひたる中に、物の上手とおぼしきかぎり、とりど りにうち合はせたる拍子など、ことごとしきよりも、よしあ りとおぼえある女御更衣の御局々の、おのがじしはいどまし く思ひ、うはべの情をかはすべかめるに、夜深きほどの人の 気しめりぬるに、心やましく掻い調べほのかにほころび出で たる物の音など聞きどころあるが多かりしかな。何ごとにも、 女はもてあそびのつまにしつべくものはかなきものから、人 の心を動かすくさはひになむあるべき。されば罪の深きにや あらん。子の道の闇を思ひやるにも、男はいとしも親の心を 乱さずやあらむ。女は限りありて、言ふかひなき方に思ひ棄 つべきにも、なほいと心苦しかるべき」など、おほかたの事 につけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、と心苦しく思ひ やらるる御心の中なり。

「すべて、まことに、しか思ひたまへ棄てたるけにやは べらむ、みづからの事にては、いかにもいかにも深う思ひ知 る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心 こそ背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、 さればや、起ちて舞ひはべりけむ」など聞こえて、飽かず一- 声聞きし御琴の音を切にゆかしがりたまへば、うとうとしか らぬはじめにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたま ひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞいとほのか に掻き鳴らしてやみたまひぬる。いとど、人のけはひも絶え てあはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの 心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾 き合はせたまはむ。 「おのづから、かば かりならしそめつる残りは、 世籠れるどちに譲りきこえ

てん」
とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。   「われ亡くて草の庵は荒れぬともこのひとことはか  れじとぞ思ふ かかる対面もこのたびや限りならむともの心細きに、忍びか ねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」とて、うち 泣きたまふ。客人、   「いかならむ世にかかれせむ長きよのちぎり結べる草   の庵は 相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎてさぶらはむ」など 聞こえたまふ。 薫、姫君たちと語り内省す 匂宮の懸想 こなたにて、かの問はず語りの古人召し出 でて、残り多かる物語などせさせたまふ。 入り方の月隈なくさし入りて、透影なまめ かしきに、君たちも奥まりておはす。世の常の懸想びてはあ らず、心深う物語のどやかに聞こえつつものしたまへば、さ

るべき御答へなど聞こえたまふ。三の宮いとゆかしう思いた るものを、と心の中には思ひ出でつつ、わが心ながら、なほ 人には異なりかし、さばかり、御心もて、ゆるいたまふこと の、さしも急がれぬよ、もて離れて、はた、あるまじきこと とはさすがにおぼえず、かやうにてものをも聞こえかはし、 をりふしの花紅葉につけて、あはれをも情をも通はすに、憎 からずものしたまふあたりなれば、宿世ことにて、外ざまに もなりたまはむは、さすがに口惜しかるべう、領じたる心地 しけり。  まだ夜深きほどに帰りたまひぬ。心細く残りなげに思いた りし御気色を、思ひ出できこえたまひつつ、さわがしきほど 過ぐして参うでむ、と思す。兵部卿宮も、この秋のほどに紅- 葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす。御- 文は絶えず奉りたまふ。女は、まめやかに思すらんとも思ひ たまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてな

しつつ、をりをりに聞こえかはしたまふ。 八の宮、訓戒を遺して山寺に参籠する 秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうも の心細くおぼえたまひければ、例の、静か なる所にて念仏をも紛れなうせむと思して、 君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。 「世の事として、 つひの別れをのがれぬわざなめれど、思ひ慰まん方ありてこ そ、悲しさをもさますものなめれ、また見ゆづる人もなく、 心細げなる御ありさまどもをうち棄ててむがいみじきこと。 されども、さばかりの事に妨げられて、長き夜の闇にさへま どはむが益なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ棄つる世 を、去りなん後の事知るべきことにはあらねど、わが身ひと つにあらず、過ぎたまひにし御面伏に、軽々しき心ども使ひ たまふな。おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、 この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り ことなる身と思しなして、ここに世を尽くしてんと思ひとり

たまへ。ひたぶるに思ひしなせば、事にもあらず過ぎぬる年- 月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠りて、いちじる くいとほしげなるよそのもどきを負はざらむなんよかるべ き」
などのたまふ。ともかくも身のならんやうまでは、思し も流されず、ただ、いかにしてか、後れたてまつりては、世 に片時もながらふべきと思すに、かく心細きさまの御あらま しごとに、言ふ方なき御心まどひどもになむ。心の中にこそ 思ひ棄てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいた まうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに 恨めしかるべき御ありさまになむありける。  明日入りたまはむとての日は、例ならずこなたかなたたた ずみ歩きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの 宿にて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、亡からむ後、 いかにしてかは若き人の絶え籠りては過ぐいたまはむ、と涙 ぐみつつ、念誦したまふさま、いときよげなり。おとなびた

る人々召し出でて、「うしろやすく仕うまつれ。何ごと も、もとよりかやすく世に聞こえあるまじき際の人は、末の 衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれ ば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りか たじけなく、いとほしきことなむ多かるべき。ものさびしく 心細き世を経るは、例のことなり。生まれたる家のほど、お きてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地に も、過ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数めかむと思ふ とも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々し くよからぬ方にもてなしきこゆな」などのたまふ。  まだ暁に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、 「なからむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊 びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。な 思し入れそ」など、かへりみがちにて出でたまひぬ。二とこ ろ、いとど心細くもの思ひつづけられて、起き臥しうち語ら

ひつつ、 「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさま し。今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあら ば」 泣きみ笑ひみ、戯れ事もまめ事も、同じ心に慰め かはして過ぐしたまふ。 八の宮、山寺にて病み、薨去する かの行ひたまふ三昧、今日はてぬらんと、 いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参 りて、 「今朝より悩ましくてなむ、え 参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。 さるは、例よりも対面心もとなきを」と聞こえたまへり。胸 つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて急ぎ せさせたまひて、奉れなどしたまふ。二三日はおこたりたま はず。いかにいかにと人奉りたまへど、 「ことにおどろ おどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしも よろしくならば、いま、念じて」など、言葉にて聞こえたま ふ。阿闍梨つとさぶらひて、仕うまつりけり。 「はかな

き御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらん。君た ちの御こと、何か思し嘆くべき。人はみな御宿世といふもの 異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」
と、いよ いよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「いまさら にな出でたまひそ」と、諫め申すなりけり。  八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけしきもいと どしきころ、君たちは、朝夕霧のはるる間もなく、思し嘆き つつながめたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、 水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出 だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、明けぬなり、と聞 こゆるほどに、人々来て、 「この夜半ばかりになむ亡せたま ひぬる」と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思 ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくもの おぼえぬ心地して、いとど、かかる事には、涙もいづちか去 にけん、ただうつぶし臥したまへり。いみじきめも、見る目

の前にて、おぼつかなからぬこそ常のことなれ、おぼつかな さそひて、思し嘆くことことわりなり。しばしにても、後れ たてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地ども にて、いかでかは後れじ、と泣き沈みたまへど、限りある道 なりければ、何のかひなし。  阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに、後の御事もよ ろづに仕うまつる。 「亡き人になりたまへらむ御さま容貌 をだに、いま一たび見たてまつらん」と思しのたまへど、 「いまさらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、 またあひたまふまじきことを聞こえ知らせつれば、今はまし て、かたみに御心とどめたまふまじき御心づかひをならひた まふべきなり」とのみ聞こゆ。おはしましける御ありさまを 聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を憎くつらし となむ思しける。入道の御本意は、昔より深くおはせしかど、 かう見ゆづる人なき御事どもの見棄てがたきを、生ける限り

は明け暮れえ避らず見たてまつるを、よに心細き世の慰めに も思し離れがたくて過ぐいたまへるを、限りある道には、先- 立ちたまふも慕ひたまふ御心も、かなはぬわざなりけり。 薫、哀傷し弔問する 姫君たちの深い悲嘆 中納言殿には聞きたまひて、いとあへなく 口惜しく、いま一たび心のどかにて聞こゆ べかりけること多う残りたる心地して、お ほかた世のありさま思ひつづけられて、いみじう泣いたまふ。 「またあひ見ること難くや」などのたまひしを、なほ常 の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを人よりけに思 ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、 かへすがへす飽かず悲しく思さる。阿闍梨のもとにも、君た ちの御とぶらひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御とぶ らひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、 ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれな めりしなどをも、思ひ知りたまふ。世の常のほどの別れだに、

さし当りては、またたぐひなきやうにのみ皆人の思ひまどふ ものなめるを、慰む方なげなる御身どもにて、いかやうなる 心地どもしたまふらむと思しやりつつ、後の御わざなど、あ るべき事ども推しはかりて、阿闍梨にもとぶらひたまふ。こ こにも、老人どもにことよせて、御誦経などのことも、思ひ やりきこえたまふ。  明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、 まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つ る木の葉の音も、水の響きも、涙の滝もひとつもののやうに くれまどひて、かうては、いかでか限りあらむ御命もしばし めぐらひたまはむ、とさぶらふ人々は心細く、いみじく慰め きこえつつ思ひまどふ。ここにも念仏の僧さぶらひて、おは しましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕う まつりし人々の、御忌に籠りたるかぎりは、あはれに行ひて 過ぐす。 匂宮の心寄せ 姫君たち心を閉ざす

兵部卿宮よりも、たびたびとぶらひきこえ たまふ。さやうの御返りなど、聞こえん心- 地もしたまはず。おぼつかなければ、中納- 言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるな めり、と恨めしく思す。紅葉の盛りに、文など作らせたまは むとて、出で立ちたまひしを、かくこのわたりの御逍遙、便 なきころなれば、思しとまりて口惜しくなん。  御忌もはてぬ。限りあれば涙も隙もや、と思しやりて、い と多く書きつづけたまへり。時雨がちなる夕つ方、   「をじか鳴く秋の山里いかならむ小萩がつゆのかかる   夕ぐれ ただ今の空のけしきを、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づ きなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺もわきてながめらるる ころになむ」などあり。 「げに、いとあまり思ひ知らぬや うにて、たびたびになりぬるを、なほ聞こえたまへ」など、

中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。 今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべき物とや は思ひし、心憂くも過ぎにける日数かな、と思すに、またか き曇り、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、 「な ほえこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなど しはべるが、げに限りありけるにこそ、とおぼゆるも、うと ましう心憂くて」と、らうたげなるさまに泣きしをれておは するもいと心苦し。  夕暮のほどより来ける御使宵すこし過ぎてぞ来たる。 「い かでか、帰りまゐらん、今宵は旅寝して」と言はせたまへど、 「たち返りこそ参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さ かしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、    なみだのみ霧りふたがれる山里はまがきにしかぞも   ろ声になく 黒き紙に、夜の墨つぎもたどたどしければ、ひきつくろふと

ころもなく、筆にまかせて、押し包みて出だしたまひつ。  御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、 さやうのもの怖ぢすまじきをや選り出でたまひけむ、むつか しげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、 片時に参り着きぬ。御前にても、いたく濡れて参りたれば、 禄賜ふ。さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、いますこしおと なびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、いづれかいづ れならむ、とうちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠らね ば、 「待つとて起きおはしまし、また御覧ずるほどの久し きは、いかばかり御心にしむことならん」と、御前なる人々 ささめききこえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。  まだ朝霧深きあしたに、急ぎ起きて奉りたまふ。   「朝霧に友まどはせる鹿の音をおほかたにやはあはれ   とも聞く もろ声は劣るまじくこそ」とあれど、 「あまり情だたんもう

るさし。一ところの御蔭に隠ろへたるを頼みどころにてこそ、 何ごとも心やすくて過ぐしつれ、心より外にながらへて、思 はずなる事の紛れつゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思 しおくめりし亡き御魂にさへ瑕やつけたてまつらん」
と、な べていとつつましう恐ろしうて聞こえたまはず。この宮など をば、軽らかに、おしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。 なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさま になまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、 これこそはめでたきなめれ、と見たまひながら、そのゆゑゆ ゑしく情ある方に言をまぜきこえむもつきなき身のありさま どもなれば、何か、ただかかる山伏だちて過ぐしてむ、と思す。 薫、宇治を訪問し、大君と歌を詠み交す 中納言殿の御返りばかりは、かれよりもま めやかなるさまに聞こえたまへば、これよ りもいとけうとげにはあらず聞こえ通ひた まふ。御忌はてても、みづから参うでたまへり。東の廂の下

りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古- 人召し出でたり。闇にまどひたまへる御あたりに、いとまば ゆくにほひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御- 答へなどをだにえしたまはねば、 「かやうにはもてないた まはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはんさまならむこそ、 聞こえ承るかひあるべけれ。なよび気色ばみたるふるまひを ならひはべらねば、人づてに聞こえはべるは、言の葉もつづ きはべらず」とあれば、 「あさましう、今までながらへは べるやうなれど、思ひさまさん方なき夢にたどられはべりて なむ、心より外に空の光見はべらむもつつましうて、端近う もえ身じろきはべらぬ」と聞こえたまへれば、 「事といへ ば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もてはれ ばれしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方 もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむはしばしを も、明らめきこえまほしくなむ」と申したまへば、「げにこ

そ、いとたぐひなげなめる御ありさまを慰めきこえたまふ御- 心ばへの浅からぬほど」
など人々聞こえ知らす。  御心地にも、さこそいへ、やうやう心静まりて、よろづ思 ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまで遙けき野辺をわ け入りたまへる心ざしなども思ひ知りたまふべし、すこしゐ ざり寄りたまへり。思すらんさま、またのたまひ契りしこと など、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて男々しきけ はひなどは見えたまはぬ人なれば、けうとくすずろはしくな どはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すず ろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひつづくるも さすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言など答へ きこえたまふさまの、げによろづ思ひほれたまへるけはひな れば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。黒き几帳の透影 のいと心苦しげなるに、ましておはすらんさま、ほの見し明 けぐれなど思ひ出でられて、

  色かはる浅茅を見ても墨染にやつるる袖を思ひこそ  やれ と、独り言のやうにのたまへば、   「色かはる袖をばつゆのやどりにてわが身ぞさらにお   きどころなき はつるる糸は」と末は言ひ消ちて、いといみじく忍びがたき けはひにて入りたまひぬなり。 薫、弁と対面して、尽きぬ感慨に沈む ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、 飽かずあはれにおぼゆ。老人ぞ、こよなき 御かはりに出で来て、昔今をかき集め、悲 しき御物語ども聞こゆる。あり難くあさましき事どもをも見 たる人なりければ、かうあやしく衰へたる人とも思し棄てら れず、いとなつかしう語らひたまふ。 「いはけなかりしほ どに、故院に後れたてまつりて、いみじう悲しきものは世な りけり、と思ひ知りにしかば、人となりゆく齢にそへて、官-

位、世の中のにほひも何ともおぼえずなん。ただかう静やか なる御住まひなどの心にかなひたまへりしを、かくはかなく 見なしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめ の世の思ひ知らるる心ももよほされにたれど、心苦しうてと まりたまへる御事どもの、絆など聞こえむはかけかけしきや うなれど、ながらへても、かの御言あやまたず、聞こえ承ら まほしさになん。さるは、おぼえなき御古物語聞きしより、 いとど世の中に跡とめむともおぼえずなりにたりや」
と、う ち泣きつつのたまへば、この人はましていみじく泣きて、え も聞こえやらず。御けはひなどのただそれかとおぼえたまふ に、年ごろうち忘れたりつるいにしへの御事をさへとり重ね て、聞こえやらむ方もなくおぼほれゐたり。  この人は、かの大納言の御乳母子にて、父はこの姫君たち の母北の方の母方の叔父、左中弁にて亡せにけるが子なりけ り。年ごろ遠き国にあくがれ、母君も亡せたまひて後、かの

殿にはうとくなり、この宮には尋ね取りてあらせたまふなり けり。人もいとやむごとなからず、宮仕馴れにたれど、心地 なからぬものに宮も思して、姫君たちの御後見だつ人になし たまへるなりけり。昔の御事は、年ごろかく朝夕に見たてま つり馴れ、心隔つる隈なく思ひきこゆる君たちにも、一言う ち出できこゆるついでなく、忍びこめたりけれど、中納言の 君は、古人の問はず語り、みな、例のことなれば、おしなべ てあはあはしうなどは言ひひろげずとも、いと恥づかしげな める御心どもには聞きおきたまへらむかし、と推しはからる るが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、またもて離れて はやまじ、と思ひ寄らるるつまにもなりぬべき。  今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも、 「これ や限りの」などのたまひしを、などか、さしもやはとうち頼 みて、また見たてまつらずなりにけむ、秋やはかはれる、あ またの日数も隔てぬほどに、おはしにけむ方も知らず、あへ

なきわざなりや。ことに例の人めいたる御しつらひなく、い と事そぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払ひ、あ たりをかしくもてないたまへりし御住まひも、大徳たち出で 入り、こなたかなたひき隔てつつ、御念誦の具どもなどぞ変 らぬさまなれど、仏は、みなかの寺に移したてまつりてむと す、と聞こゆるを、聞きたまふにも、かかるさまの人影など さへ絶えはてんほど、とまりて思ひたまはむ心地どもを酌み きこえたまふも、いと胸いたう思しつづけらる。 「いたく 暮れはべりぬ」と申せば、ながめさして立ちたまふに、雁鳴 きて渡る。   秋霧のはれぬ雲ゐにいとどしくこの世をかりと言ひ知  らすらむ  兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを あつかひぐさにしたまふ。今はさりとも心やすきを、と思し て、宮はねむごろに聞こえたまひけり。はかなき御返りも聞

こえにくくつつましき方に、女方は思いたり。 「世にいとい たうすきたまへる御名のひろごりて、好ましく艶に思さるべ かめるも、かういと埋もれたる葎の下よりさし出でたらむ手 つきも、いかにうひうひしく、古めきたらむ」など思ひ屈し たまへり。 姫君たち、山籠りの寂寥の日々を過ごす 「さても、あさましうて明け暮らさるるは 月日なりけり。かく頼みがたかりける御世 を、昨日今日とは思はで、ただおほかた定 めなきはかなさばかりを明け暮れのことに聞き見しかど、我 も人も後れ先だつほどしもやは経むなどうち思ひけるよ。来 し方を思ひつづくるも、何の頼もしげなる世にもあらざりけ れど、ただいつとなくのどかにながめ過ぐし、もの恐ろしく つつましきこともなくて経つるものを、風の音も荒らかに、 例見ぬ人影も、うち連れ、声づくれば、まづ胸つぶれて、も の恐ろしくわびしうおぼゆることさへそひにたるが、いみじ

うたへがたきこと」
と、二ところうち語らひつつ、干す世も なくて過ぐしたまふに、年も暮れにけり。  雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音な れど、今はじめて思ひ入りたらむ山住みの心地したまふ。女 ばらなど、 「あはれ、年はかはりなんとす。心細く悲しきこ とを。あらたまるべき春待ち出でてしがな」と、心を消たず 言ふもあり。難きことかな、と聞きたまふ。向ひの山にも、 時々の御念仏に籠りたまひしゆゑこそ、人も参り通ひしか。 阿闍梨も、いかがと、おほかたにまれに訪れきこゆれど、今 は何しにかはほのめき参らむ。いとど人目の絶えはつるも、 さるべきことと思ひながら、いと悲しくなん。何とも見ざり し山がつも、おはしまさで後、たまさかにさしのぞき参るは、 めづらしく思ほえたまふ。このごろの事とて、薪木の実拾ひ て参る山人どもあり。  阿闍梨の室より、炭などのやうの物奉るとて、 「年ご

ろにならひはべりにける宮仕の、今とて絶えはべらんが、心- 細さになむ」
と聞こえたり。必ず冬籠る山風防ぎつべき綿衣 など遣はししを思し出でてやりたまふ。法師ばら、童べなど の登り行くも、見えみ見えずみ、いと雪深きを、泣く泣く立 ち出でて見送りたまふ。 「御髪などおろいたまうてける、 さる方にておはしまさましかば、かやうに通ひ参る人も、お のづからしげからまし。いかにあはれに心細くとも、あひ見 たてまつること絶えてやまましやは」など、語らひたまふ。    君なくて岩のかけ道絶えしより松の雪をもなにとか   は見る 中の宮、   おくやまの松葉につもる雪とだに消えにし人を思はまし   かば うらやましくぞまたも降りそふや。 薫、匂宮の意を伝え、かつわが恋情を訴う

中納言の君、新しき年はふとしもえとぶら ひきこえざらん、と思しておはしたり。雪 もいとところせきに、よろしき人だに見え ずなりにたるを、なのめならぬけはひして軽らかにものした まへる心ばへの、浅うはあらず思ひ知られたまへば、例より は見入れて、御座などひきつくろはせたまふ。墨染ならぬ御- 火桶、物の奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけて も、宮の待ちよろこびたまひし御気色などを人々も聞こえ出 づ。対面したまふことをば、つつましくのみ思いたれど、思 ひ隈なきやうに人の思ひたま へれば、いかがはせむとて、 聞こえたまふ。うちとくとは なけれど、さきざきよりはす こし言の葉つづけてものなど のたまへるさま、いとめやす

く、心恥づかしげなり。かやうにてのみは、え過ぐしはつま じ、と思ひなりたまふも、いとうちつけなる心かな、なほ移 りぬべき世なりけり、と思ひゐたまへり。   「宮のいとあやしく恨みたまふことのはべるかな。あは れなりし御一言を承りおきしさまなど、事のついでにもや漏 らしきこえたりけん、また、いと隈なき御心の性にて、推し はかりたまふにやはべらん、ここになむ、ともかくも聞こえ させなすべきと頼むを、つれなき御気色なるは、もて損ひ きこゆるぞ、とたびたび怨じたまへば、心より外なることと 思ひたまふれど、里のしるべ、いとこよなうもえあらがひき こえぬを。何かは、いとさしももてなしきこえたまはむ。す いたまへるやうに人は聞こえなすべかめれど、心の底あやし く深うおはする宮なり。なほざり言などのたまふわたりの、 心軽うてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思ひ おとしたまふにやとなむ、聞くこともはべる。何ごとにもあ

るに従ひて、心をたつる方もなく、おどけたる人こそ、ただ 世のもてなしに従ひて、とあるもかかるもなのめに見なし、 すこし心に違ふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞな ども、思ひなすべかめれば、なかなか心長き例になるやうも あり。崩れそめては、龍田の川の濁る名をもけがし、言ふか ひなくなごりなきやうなる事などもみなうちまじるめれ。心 の深うしみたまふべかめる御心ざまにかなひ、ことに背くこ と多くなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々しく、は じめをはり違ふやうなる事など、見せたまふまじき気色にな む。人の見たてまつり知らぬことを、いとよう見きこえたる を、もし似つかはしく、さもやと思し寄らば、そのもてなし などは、心の限り尽くして仕うまつりなむかし。御中道のほ ど、乱り脚こそ痛からめ」
と、いとまめやかにて言ひつづけ たまへば、わが御みづからの事とは思しもかけず、人の親め きて答へんかし、と思しめぐらしたまへど、なほ言ふべき言

の葉もなき心地して、 「いかにとかは。かけかけしげにの たまひつづくるに、なかなか聞こえんこともおぼえはべら で」とうち笑ひたまへるも、おいらかなるものからけはひを かしう聞こゆ。   「必ず御みづから聞こしめし負ふべき事とも思ひたまへ ず。それは、雪を踏みわけて参り来たる心ざしばかりを御覧 じわかむ御このかみ心にても過ぐさせたまひてよかし。かの 御心寄せは、またことにぞはベベかめる。ほのかにのたまふ さまもはべめりしを。いさや、それも人の分ききこえがたき ことなり。御返りなどは、いづ方にかは聞こえたまふ」と問 ひ申したまふに、 「ようぞ戯れにも聞こえざりける。何とな けれど、かうのたまふにも、いかに恥づかしう胸つぶれま し」と思ふに、え答へやりたまはず。   雪ふかき山のかけ橋君ならでまたふみかよふあとを  見ぬかな

と書きて、さし出でたまへれば、 「御ものあらがひこそ、 なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、    「つららとぢ駒ふみしだく山川をしるべしがてらまづ   やわたらむ さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」と聞 こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことに答へたま はず。けざやかにいともの遠くすくみたるさまには見えたま はねど、今様の若人たちのやうに、艶げにももてなさで、い とめやすくのどやかなる心ばへならむとぞ、推しはかられた まふ人の御けはひなる。かうこそはあらまほしけれ、と思ふ に違はぬ心地したまふ。事にふれて気色ばみ寄るも、知らず 顔なるさまにのみもてなしたまへば、心恥づかしうて、昔物- 語などをぞものまめやかに聞こえたまふ。 薫、大君の迎え入れを申し出る 薫の威徳

「暮れはてなば、雪いとど空も閉ぢぬべ うはべり」と、御供の人々声づくれば、帰 りたまひなむとて、 「心苦しう見めぐら さるる御住まひのさまなりや。ただ山里のやうにいと静かな る所の、人も行きまじらぬはべるを、さも思しかけば、いか にうれしくはべらむ」などのたまふも、 「いとめでたかるべ きことかな」と片耳に聞きてうち笑む女ばらのあるを、中の 宮は、いと見苦しう、いかにさやうにはあるべきぞ、と見聞 きゐたまへり。  御くだものよしあるさまにてまゐり、御供の人々にも、肴 などめやすきほどにて土器さし出でさせたまひけり。かの御- 移り香もて騒がれし宿直人ぞ、鬘鬚とかいふ頬つき心づきな くてある、はかなの御頼もし人や、と見たまひて、召し出で たり。 「いかにぞ。おはしまさで後心細からむな」など問 ひたまふ。うちひそみつつ、心弱げに泣く。 「世の中に

頼むよるべもはべらぬ身にて、一ところの御蔭に隠れて、三- 十余年を過ぐしはべりにければ、今はまして、野山にまじり はべらむも、いかなる木の本をかは頼むべくはべらむ」
と申 して、いとど人わろげなり。  おはしましし方開けさせたまへれば、塵いたう積りて、仏 のみぞ花の飾衰へず、行ひたまひけりと見ゆる御床など取り やりてかき払ひたり。本意をも遂げば、と契りきこえしこと 思ひ出でて、   立ちよらむかげとたのみし椎が本むなしき床になりに  けるかな とて、柱に寄りゐたまへるをも、若き人々はのぞきてめでた てまつる。  日暮れぬれば、近き所どころに御庄など仕うまつる人々に、 御秣とりにやりける、君も知りたまはぬに、田舎びたる人々、 おどろおどろしくひき連れ参りたるを、あやしうはしたなき

わざかな、と御覧ずれど、 老人に紛らはしたまひつ。 おほかたかやうに仕うまつ るべく、仰せおきて出でた まひぬ。 新年、阿闍梨、姫君たちに芹・蕨を贈る 年かはりぬれば、空のけしきうららかなる に、汀の氷とけたるを、あり難くも、とな がめたまふ。聖の坊より、 「雪消えに摘み てはべるなり」とて、沢の芹、蕨など奉りたり。斎の御台に まゐれる、 「所につけては、かかる草木のけしきに従ひて、 行きかふ月日のしるしも見ゆるこそをかしけれ」など、人々 の言ふを、何のをかしきならむ、と聞きたまふ。   君がをる峰のわらびと見ましかば知られやせまし春   のしるしも   雪深きみぎはの小芹誰がために摘みかはやさん親

 なしにして
など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らした まふ。  中納言殿よりも宮よりも、をり過ぐさずとぶらひきこえた まふ。うるさく何となきこと多かるやうなれば、例の、書き 漏らしたるなめり。 匂宮、中の君と贈答する、匂宮、薫を恨む 花盛りのころ、宮、かざしを思し出でて、 そのをり見聞きたまひし君たちなども、 「いとゆゑありし親王の御住まひを、また も見ずなりにしこと」など、おほかたのあはれを口々聞こゆ るに、いとゆかしう思されけり。   つてに見しやどの桜をこの春はかすみへだてず折り   てかざさむ と、心をやりてのたまへりけり。あるまじきことかな、と見 たまひながら、いとつれづれなるほどに、見どころある御文

の、うはべばかりをもて消たじとて、   いづくとかたづねて折らむ墨ぞめにかすみこめた   る宿のさくらを なほかくさし放ち、つれなき御気色のみ見ゆれば、まことに 心憂しと思しわたる。  御心にあまりたまひては、ただ中納言を、とざまかうざま に責め恨みきこえたまへば、をかしと思ひながら、いとうけ ばりたる後見顔にうち答へきこえて、あだめいたる御心ざま をも見あらはす時々は、 「いかでか。かからんには」など、 申したまへば、宮も御心づかひしたまふべし、 「心にかな ふあたりを、まだ見つけぬほどぞや」とのたまふ。  大殿の六の君を思し入れぬこと、なま恨めしげに大臣も思 したりけり。されど、 「ゆかしげなき仲らひなる中にも、 大臣のことごとしくわづらはしくて、何ごとの紛れをも見と がめられんがむつかしき」と、下にはのたまひて、すまひた

まふ。 薫、宇治を訪れ姫君たちの姿をかいま見る その年、三条宮焼けて、入道の宮も六条院 に移ろひたまひ、何くれともの騒がしきに 紛れて、宇治のわたりを久しう訪れきこえ たまはず。まめやかなる人の御心は、またいとことなりけれ ば、いとのどかに、おのがものとはうち頼みながら、女の心 ゆるびたまはざらむ限りは、あざればみ情なきさまに見えじ、 と思ひつつ、昔の御心忘れぬ方を深く見知りたまへ、と思す。  その年、常よりも暑さを人わぶるに、川面涼しからむはや と思ひ出でて、にはかに参うでたまへり。朝涼みのほどに出 でたまひければ、あやにくにさしくる日影もまばゆくて、宮 のおはせし西の廂に宿直人召し出でておはす。そなたの母屋 の仏の御前に君たちものしたまひけるを、け近からじとて、 わが御方に渡りたまふ御けはひ、忍びたれど、おのづからう ちみじろきたまふほど近う聞こえければ、なほあらじに、こ

なたに通ふ障子の端の方に、掛け金したる所に、穴のすこし あきたるを見おきたまへりければ、外に立てたる屏風をひき やりて見たまふ。ここもとに几帳をそへ立てたる、あな口惜 し、と思ひてひき帰るをりしも、風の簾をいたう吹き上ぐべ かめれば、 「あらはにもこそあれ。その御几帳押し出でて こそ」と言ふ人あなり。をこがましきもののうれしうて、見 たまへば、高きも短きも、几帳を二間の簾に押し寄せて、こ の障子に対ひて開きたる障子より、あなたに通らんとなり けり。  まづ一人たち出でて、几帳よりさしのぞきて、この御供の 人々のとかう行きちがひ、涼みあへるを見たまふなりけり。 濃き鈍色の単衣に萱草の袴のもてはやしたる、なかなかさま かはりてはなやかなりと見ゆるは、着なしたまへる人からな めり。帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持たまへり。 いとそびやかに様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足ら

ぬほどならむと見えて、末まで塵のまよひなく、艶々とこち たううつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見え て、にほひやかにやはらかにおほどきたるけはひ、女一の宮 もかうざまにぞおはすべきと、ほの見たてまつりしも思ひく らべられて、うち嘆かる。  また、ゐざり出でて、 「かの障子はあらはにもこそあれ」 と見おこせたまへる用意、うちとけたらぬさまして、よしあ らんとおぼゆ。頭つき、髪ざしのほど、いますこしあてにな まめかしきさまなり。 「あなたに屏風もそへて立ててはべ りつ。急ぎてしものぞきたまはじ」と、若き人々何心なく言 ふあり。 「いみじうもあるべきわざかな」とて、うしろめ たげにゐざり入りたまふほど、気高う心にくきけはひそひて 見ゆ。黒き袷一襲、同じやうなる色あひを着たまへれど、こ れはなつかしうなまめきて、あはれげに心苦しうおぼゆ。髪 さはらかなるほどに、落ちたるなるべし、末すこし細りて、

色なりとかいふめる、翡翠だちていとをかしげに、糸をより かけたるやうなり。紫の紙に書きたる経を片手に持ちたまへ る手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。立 ちたりつる君も、障子口にゐて、何ごとにかあらむ、こなた を見おこせて笑ひたる、いと愛敬づきたり。
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