源氏物語

前口上−−鬚黒邸の悪御達の話であること

Bamboo River

これは、源氏の御族にも離れたまへりし後 大殿わたりにありける悪御達の、落ちとま り残れるが問はず語りしおきたるは、紫の ゆかりにも似ざめれど、かの女どもの言ひけるは、 「源氏の 御末々にひが事どものまじりて聞こゆるは、我よりも年の数 つもりほけたりける人のひが言にや」などあやしがりける、 いづれかはまことならむ。 鬚黒死後、訪客もなく、近親も疎遠になる 尚侍の御腹に、故殿の御子は男三人、女 二人なむおはしけるを、さまざまにかしづ きたてむことを思しおきてて、年月の過ぐ るも心もとながりたまひしほどに、あへなく亡せたまひにし かば、夢のやうにて、いつしかと急ぎ思しし御宮仕もおこた

りぬ。人の心、時にのみよるわざなりければ、さばかり勢い かめしくおはせし大臣の御なごり、内々の御宝物、領じたま ふ所どころなど、その方の衰へはなけれど、おほかたのあり さまひきかへたるやうに殿の内しめやかになりゆく。尚侍の 君の御近きゆかり、そこらこそは世にひろごりたまへど、な かなかやむごとなき御仲らひのもとよりも親しからざりしに、 故殿情すこしおくれ、むらむらしさ過ぎたまへりける御本- 性にて、心おかれたまふこともありけるゆかりにや、誰にも えなつかしく聞こえ通ひたまはず。六条院には、すべて、な ほ、昔に変らず数まへきこえたまひて、亡せたまひなむ後の 事ども書きおきたまへる御処分の文どもにも、中宮の御次に 加へたてまつりたまへれば、右の大殿などは、なかなかその 心ありて、さるべきをりをり訪れきこえたまふ。 大君、帝・冷泉院・蔵人少将らに求婚さる

男君たちは御元服などして、おのおの大人 びたまひにしかば、殿おはせで後、心もと なくあはれなることもあれど、おのづから なり出でたまひぬべかめり。姫君たちをいかにもてなしたて まつらむと思し乱る。内裏にも、必ず宮仕の本意深きよしを 大臣の奏しおきたまひければ、大人びたまひぬらむ年月を推 しはからせたまひて仰せ言絶えずあれど、中宮のいよいよ並 びなくのみなりまさりたまふ御けはひにおされて、皆人無徳 にものしたまふめる末に参りて、遙かに目をそばめられたて まつらむもわづらはしく、また人に劣り数ならぬさまにて見 む、はた、心づくしなるべきを思ほしたゆたふ。  冷泉院より、いとねむごろに思しのたまはせて、尚侍の君 の、昔、本意なくて過ぐしたまうしつらさをさへとり返し恨 みきこえたまうて、 「今は、まいて、さだ過ぎすさまじ きありさまに思ひ棄てたまふとも、うしろやすき親になずら

へて譲りたまへ」
と、いとまめやかに聞こえたまひければ、 「いかがはあるべきことならむ。みづからのいと口惜しき 宿世にて、思ひの外に心づきなしと思されにしが恥づかしう かたじけなきを、この世の末にや御覧じなほされまし」など 定めかねたまふ。  容貌いとようおはする聞こえありて、心かけ申したまふ人 多かり。右の大殿の蔵人少将とかいひしは、三条殿の御腹に て、兄君たちよりもひき越しいみじうかしづきたまひ、人柄 もいとをかしかりし君、いとねむごろに申したまふ。いづ方 につけてももて離れたまはぬ御仲らひなれば、この君たちの 睦び参りたまひなどするはけ遠くもてなしたまはず。女房に もけ近く馴れ寄りつつ、思ふことを語らふにもたよりありて、 夜昼、あたり去らぬ耳かしがましさを、うるさきものの心苦 しきに、尚侍の殿も思したり。母北の方の御文もしばしば奉 りたまひて、 「いと軽びたるほどにはべるめれど、思しゆ

るす方もや」
となむ大臣も聞こえたまひける。姫君をば、さ らにただのさまにも思しおきてたまはず、中の君をなむ、い ますこし世の聞こえ軽々しからぬほどになずらひならば、さ もや、と思しける。ゆるしたまはずは盗みも取りつべく、む くつけきまで思へり。こよなきこととは思さねど、女方の心 ゆるしたまはぬ事の紛れあるは、音聞きもあはつけきわざな れば、聞こえつぐ人をも、 「あなかしこ、過ちひき出づ な」などのたまふに朽されてなむ、わづらはしがりける。 薫、玉鬘より源氏の形見として親しまれる 六条院の御末に、朱雀院の宮の御腹に生ま れたまへりし君、冷泉院に御子のやうに思 しかしづく四位侍従、そのころ十四五ばか りにて、いときびはに幼かるべきほどよりは、心おきておと なおとなしく、めやすく、人にまさりたる生ひ先しるくもの したまふを、尚侍の君は、婿にても見まほしく思したり。こ の殿は、かの三条宮といと近きほどなれば、さるべきをりを

りの遊び所には、君達にひかれて見えたまふ時々あり。心に くき女のおはする所なれば、若き男の心づかひせぬなう、見 えしらがひさまよふ中に、容貌のよさは、この立ち去らぬ蔵- 人少将、なつかしく心恥づかしげになまめいたる方は、この 四位侍従の御ありさまに似る人ぞなかりける。六条院の御け はひ近うと思ひなすが心ことなるにやあらむ、世の中におの づからもてかしづかれたまへる人なり。若き人々心ことにめ であへり。尚侍の殿も、 「げにこそめやすけれ」などのたま ひて、なつかしうもの聞こえたまひなどす。 「院の御心ば へを思ひ出できこえて、慰む世なういみじうのみ思ほゆるを、 その御形見にも誰をかは見たてまつらむ。右大臣はことごと しき御ほどにて、ついでなき対面も難きを」などのたまひて、 はらからのつらに思ひきこえたまへれば、かの君もさるべき 所に思ひて参りたまふ。世の常のすきずきしさも見えず、い といたうしづまりたるをぞ、ここかしこの若き人ども、口惜

しうさうざうしきことに思ひて、言ひなやましける。 夕霧、年賀に玉鬘訪問 大君について懇談 正月の朔日ごろ、尚侍の君の御はらからの 大納言、高砂うたひしよ、藤中納言、故大- 殿の太郎、真木柱のひとつ腹など参りたま へり。右大臣も、御子ども六人ながらひき連れておはしたり。 御容貌よりはじめて、飽かぬことなく見ゆる人の御ありさま おぼえなり。君たちも、さまざまいときよげにて、年のほど よりは官位過ぎつつ、何ごとを思ふらんと見えたるべし。 世とともに、蔵人の君は、かしづかれたるさまことなれど、 うちしめりて思ふことあり顔なり。  大臣は御几帳隔てて、昔に変らず御物語聞こえたまふ。 「そのこととなくて、しばしばもえ承らず。年の数そふ ままに、内裏に参るより外の歩きなどうひうひしうなりにて はべれば、いにしへの御物語も聞こえまほしきをりをり多く 過ぐしはべるをなむ。若き男どもは、さるべき事には召し使

はせたまへ。必ずその心ざし御覧ぜられよと戒めはべり」
な ど聞こえたまふ。 「今は、かく、世に経る数にもあらぬや うになりゆくありさまを思し数まふるになむ、過ぎにし御こ とも、いとど忘れがたく思ひたまへられける」と申したまひ けるついでに、院よりのたまはすることほのめかしきこえた まふ。 「はかばかしう後見なき人のまじらひはなかなか見- 苦しきをと、かたがた思ひたまへなむわづらふ」と申したま へば、 「内裏に仰せらるることあるやうに承りしを、いづ 方に思ほし定むべきことにか。院は、げに、御位を去らせた まへるにこそ、さかり過ぎたる心地すれど、世にあり難き御 ありさまは旧りがたくのみおはしますめるを、よろしう生ひ 出づる女子はべらましかばと思ひたまへよりながら、恥づか しげなる御仲にまじらふべきもののはべらでなん、口惜しう 思ひたまへらるる。そもそも、女一の宮の女御はゆるしきこ えたまふや。さきざきの人、さやうの憚りによりとどこほる

こともはべりかし」
と申したまへば、 「女御なん、つれづ れにのどかになりにたるありさまも、同じ心に後見て慰めま ほしきをなど、かのすすめたまふにつけて、いかがなどだに 思ひたまへよるになん」と聞こえたまふ。  これかれ、ここに集まりたまひて、三条宮に参りたまふ。 朱雀院の古き心ものしたまふ人々、六条院の方ざまのも、方- 方につけて、なほかの入道の宮をばえ避きず参りたまふなめ り。この殿の左近中将、右中弁、侍従の君なども、やがて大- 臣の御供に出でたまひぬ。ひき連れたまへる勢ことなり。 薫、夕刻に玉鬘邸を訪問し優雅にふるまう 夕つけて四位侍従参りたまへり。そこらお となしき若君達も、あまたさまざまに、い づれかはわろびたりつる、みなめやすかり つる中に、立ちおくれてこの君の立ち出でたまへる、いとこ よなく目とまる心地して、例のものめでする若き人たちは、 「なほことなりけり」など言ふ。 「この殿の姫君の御かたはら

には、これをこそさし並べて見め」
と、聞きにくく言ふ。げ にいと若うなまめかしきさまして、うちふるまひたまへる匂 ひ香など世の常ならず。姫君と聞こゆれど、心おはせむ人は、 げに人よりはまさるなめりと見知りたまふらむかし、とぞお ぼゆる。  尚侍の殿、御念誦堂におはして、 「こなたに」とのたま へれば、東の階より上りて、戸口の御簾の前にゐたまへり。 御前近き若木の梅心もとなくつぼみて、鶯の初声もいとおほ どかなるに、いとすかせたてまほしきさまのしたまへれば、 人々はかなきことを言ふに、言少なに心にくきほどなるをね たがりて、宰相の君と聞こゆる上臈の詠みかけたまふ。   折りて見ばいとどにほひもまさるやとすこし色めけ梅の  はつ花 口はやし、と聞きて、   「よそにてはもぎ木なりとやさだむらんしたに匂へる

 梅のはつ花 さらば袖ふれて見たまへ」
など言ひすさぶに、 「まことは 色よりも」と、口々、ひきも動かしつべくさまよふ。  尚侍の君、奥の方よりゐざり出でたまひて、 「うたての御- 達や。恥づかしげなるまめ人をさへ。よくこそ面なけれ」と、 忍びてのたまふなり。 「まめ人、とこそつけられたりけれ。 いと屈じたる名かな」と思ひゐたまへり。主の侍従、殿上な どもまだせねば、所どころも歩かでおはしあひたり。浅香の 折敷二つばかりして、くだもの、盃ばかりさし出でたまへり。 「大臣は、ねびまさりたまふままに、故院にいとようこそ おぼえたてまつりたまへれ。この君は、似たまへるところも 見えたまはぬを、けはひのいとしめやかになまめいたるもて なしぞ、かの御若ざかり思ひやらるる。かうざまにぞおはし けんかし」など、思ひ出できこえたまひて、うちしほたれた まふ。なごりさへとまりたるかうばしさを、人々はめでくつ

がへる。 正月下旬、薫玉鬘邸を訪う 少将らと小宴 侍従の君、まめ人の名をうれたしと思ひけ れば、二十余日のころ、梅の花盛りなるに、 にほひ少なげにとりなされじ、すき者なら はむかし、と思して、藤侍従の御もとにおはしたり。中門入 りたまふほどに、同じ直衣姿なる人立てりけり。隠れなむと 思ひけるをひきとどめたれば、この常に立ちわづらふ少将な りけり。寝殿の西面に琵琶箏の琴の声するに、心をまどはし て立てるなめり。 「苦しげや。人のゆるさぬこと思ひはじめ むは罪深かるべきわざかな」と思ふ。琴の声もやみぬれば、 「いざ、しるべしたまへ。まろはいとたどたどし」とて、 ひき連れて、西の渡殿の前なる紅梅の木のもとに、梅が枝を うそぶきて立ち寄るけはひの花よりもしるくさとうち匂へれ ば、妻戸おし開けて、人々あづまをいとよく掻き合はせたり。 女の琴にて、呂の歌はかうしも合はせぬを、いたし、と思ひ

て、いま一返りをり返しうたふを、琵琶も二なくいまめかし。 ゆゑありてもてないたまへるあたりぞかし、と心とまりぬれ ば、今宵はすこしうちとけて、はかなしごとなども言ふ。  内より和琴さし出でたり。かたみに譲りて手触れぬに、侍- 従の君して、尚侍の殿、「故致仕の大臣の御爪音になむ通ひ たまへると聞きわたるを、まめやかにゆかしくなん。今宵 は、なほ鶯にも誘はれたまへ」と、のたまひ出だしたれば、 あまえて爪食ふべきことにもあらぬをと思ひて、をさをさ心 にも入らず掻きわたしたまへるけしきいと響き多く聞こゆ。 「常に見たてまつり睦びざりし親なれど、世におはせずな りにきと思ふにいと心細きに、はかなき事のついでにも思ひ 出でたてまつるに、いとなんあはれなる。おほかた、この君 は、あやしう故大納言の御ありさまにいとようおぼえ、琴の 音など、ただそれとこそおぼえつれ」とて泣きたまふも、古 めいたまふしるしの涙もろさにや。

 少将も、声いとおもしろうて、「さき草」うたふ。さかし ら心つきてうち過ぐしたる人もまじらねば、おのづからかた みにもよほされて遊びたまふに、主の侍従は、故大臣に似た てまつりたまへるにや、かやうの方は後れて、盃をのみすす むれば、 「寿詞をだにせんや」と、辱づかしめられて、竹河 を同じ声に出だして、まだ若けれどをかしううたふ。簾の内 より土器さし出づ。 「酔のすすみては、忍ぶることもつつ まれず、ひが事するわざとこそ聞きはべれ。いかにもてない たまふぞ」と、とみに承け引かず。小袿重なりたる細長の人- 香なつかしう染みたるを、とりあへたるままにかづけたまふ。 「何ぞもぞ」などさうどきて、侍従は主の君にうちかづけ て去ぬ。ひきとどめてかづくれど、 「水駅にて夜更けにけ り」とて逃げにけり。 蔵人少将薫を羨む 玉鬘薫の筆跡を賞める

少将は、この源侍従の君のかうほのめき寄 るめれば、皆人これにこそ心寄せたまふら め、わが身はいとど屈じいたく思ひ弱りて、 あぢきなうぞ恨むる。   人はみな花に心をうつすらむひとりぞまどふ春の夜   の闇 うち嘆きて立てば、内の人の返し、   をりからやあはれも知らむ梅の花ただ香ばかりに移   りしもせじ 朝に、四位侍従のもとより、主の侍従のもとに、 「昨夜 は、いとみだりがはしかりしを、人々いかに見たまひけん」 と、見たまへ、と思しう仮名がちに書きて、端に、   竹河のはしうち出でしひとふしに深きこころのそこは   知りきや と書きたり。寝殿に持て参りて、これかれ見たまふ。 「手

なども、いとをかしうもあるかな。いかなる人、今よりかく ととのひたらむ。幼くて院にも後れたてまつり、母宮のしど けなう生ほしたてたまへれど、なほ人にはまさるべきにこそ はあめれ」
とて、尚侍の君は、この君たちの手などあしきこ とを辱づかしめたまふ。返り事、げに、いと若く、 「昨- 夜は、水駅をなん咎めきこゆめりし。  竹河に夜をふかさじといそぎしもいかなるふしを思ひお   かまし」 げにこのふしをはじめにて、この君の御曹司におはして気色 ばみよる。少将の推しはかりしもしるく、皆人心寄せたり。 侍従の君も、若き心地に、近きゆかりにて明け暮れ睦びまほ しう思ひけり。 桜花の下少将、姫君たちの囲碁を隙見する 三月になりて、咲く桜あれば散りかひ曇り、 おほかたの盛りなるころ、のどやかにおは する所は、紛るることなく、端近なる罪も

あるまじかめり。そのころ十八九のほどやおはしけむ、御容- 貌も心ばへもとりどりにぞをかしき。姫君はいとあざやかに 気高ういまめかしきさましたまひて、げにただ人にて見たて まつらむは似げなうぞ見えたまふ。桜の細長、山吹などのを りにあひたる色あひのなつかしきほどに重なりたる裾まで、 愛敬のこぼれ落ちたるやうに見ゆる、御もてなしなどもらう らうじく心恥づかしき気さへそひたまへり。いま一ところは、 薄紅梅に、御髪いろにて、柳の糸のやうにたをたをと見ゆ。 いとそびやかになまめかしう澄み たるさまして、重りかに心深きけ はひはまさりたまへれど、にほひ やかなるけはひはこよなしとぞ人- 思へる。  碁打ちたまふとて、さし向ひた まへる髪ざし御髪のかかりたる

さまども、いと見どころあり。侍従の君、見証したまふとて 近うさぶらひたまふに、兄君たちさしのぞきたまひて、「侍- 従のおぼえこよなうなりにけり。御碁の見証ゆるされにける をや」とて、おとなおとなしきさまして突いゐたまへば、御- 前なる人々とかうゐなほる。中将、「宮仕のいそがしうなり はべるほどに、人に劣りにたるは。いと本意なきわざかな」 と愁へたまへば、 「弁官は、まいて、私の宮仕怠りぬべ きままに、さのみやは思し棄てん」など申したまふ。碁打ち さして恥ぢらひておはさうずる、いとをかしげなり。 「内- 裏わたりなどまかり歩きても、故殿おはしまさましかば、と 思ひたまへらるること多くこそ」など、涙ぐみて見たてまつ りたまふ。二十七八のほどにものしたまへば、いとよくとと のひて、この御ありさまどもを、いかでいにしへ思しおきて しに違へずもがなと思ひゐたまへり。  御前の花の木どもの中にも、にほひまさりてをかしき桜を

折らせて、 「外のには似ずこそ」などもてあそびたまふを、 「幼くおはしましし時、この花はわがぞわがぞと争ひたま ひしを、故殿は、姫君の御花ぞ、と定めたまふ。上は、若君 の御木、と定めたまひしを、いとさは泣きののしらねど、安 からず思ひたまへられしはや」とて、 「この桜の老木にな りにけるにつけても、過ぎにける齢を思ひたまへ出づれば、 あまたの人に後れはべりにける身の愁へもとめがたうこそ」 など、泣きみ笑ひみ聞こえたまひて、例よりはのどやかにお はす。人の婿になりて、心静かにも今は見えたまはぬを、花 に心とどめてものしたまふ。  尚侍の君、かくおとなしき人の親になりたまふ御年のほど 思ふよりはいと若うきよげに、なほさかりの御容貌と見えた まへり。冷泉院の帝は、多くは、この御ありさまのなほゆか しう昔恋しう思し出でられければ、何につけてかはと思しめ ぐらして、姫君の御事を、あながちに聞こえたまふにぞあり

ける。院へ参りたまはんことは、この君たちぞ、 「なほもの のはえなき心地こそすべけれ。よろづのこと、時につけたる をこそ、世人もゆるすめれ。げにいと見たてまつらまほしき 御ありさまは、この世にたぐひなくおはしますめれど、さか りならぬ心地ぞするや。琴笛の調べ、花鳥の色をも音をも、 時に従ひてこそ、人の耳もとまるものなれ。春宮はいかが」 など申したまへば、 「いさや、はじめよりやむごとなき人 の、かたはらもなきやうにてのみものしたまふめればこそ。 なかなかにてまじらはむは、胸いたく人笑はれなる事もやあ らむとつつましければ。殿おはせましかば、行く末の御宿世 宿世は知らず、ただ今はかひあるさまにもてなしたまひてま しを」などのたまひ出でて、みなものあはれなり。  中将など立ちたまひて後、君たちは打ちさしたまへる碁打 ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭け物にて、 「三番に数一 つ勝ちたまはむ方に花を寄せてん」と戯れかはしきこえたま

ふ。暗うなれば、端近うて打ちはてたまふ。御簾捲き上げて、 人々みないどみ念じきこゆ。をりしも、例の少将、侍従の君 の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、 おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りて のぞきけり。かううれしきをりを見つけたるは、仏などのあ らはれたまへらんに参りあひたらむ心地するも、はかなき心 になん。夕暮の霞の紛れはさやかならねど、つくづくと見れ ば、桜色の文目もそれと見分きつ。げに散りなむ後の形見に も見まほしく、にほひ多く見えたまふを、いとど異ざまにな りたまひなんことわびしく思ひまさらる。若き人々のうちと けたる姿ども夕映えをかしう見ゆ。右勝たせたまひぬ。 「高麗の乱声おそしや」などはやりかに言ふもあり。 「右 に心を寄せたてまつりて西の御前に寄りてはべる木を、左に なして。年ごろの御争ひのかかればありつるぞかし」と、右- 方は心地よげにはげましきこゆ。何ごとと知らねどをかしと

聞きて、さしいらへもせまほしけれど、うちとけたまへるを り心地なくやは、と思ひて出でて去ぬ。またかかる紛れもや と、蔭にそひてぞうかがひ歩きける。  君たちは、花の争ひをしつつ明かし暮らしたまふに、風荒 らかに吹きたる夕つ方、乱れ落つるがいと口惜しうあたらし ければ、負方の姫君、   さくらゆゑ風にこころのさわぐかなおもひぐまなき 花と見る見る 御方の宰相の君、  咲くと見てかつは散りぬる花なればまくるを深きうらみ  ともせず と聞こえたすくれば、右の姫君、   風に散ることは世のつね枝ながらうつろふ花をた  だにしも見じ この御方の大輔の君、

 心ありて池のみぎはに落つる花あわとなりてもわが方に  寄れ 勝方の童べ下りて、花の下に歩きて、散りたるをいと多く拾 ひて持て参れり。   大空の風に散れどもさくら花おのがものとぞかきつめ   て見る 左のなれき、 「桜花にほひあまたに散らさじとおほふばかりの袖はあ  りやは 心せばげにこそ見ゆめれ」など言ひおとす。 大君の参院決定、蔵人少将なおあきらめず かくいふに、月日はかなく過ぐすも行く末 のうしろめたきを、尚侍の殿はよろづに思 す。院よりは、御消息日々にあり。女御、 「うとうとしう思し隔つるにや。上は、ここに聞こえうとむ るなめりと、いと僧げに思しのたまへば、戯れにも苦しうな

ん。同じくは、このごろのほどに思したちね」
など、いとま めやかに聞こえたまふ。さるべきにこそはおはすらめ、いと かうあやにくにのたまふもかたじけなしなど思したり。御調- 度などは、そこらしおかせたまへれば、人々の装束、何くれ のはかなきことをぞいそぎたまふ。  これを聞くに、蔵人少将は死ぬばかり思ひて、母北の方を 責めたてまつれば、聞きわづらひたまひて、 「いとかた はらいたきことにつけて、ほのめかし聞こゆるも、世にかた くなしき闇のまどひになむ。思し知る方もあらば、推しはか りて、なほ慰めさせたまへ」など、いとほしげに聞こえたま ふを、 「苦しうもあるかな」と、うち嘆きたまひて、 「いかなることと思ひたまへ定むべきやうもなきを、院より わりなくのたまはするに思うたまへ乱れてなん。まめやかな る御心ならば、このほどを思ししづめて、慰めきこえんさま をも見たまひてなん、世の聞こえもなだらかならむ」など申

したまふも、この御参り過ぐして中の君をと思すなるべし。 「さしあはせてはうたてしたり顔ならむ。まだ位なども浅へ たるほどを」など思すに、男は、さらにしか思ひ移るべくも あらず。ほのかに見たてまつりて後は、面影に恋しう、いか ならむをりにとのみおぼゆるに、かう頼みかからずなりぬる を思ひ嘆きたまふこと限りなし。 少将、薫の文を見、中将のおもとに訴える かひなきことも言はむとて、例の、侍従の 曹司に来たれば、源侍従の文をぞ見ゐたま へりける。ひき隠すを、さなめり、と見て 奪ひとりつ。事あり顔にや、と思ひていたうも隠さず。そこ はかとなくて、ただ世を恨めしげにかすめたり。   つれなくて過ぐる月日をかぞへつつもの恨めしき暮の  春かな 「人はかうこそのどやかにさまよくねたげなめれ、わがいと 人笑はれなる心いられを。かたへは目馴れて、侮りそめられ

にたる」
など思ふも胸いたければ、ことにものも言はれで、 例語らふ中将のおもとの曹司の方に行くも、例の、かひあら じかしと嘆きがちなり。侍従の君は、 「この返り事せむ」と て、上に参りたまふを見るに、いと腹立たしう安からず、若 き心地にはひとへにものぞおぼえける。  あさましきまで恨み嘆けば、この前申もあまり戯れにくく いとほしと思ひて、答へもをさをさせず。かの御碁の見証せ し夕暮の事も言ひ出でて、 「さばかりの夢をだにまた見て しがな。あはれ、何を頼みにて生きたらむ。かう聞こゆるこ とも残り少なうおぼゆれば。つらきもあはれ、といふことこ そまことなりけれ」と、いとまめだちて言ふ。あはれ、とて 言ひやるべき方なきことなり。かの慰めたまはむ御さま、つ ゆばかりうれしと思ふべき気色もなければ、げにかの夕暮の 顕証なりけんに、いとどかうあやにくなる心はそひたるなら んと、ことわりに思ひて、 「聞こしめさせたらば、

いとどいかにけしからぬ御心なりけりと、うとみきこえたま はむ。心苦しと思ひきこえつる心も失せぬ。いとうしろめた き御心なりけり」
と、むかひ火つくれば、 「いでや、さば れや。今は限りの身なれば、もの恐ろしくもあらずなりにた り。さても負けたまひしこそ、いといとほしかりしか。おい らかに召し入れてやは。目くはせたてまつらましかば、こよ なからましものを」など言ひて。   いでやなぞ数ならぬ身にかなはぬは人に負けじの心  なりけり 中将うち笑ひて、   わりなしやつよきによらむ勝負を心ひとつにいかがまか  する と答ふるさへぞつらかりける。   あはれとて手をゆるせかし生死を君にまかするわが  身とならば

泣きみ笑ひみ語らひ明かす。 四月一日少将惜春の歌を贈る 女房の返し またの日は四月になりにければ、はらから の君たちの内裏に参りさまよふに、いたう 屈じ入りてながめゐたまへれば、母北の方 は涙ぐみておはす。大臣も、 「院の聞こしめすところもあ るべし、何にかはおほなおほな聞き入れむ、と思ひて、悔し う、対面のついでにもうち出できこえずなりにし。みづから あながちに申さましかば、さりともえ違へたまはざらまし」 などのたまふ。さて、例の、   花を見て春は暮らしつ今日よりやしげきなげきのし   たにまどはむ と聞こえたまへり。  御前にて、これかれ上臈だつ人々、この御懸想人のさまざ まにいとほしげなるを聞こえ知らする中に、中将のおもと、 「生死を、と言ひしさまの、言にのみはあらず心苦しげなり

し」
など聞こゆれば、尚侍の君もいとほしと聞きたまふ。 大臣北の方の思すところにより、せめて人の御恨み深くはと、 とりかへありて思すこの御参りを、妨げやうに思ふらんはし もめざましきこと、限りなきにても、ただ人にはかけてある まじきものに故殿の思しおきてたりしものを、院に参りたま はむだに、行く末のはえばえしからぬを思したるをりしも、 この御文とり入れてあはれがる。御返し、 今日ぞ知る空をながむる気色にて花に心をうつしけり とも 「あないとほし。戯れにのみもとりなすかな」など言へど、 うるさがりて書きかへず。 大君参院 蔵人少将と歌を贈答する 九日にぞ参りたまふ。右の大殿、御車御前 の人々あまた奉りたまへり。北の方も、恨 めしと思ひきこえたまへど、年ごろさもあ らざりしに、この御事ゆゑ繁う聞こえ通ひたまへるを、また

かき絶えんもうたてあれ ば、かづけ物ども、よき 女の装束どもあまた奉れ たまへり。 「あやし ううつし心もなきやうな る人のありさまを見たまへあつかふほどに、承りとどむる 事もなかりけるを、おどろかさせたまはぬもうとうとしくな ん」とぞありける。おいらかなるやうにてほのめかしたまへ るを、いとほしと見たまふ。大臣も御文あり。 「みづから も参るべきに思ひたまへつるに、つつしむ事のはべりてなん。 男ども、雑役にとて参らす。うとからず召し使はせたまへ」 とて、源少将、兵衛佐など奉れたまへり。 「情はおはすか し」と、よろこびきこえたまふ。大納言殿よりも、人々の御- 車奉れたまふ。北の方は故大臣の御むすめ、真木柱の姫君な れば、いづ方につけても睦ましう聞こえ通ひたまふべけれど、

さしもあらず。藤中納言はしもみづからおはして、中将、弁 の君たちもろともに事行ひたまふ。殿のおはせましかばと、 よろづにつけてあはれなり。  蔵人の君、例の人にいみじき言葉を尽くして、 「今は限 りと思ひはつる命のさすがに悲しきを。あはれと思ふ、とば かりだに一言のたまはせば、それにかけとどめられて、しば しもながらへやせん」などあるを持て参りて、見れば、姫君 二ところうち語らひて、いといたう屈じたまへり。夜昼もろ ともにならひたまひて、中の戸ばかり隔てたる西東をだに いといぶせきものにしたまひて、かたみに渡り通ひおはする を、よそよそにならむことを思すなりけり。心ことにしたて、 ひきつくろひたてまつりたまへる御さまいとをかし。殿の思 しのたまひしさまなどを思し出でてものあはれなるをりから にや、取りて見たまふ。大臣北の方の、さばかり立ち並びて 頼もしげなる御中に、などかうすずろごとを思ひ言ふらん、

とあやしきにも、限りとあるを、まことにやと思して、やが てこの御文の端に、 「あはれてふ常ならぬ世のひと言もいかなる人にかく   るものぞは ゆゆしき方にてなん、ほのかに思ひ知りたる」と書きたまひ て、 「かう言ひやれかし」とのたまふを、やがて奉れたる を、限りなうめづらしきにも、をりを思しとむるさへ、いと ど涙もとどまらず。  たち返り、 「誰が名はたたじ」など、かごとがましくで、   「生ける世の死は心にまかせねば聞かでややまむ君が   ひとこと 塚の上にもかけたまふべき御心のほどと思ひたまへましかば、 ひたみちにも急がれはべらましを」などあるに、 「うたても 答へをしてけるかな。書きかへでやりつらむよ」と苦しげに 思して、ものものたまはずなりぬ。

 大人童、めやすきかぎりをととのへられたり。おほかたの 儀式などは、内裏に参りたまはましに変ることなし。まづ女- 御の御方に渡りたまひて、尚侍の君は御物語など聞こえたま ふ。夜更けてなん上に参う上りたまひける。后女御など、み な年ごろ経てねびたまへるに、いとうつくしげにて、さかり に見どころあるさまを見たてまつりたまふは、などてかはお ろかならむ。華やかに時めきたまふ。ただ人だちて心安くも てなしたまへるさましもぞ、げにあらまほしうめでたかりけ る。尚侍の君を、しばしさぶらひたまひなむと御心とどめて 思しけるに、いととくやをら出でたまひにければ、口惜しう 心憂しと思したり。 薫の未練と蔵人少将の落胆のさま 源侍従の君をば、明け暮れ御前に召しまつ はしつつ、げに、ただ昔の光る源氏の生ひ 出でたまひしに劣らぬ人の御おぼえなり。 院の内には、いづれの御方にもうとからず馴れまじらひあり

きたまふ。この御方にも、心寄せあり顔にもてなして、下に は、いかに見たまふらむの心さへそひたまへり。  夕暮のしめやかなるに、藤侍従と連れて歩くに、かの御方 の御前近く見やらるる五葉に藤のいとおもしろく咲きかかり たるを、水のほとりの石に苔を蓆にてながめゐたまへり。ま ほにはあらねど、世の中恨めしげにかすめつつ語らふ。   手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見  ましや とて花を見上げたる気色など、あやしくあはれに心苦しく思 ほゆれば、わが心にあらぬ世のありさまにほのめかす。   むらさきの色はかよへど藤の花心にえこそかから  ざりけれ まめなる君にて、いとほしと思へり。いと心まどふばかりは 思ひいられざりしかど、口惜しうはおぼえけり。  かの少将の君はしも、まめやかに、いかにせましと、過ち

もしつべくしづめがたくなんおぼえける。聞こえたまひし人- 人、中の君をと移ろふもあり。少将の君をば、母北の方の御- 恨みにより、さもや、と思ほして、ほのめかしきこえたまひ しを、絶えて訪れずなりにたり。院には、かの君たちも、親 しくもとよりさぶらひたまへど、この参りたまひて後、をさ をさ参らず、まれまれ殿上の方にさしのぞきても、あぢきな う、逃げてなんまかでける。 帝の不満に中将母を責める 大君懐妊する 内裏には、故大臣の心ざしおきたまへるさ まことなりしを、かくひき違へたる御宮仕 を、いかなるにかと思して、中将を召して なんのたまはせける。 「御気色よろしからず。さればこそ、 世人の心の中もかたぶきぬべきことなりと、かねて申ししこ とを、思しとる方異にて、かう思したちにしかば、ともかく も聞こえがたくてはべるに、かかる仰せ言のはべれば、なに がしらが身のためもあぢきなくなんはべる」と、いとものし

と思ひて、尚侍の君を申したまふ。 「いさや。ただ今、か うにはかにしも思ひたたざりしを、あながちに、いとほしう のたまはせしかば、後見なきまじらひの、内裏わたりは、は したなげなめるを、今は心やすき御ありさまなめるにまかせ きこえてと思ひよりしなり。誰も誰も、便なからむ事は、あ りのままにも諫めたまはで、今ひき返し、右大臣も、ひがひ がしきやうにおもむけてのたまふなれば、苦しうなん。これ もさるべきにこそは」と、なだらかにのたまひて、心も騒が いたまはず。 「その昔の御宿世は目に見えぬものなれば、 かう思しのたまはするを、これは契り異なるともいかがは奏 しなほすべき事ならむ。中宮を憚りきこえたまふとて、院の 女御をばいかがしたてまつりたまはむとする。後見や何やと かねて思しかはすとも、さしもえはべらじ。よし、見聞きは べらん。よう思へば、内裏は、中宮おはしますとて、こと人 はまじらひたまはずや。君に仕うまつることは、それが心や

すきこそ、昔より興あることにはしけれ。女御は、いささか なる事の違ひ目ありてよろしからず思ひきこえたまはむに、 ひがみたるやうになん、世の聞き耳もはべらん」
など、二と ころして申したまへば、尚侍の君、いと苦しと思して、さる は、限りなき御思ひのみ月日にそへてまさる。  七月より孕みたまひにけり。うち悩みたまへるさま、げに、 人のさまざまに聞こえわづらはすもことわりぞかし、いかで かはかからむ人をなのめに見聞き過ぐしてはやまん、とぞお ぼゆる。明け暮れ御遊びをせさせたまひつつ、侍従もけ近う 召し入るれば、御琴の音などは聞きたまふ。かの梅が枝に合 はせたりし中将のおもとの和琴も、常に召し出でて弾かせた まへば、聞きあはするにもただにはおぼえざりけり。 薫・蔵人少将男踏歌に加わり、院に参上 その年返りて、男踏歌せられけり。殿上の 若人どもの中に、物の上手多かるころほひ なり。その中にも、すぐれたるを選らせた

まひて、この四位侍従、右の歌頭なり。かの蔵人少将、楽人 の数の中にありけり。十四日の月のはなやかに曇りなきに、 御前より出でて冷泉院に参る。女御も、この御息所も、上に 御局して見たまふ。上達部親王たちひき連れて参りたまふ。 右の大殿、致仕の大殿の族を離れて、きらきらしうきよげな る人はなき世なりと見ゆ。内裏の御前よりも、この院をばい と恥づかしうことに思ひきこえて、皆人用意を加ふる中にも、 蔵人少将は、見たまふらんかしと思ひやりて、静心なし。に ほひもなく見苦しき綿花もかざす人からに見分かれて、さま も声もいとをかしくぞありける。竹河うたひて、御階のもと に踏み寄るほど、過ぎにし夜のはかなかりし遊びも思ひ出で られければ、ひが事もしつべくて涙ぐみけり。后の宮の御方 に参れば、上もそなたに渡らせたまひて御覧ず。月は、夜深 うなるままに昼よりもはしたなう澄みのぼりて、いかに見た まふらんとのみおぼゆれば、踏むそらもなうただよひ歩き

て、盃も、さして一人をのみ咎めらるるは面目なくなん。  夜一夜、所どころかき歩きて、いと悩ましう苦しくて臥し たるに、源侍従を院より召したれば、 「あな苦し、しばし 休むべきに」とむつかりながら参りたまへり。御前の事ども など問はせたまふ。 「歌頭はうち過ぐしたる人のさきざ きするわざを、選ばれたるほど心にくかりけり」とて、うつ くしと思しためり。万春楽を御口ずさみにしたまひつつ、御- 息所の御方に渡らせたまへば、御供に参りたまふ。物見に参 りたる里人多くて、例よりは華やかに、けはひいまめかし。 渡殿の戸口にしばしゐて、声聞き知りたる人にものなどのた まふ。 「一夜の月影ははしたなかりしわざかな。蔵人少将 の月の光にかかやきたりしけしきも、桂のかげに恥づるには あらずやありけん。雲の上近くては、さしも見えざりき」な ど語りたまへば、人々あはれと聞くもあり。 「闇はあやな きを、月映えはいますこし心ことなり、とさだめきこえし」

などすかして、内より   竹河のその夜のことは思ひ出づやしのぶばかりのふ  しはなけれど と言ふ。はかなきことなれど、涙ぐまるるも、げにいと浅く はおぼえぬことなりけりと、みづから思ひ知らる。   流れてのたのめむなしき竹河に世はうきものと思ひ知  りにき ものあはれなる気色を人々をかしがる。さるは、おり立ちて 人のやうにもわびたまはざりしかど、人ざまのさすがに心苦 しう見ゆるなり。 「うち出で過ぐすこともこそはべれ。あ なかしこ」とて立つほどに、 「こなたに」と召し出づれば、 はしたなき心地すれど、参りたまふ。 「故六条院の踏歌の朝に、女方にて遊びせられける、 いとおもしろかりきと、右大臣の語られし。何ごともかのわ たりのさしつぎなるべき人難くなりにける世なりや。いと物

の上手なる女さへ多く集まりて、いかにはかなきこともをか しかりけん」
など思しやりて、御琴ども調べさせたまひて、 箏は御息所、琵琶は侍従に賜ふ。和琴を弾かせたまひて、こ の殿など遊びたまふ。御息所の御琴の音、まだ片なりなると ころありしを、いとよう教へないたてまつりたまひてけり。 いまめかしう爪音よくて、歌曲の物など上手にいとよく弾き たまふ。何ごとも、心もとなく後れたることはものしたまは ぬ人なめり。容貌、はた、いとをかしかべしとなほ心とまる。 かやうなるをり多かれど、おのづからけ遠からず、乱れたま ふ方なく、馴れ馴れしうなどは恨みかけねど、をりをりにつ けて思ふ心の違へる嘆かしさをかすむるも、いかが思しけん、 知らずかし。 大君、女宮を出産 中の君尚侍となる 四月に女宮生まれたまひぬ。ことにけざや かなるもののはえもなきやうなれど、院の 御気色に従ひて、右の大殿よりはじめて、

御産養したまふ所どころ多かり。尚侍の君つと抱きもちて うつくしみたまふに、とう参りたまふべきよしのみあれば、 五十日のほどに参りたまひぬ。女一の宮一ところおはします に、いとめづらしくうつくしうておはすれば、いといみじう 思したり。いとど、ただこなたにのみおはします。女御方の 人々、いとかからでありぬべき世かな、とただならず言ひ思 へり。  正身の御心どもは、ことに軽々しく背きたまふにはあらね ど、さぶらふ人々の中にくせぐせしき事も出で来などしつつ、 かの中将の君の、さいへど人の兄にてのたまひしことかなひ て、尚侍の君も、「むげにかく言ひ言ひのはていかならむ。 人わらへに、はしたなうもやもてなされむ。上の御心ばへは 浅からねど、年経てさぶらひたまふ御方々よろしからず思ひ はなちたまはば、苦しくもあるべきかな」と思ほすに、内裏 には、まことにものしと思しつつ、たびたび御気色あり、と

人の告げきこゆれば、わづらはしくて、中の姫君を、公ざま にてまじらはせたてまつらむことを思して、尚侍を譲りたま ふ。朝廷いと難うしたまふことなりければ、年ごろかう思し おきてしかど、え辞したまはざりしを、故大臣の御心を思し て、久しうなりにける昔の例などひき出でて、その事かなひ たまひぬ。この君の御宿世にて、年ごろ申したまひしは難き なりけり、と見えたり。  かくて、心やすくて内裏住みもしたまへかし、と思すにも、 「いとほしう、少将のことを、母北の方のわざとのたまひし ものを。頼めきこえしやうにほのめかしきこえしも、いかに 思ひたまふらん」と思しあつかふ。弁の君して、心うつくし きやうに、大臣に聞こえたまふ。 「内裏よりかかる仰せ言 のあれば、さまざまにあながちなるまじらひの好みと、世の 聞き耳もいかがと思ひたまへてなんわづらひぬる」と聞こえ たまへば、 「内裏の御気色は、思し咎むるも、ことわりに

なん承る。公事につけても、宮仕したまはぬは、さるまじ きわざになん。はや思したつべきになん」
と申したまへり。 また、このたびは、中宮の御気色とりてぞ参りたまふ。大臣 おはせましかばおし消ちたまはざらましなど、あはれなるこ とどもをなん。姉君は、容貌など名高うをかしげなり、と聞 こしめしおきたりけるを、ひきかへたまへるを、なま心ゆか ぬやうなれど、これもいとらうらうじく、心にくくもてなし てさぶらひたまふ。  前尚侍の君、かたちを変へてんと思したつを、 「方々にあ つかひきこえたまふほどに、行ひも心あわたたしうこそ思さ れめ。いますこしいづ方も心のどかに見たてまつりなしたま ひて、もどかしきところなくひたみちに勤めたまへ」と、君 たちの申したまへば、思しとどこほりて、内裏には、時々、 忍びて参りたまふをりもあり。院には、わづらはしき御心ば へのなほ絶えねば、さるべきをりもさらに参りたまはず。い

にしへを思ひ出でしが、さすがに、かたじけなうおぼえしか しこまりに、人のみなゆるさぬことに思へりしをも知らず顔 に思ひて参らせたてまつりて、みづからさへ、戯れにても、 若々しき事の世に聞こえたらむこそ、いとまばゆく見苦しか るべけれと思せど、さる忌によりと、はた、御息所にも明か しきこえたまはねば、我を、昔より、故大臣はとり分きて思 しかしづき、尚侍の君は、若君を、桜のあらそひ、はかなき をりにも、心寄せたまひしなごりに、思しおとしけるよと、 恨めしう思ひきこえたまひけり。院の上、はた、ましていみ じうつらしとぞ思しのたまはせける。 「古めかしきあた りにさし放ちて。思ひおとさるるもことわりなり」とうち語 らひたまひて、あはれにのみ思しまさる。 大君、男御子を生む 人々に憎まれる 年ごろありて、また男御子産みたまひつ。 そこらさぶらひたまふ御方々にかかる事な くて年ごろになりにけるを、おろかならざ

りける御宿世など世人おどろく。帝は、まして限りなくめづ らしと、この今宮をば思ひきこえたまへり。おりゐたまはぬ 世ならましかば、いかにかひあらまし、今は何ごともはえな き世を、いと口惜しとなん思しける。女一の宮を限りなきも のに思ひきこえたまひしを、かくさまざまにうつくしくて数 そひたまへれば、めづらかなる方にて、いとことに思いたる をなん、女御も、あまりかうてはものしからむと、御心動き ける。事にふれて安からずくねくねしき事出で来などして、 おのづから御仲も隔たるべかめり。世の事として、数ならぬ 人の仲らひにも、もとよりことわりえたる方にこそ、あいな きおほよその人も心を寄するわざなめれば、院の内の上下の 人々、いとやむごとなくて久しくなりたまへる御方にのみこ とわりて、はかない事にも、この御方ざまをよからずとりな しなどするを、御せうとの君たちも、 「さればよ。あしうや は聞こえおきける」と、いとど申したまふ。心やすからず、

聞き苦しきままに、 「かからで、のどやかにめやすくて世 を過ぐす人も多かめりかし。限りなき幸ひなくて、宮仕の筋 は思ひよるまじきわざなりけり」と、大上は嘆きたまふ。 薫の成人ぶり 蔵人少将なお大君を慕う 聞こえし人々の、めやすくなり上りつつ、 さてもおはせましにかたはならぬぞあまた あるや。その中に、源侍従とて、いと若う ひはづなりと見しは宰相中将にて、 「匂ふや薫るや」と聞 きにくくめで騒がるなる、げにいと人柄重りかに心にくきを、 やむごとなき親王たち大臣の、御むすめを心ざしありてのた まふなるなども聞き入れずなどあるにつけて、 「その昔は 若う心もとなきやうなりしかど、めやすくねびまさりぬべか めり」など言ひおはさうず。  少将なりしも、三位中将とかいひておぼえあり。 「容貌さ へあらまほしかりきや」など、なま心わろき仕うまつり人は、 うち忍びつつ、 「うるさげなる御ありさまよりは」など言ふ

もありて、いとほしうぞ見えし。この中将は、なほ思ひそめ し心絶えず、うくもつらくも思ひつつ、左大臣の御むすめを 得たれどをさをさ心もとめず、 「道のはてなる常陸帯の」と、 手習にも、言ぐさにもするは、いかに思ふやうのあるにかあ りけん。  御息所、安げなき世のむつかしさに、里がちになりたまひ にけり。尚侍の君、思ひしやうにはあらぬ御ありさまを口惜 しと思す。内裏の君は、なかなかいまめかしう心やすげにも てなして、世にもゆゑあり、心にくきおぼえにてさぶらひた まふ。 夕霧ら昇進 薫、玉鬘邸へ挨拶に訪れ、対面 左大臣亡せたまひて、右は左に、藤大納言、 左大将かけたまへる、右大臣になりたまふ。 次々の人々なり上りて、この薫中将は中納- 言に、三位の君は宰相になりて、よろこびしたまへる人々、 この御族より外に人なきころほひになんありける。中納言の

御よろこびに、前尚侍の君に参りたまへり。御前の庭にて 拝したてまつりたまふ。尚侍の君対面したまひて、 「かく いと草深くなりゆく葎の門を、避きたまはぬ御心ばへにも、 まづ昔の御こと思ひ出でられてなん」など聞こえたまふ。御- 声あてに愛敬づき、聞かまほしういまめきたり。 「旧りがた くもおはするかな。かかれば、院の上は、恨みたまふ御心絶 えぬぞかし。いまつひに、事ひき出でたまひてん」と思ふ。 「よろこびなどは、心にはいとしも思ひたまへねども、 まづ御覧ぜられにこそ参りはべれ。避きぬなどのたまはする は、おろかなる罪にうち返させたまふにや」と申したまふ。 「今日は、さだ過ぎにたる身の愁へなど聞こゆべきついで にもあらず、とつつみはべれど、わざと立ち寄りたまはんこ とは難きを、対面なくて、はた。さすがにくだくだしきこと になん。院にさぶらはるるが、いといたう世の中を思ひ乱れ、 中空なるやうにただよふを、女御を頼みきこえ、また后の宮

の御方にもさりとも思しゆるされなんと思ひたまへ過ぐすに、 いづ方にも、なめげにゆるさぬものに思されたなれば、いと かたはらいたくて。宮たちはさてさぶらひたまふ、この、い とまじらひにくげなるみづからは、かくて心やすくだになが め過ぐいたまへとてまかでさせたるを、それにつけても、聞 きにくくなん。上にもよろしからず思しのたまはすなる。つ いであらば、ほのめかし奏したまへ。とざまかうざまに頼も しく思ひたまへて、出だしたてはべりしほどは、いづ方をも 心安くうちとけ頼みきこえしかど、今は、かかる事あやまり に、幼うおほけなかりけるみづからの心を、もどかしくな ん」
と、うち泣いたまふ気色なり。   「さらにかうまで思すまじきことになん。かかる御まじ らひの安からぬことは、昔よりさることとなりはべりにける を。位を去りて静かにおはしまし、何ごともけざやかならぬ 御ありさまとなりにたるに、誰もうちとけたまへるやうなれ

ど、おのおの内々は、いかがいどましくも思すこともなから む。人は何の咎と見ぬことも、わが御身にとりては恨めしく なん、あいなき事に心動かいたまふこと、女御后の常の御- 癖なるべし。さばかりの紛れもあらじものとてやは思したち けん。ただなだらかにもてなして、御覧じ過ぐすべきことに はべるなり。男の方にて奏すべきことにもはべらぬことにな ん」
と、いとすくすくしう申したまへば、 「対面のついで に愁へきこえむと、待ちつけたてまつりたるかひなく、あは の御ことわりや」と、うち笑ひておはする、人の親にてはか ばかしがりたまへるほどよりは、いと若やかにおほどいたる 心地す。「御息所もかやうにぞおはすべかめる。宇治の姫君 の心とまりておぼゆるも、かうざまなるけはひのをかしきぞ かし」と思ひゐたまへり。  尚侍も、このころまかでたまへり。こなたかなた住みた まへるけはひをかしう、おほかたのどやかに紛るることなき

御ありさまどもの、簾の内心恥づかしうおぼゆれば、心づか ひせられて、いとどもてしづめめやすきを、大上は、近うも 見ましかばと、うち思しけり。 紅梅邸大饗 大臣、匂宮・薫を婿にと志す 大臣殿は、ただこの殿の東なりけり。大- 饗の垣下の君達などあまた集ひたまふ。 兵部卿宮、左の大臣殿の賭弓の還立、相撲 の饗などにはおはしまししを思ひて、今日の光と請じたてま つりたまひけれどおはしまさず。心にくくもてかしづきたま ふ姫君たちを、さるは、心ざしことに、いかで、と思ひきこ えたまふべかめれど、宮ぞ、いかなるにかあらん、御心もと めたまはざりける。源中納言の、いとどあらまほしうねびと とのひ、何ごとも後れたる方なくものしたまふを、大臣も北 の方も目とどめたまひけり。  隣のかくののしりて、行きちがふ車の音、前駆追ふ声々も、 昔の事思ひ出でられて、この殿にはものあはれにながめたま

ふ。 「故宮亡せたまひて、ほどもなくこの大臣の通ひたま ひしことを、いとあはつけいやうに世人はもどくなりしかど、 思ひも消えず、かくてものしたまふも、さすがさる方にめや すかりけり。定めなの世や。いづれにかよるべき」などのた まふ。 玉鬘宰相中将の姿を見、子の不如意を嘆く 左の大殿の宰相中将、大饗のまたの日、夕 つけてここに参りたまへり。御息所里にお はすと思ふにいとど心げさうそひて、 「おほやけの数まへたまふ よろこびなどは、何ともお ぼえはべらず。私の思ふこ とかなはぬ嘆きのみ、年月 にそへて思ひたまへはるけ ん方なきこと」と、涙おし 拭ふもことさらめいたり。

二十七八のほどの、いとさかりににほひ、はなやかなる容貌 したまへり。 「見苦しの君たちの、世の中を心のままにお ごりて。官位をば何とも思はず過ぐしいますがらふや。故殿 おはせましかば、ここなる人々も、かかるすさびごとにぞ、 心は乱らまし」とうち泣きたまふ。右兵衛督、右大弁にて、 みな非参議なるを、愁はしと思へり。侍従と聞こゆめりしぞ、 このころ頭中将と聞こゆめる。年齢のほどはかたはならねど、 人に後ると嘆きたまへり。宰相は、とかくつきづきしく。
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