源氏物語

年改まり、源氏、螢兵部卿宮と唱和する

The Wizard

春の光を見たまふにつけても、いとどくれ まどひたるやうにのみ、御心ひとつは悲し さの改まるべくもあらぬに、外には例のや うに人々参りたまひなどすれど、御心地悩ましきさまにもて なしたまひて、御簾の内にのみおはします。兵部卿宮渡り たまへるにぞ、ただうちとけたる方にて対面したまはんとて、 御消息聞こえたまふ。   わがやどは花もてはやす人もなしなににか春のたづ   ね来つらん 宮、うち涙ぐみたまひて、   香をとめて来つるかひなくおほかたの花のたよりと   言ひやなすべき

紅梅の下に歩み出でたまへる御さまのいとなつかしきにぞ、 これより外に見はやすべき人なくや、と見たまへる。花はほ のかにひらけさしつつ、をかしきほどのにほひなり。御遊び もなく、例に変りたること多かり。 春寒のころ紫の上を嘆かせた過往を思う 女房なども、年ごろ経にけるは、墨染の色 こまやかにて着つつ、悲しさも改めがたく 思ひさますべき世なく恋ひきこゆるに、絶 えて御方々にも渡りたまはず、紛れなく見たてまつるを慰め にて、馴れ仕うまつる。年ごろ、まめやかに御心とどめてな どはあらざりしかど、時々は見放たぬやうに思したりつる人- 人も、なかなか、かかるさびしき御独り寝になりては、いと おほぞうにもてなしたまひて、夜の御宿直などにも、これか れとあまたを、御座のあたりひき避けつつ、さぶらはせたま ふ。  つれづれなるままに、いにしへの物語などしたまふをりを

りもあり。なごりなき御聖心の深くなりゆくにつけても、 さしもありはつまじかりける事につけつつ、中ごろもの恨め しう思したる気色の時々見えたまひしなどを思し出づるに、 などて、たはぶれにても、またまめやかに心苦しきことにつ けても、さやうなる心を見えたてまつりけん、何ごとにもら うらうじくおはせし御心ばへなりしかば、人の深き心もいと よう見知りたまひながら、怨じはてたまふことはなかりしか ど、一わたりづつは、いかならむとすらん、と思したりしに、 すこしにても心を乱りたまひけむことのいとほしう悔しうお ぼえたまふさま、胸よりもあまる心地したまふ。そのをりの 事の心をも知り、今も近う仕うまつる人々は、ほのぼの聞こ え出づるもあり。  入道の宮の渡りはじめたまへりしほど、そのをりはしも、 色にはさらに出だしたまはざりしかど、事にふれつつ、あぢ きなのわざや、と思ひたまへりし気色のあはれなりし中にも、

雪降りたりし暁に立ちやすらひて、わが身も冷え入るやうに おぼえて、空のけしきはげしかりしに、いとなつかしうおい らかなるものから、袖のいたう泣き濡らしたまへりけるをひ き隠し、せめて紛らはしたまへりしほどの用意などを、夜も すがら、夢にても、またはいかならむ世にか、と思しつづけ らる。曙にしも、曹司に下るる女房なるべし、 「いみじう も積りにける雪かな」と言ふ声を聞きつけたまへる、ただそ のをりの心地するに、御かたはらのさびしきも、いふ方なく 悲し。   うき世にはゆき消えなんと思ひつつおもひの外にな   ほぞほどふる 寒夜、中将の君を相手に、わが生涯を思う 例の、紛らはしには、御手水召して行ひし たまふ。埋みたる火おこし出でて御火桶ま ゐらす。中納言の君、中将の君など、御前 近くて御物語聞こゆ。 「独り寝常よりもさびしかりつる夜

のさまかな。かくてもいとよく思ひ澄ましつべかりける世を、 はかなくもかかづらひけるかな」
と、うちながめたまふ。我 さへうち棄ててば、この人々の、いとど嘆きわびんことのあ はれにいとほしかるべきなど見わたしたまふ。忍びやかにう ち行ひつつ、経など読みたまへる御声を、よろしう思はん事 にてだに涙とまるまじきを、まして、袖のしがらみせきあへ ぬまであはれに、明け暮れ見たてまつる人々の心地、尽きせ ず思ひきこゆ。 「この世につけては、飽かず思ふべきことをさをさある まじう、高き身には生まれながら、また人よりことに口惜し き契りにもありけるかな、と思ふこと絶えず。世のはかなく うきを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし。そ れを強ひて知らぬ顔にながらふれば、かくいまはの夕近き末 にいみじき事のとぢめを見つるに、宿世のほども、みづから の心の際も残りなく見はてて心やすきに、今なんつゆの絆な

くなりにたるを、これかれ、かくて、ありしよりけに目馴ら す人々の今はとて行き別れんほどこそ、いま一際の心乱れぬ べけれ。いとはかなしかし。わろかりける心のほどかな」
と て、御目おし拭ひ隠したまふに紛れずやがてこぼるる御涙を 見たてまつる人々、ましてせきとめむ方なし。さて、うち棄 てられたてまつりなんが愁はしさをおのおのうち出でまほし けれど、さもえ聞こえず、むせ返りてやみぬ。  かくのみ嘆き明かしたまへる曙、ながめ暮らしたまへる夕- 暮などのしめやかなるをりをりは、かのおしなべてには思し たらざりし人々を御前近くて、かやうの御物語などをしたま ふ。中将の君とてさぶらふは、まだ小さくより見たまひ馴れ にしを、いと忍びつつ見たまひ過ぐさずやありけむ。いとか たはらいたきことに思ひて馴れもきこえざりけるを、かく亡 せたまひて後は、その方にはあらず、人よりことにらうたき ものに心とどめ思したりしものを、と思し出づるにつけて、

かの御形見の筋をぞあはれと思したる。心ばせ容貌などもめ やすくて、うなゐ松におぼえたるけはひ、ただならましより は、らうらうじと思ほす。 源氏、涙もろさを恥じて、人と対面せず 疎き人にはさらに見えたまはず。上達部な ども睦ましき、また御はらからの宮たちな ど常に参りたまへれど、対面したまふこと をさをさなし。 「人に対はむほどばかりは、さかしく思ひし づめ心をさめむと思ふとも、月ごろにほけにたらむ身のあり さまかたくなしきひが事まじりて、末の世の人にもてなやま れむ後の名さへうたてあるべし。思ひほれてなん人にも見え ざむなると言はれんも同じことなれど、なほ音に聞きて思ひ やることのかたはなるよりも、見苦しきことの目に見るは、 こよなく際まさりてをこなり」と思せば、大将の君などにだ に、御簾隔ててぞ対面したまひける。かく、心変りしたまへ るやうに、人の言ひ伝ふべきころほひをだに思ひのどめてこ

そは、と念じ過ぐしたまひつつ、うき世をもえ背きやりたま はず。御方々にまれにもうちほのめきたまふにつけては、ま づいとせきがたき涙の雨のみ降りまされば、いとわりなくて、 いづ方にもおぼつかなきさまにて過ぐしたまふ。 遺愛の桜をいたわる匂宮を見て悲しむ 后の宮は、内裏に参らせたまひて、三の宮 をぞ、さうざうしき御慰めにはおはしまさ せたまひける。 「母ののたまひしかば」 とて、対の御前の紅梅とりわきて後見ありきたまふを、いと あはれと見たてまつりたまふ。二月になれば、花の木どもの 盛りになるも、まだしきも、梢をかしう霞みわたれるに、か の御形見の紅梅に鶯のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出で て御覧ず。   植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐ   るうぐひす と、うそぶき歩かせたまふ。

 春深くなりゆくままに、御前のありさまいにしへに変らぬ を、めでたまふ方にはあらねど、静心なく何ごとにつけても 胸痛う思さるれば、おほかた、この世の外のやうに鳥の音も 聞こえざらむ山の末ゆかしうのみいとどなりまさりたまふ。 山吹などの心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくの み見なされたまふ。  外の花は、一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は 開け、藤はおくれて色づきなどこそはすめるを、そのおそく とき花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひ しかば、時を忘れずにほひ満ちたるに、若宮、 「まろが桜は 咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳を立て て、帷子を上げずは、風もえ吹き寄らじ」と、かしこう思ひ えたり、と思ひてのたまふ顔のいとうつくしきにも、うち笑 まれたまひぬ。 「おほふばかりの袖求めけん人よりは、い とかしこう思し寄りたまへりかし」など、この宮ばかりをぞ

もて遊びに見たてまつりたまふ。 「君に馴れきこえんこと も残り少なしや。命といふもの、いましばしかかづらふべく とも、対面はえあらじかし」とて、例の、涙ぐみたまへれば、 いとものしと思して、 「母ののたまひしことを、まがまが しうのたまふ」とて、伏目になりて、御衣の袖を引きまさぐ りなどしつつ、紛らはしおはす。  隅の間の高欄におしかかりて、御前の庭をも、御簾の内を も見わたしてながめたまふ。女房なども、かの御形見の色変 へぬもあり、例の色あひなるも、綾などはなやかにはあらず。 みづからの御直衣も、色は世の常なれど、ことさらにやつし て、無紋を奉れり。御しつらひなども、いとおろそかに事そ ぎて、さびしくもの心細げにしめやかなれば、    今はとてあらしやはてん亡き人の心とどめし春のか   きねを 人やりならず悲しう思さる。 女三の宮を訪れ、かえって紫の上を思う

いとつれづれなれば、入道の宮の御方に渡 りたまふに、若宮も人に抱かれておはしま して、こなたの若君と走り遊び、花惜しみ たまふ心ばへども深からず、いといはけなし。  宮は、仏の御前にて経をぞ読みたまひける。何ばかり深う 思しとれる御道心にもあらざりしかど、この世に恨めしく御- 心乱るることもおはせず、のどやかなるままに紛れなく行ひ たまひて、一つ方に思ひ離れたまへるもいとうらやましく、 かくあさへたまへる女の御心ざしにだにおくれぬることと口- 惜しう思さる。閼伽の花の夕映えしていとおもしろく見ゆれ ば、 「春に心寄せたりし人なくて、花の色もすさまじくの み見なさるるを、仏の御飾にてこそ見るべかりけれ」とのた まひて、 「対の前の山吹こそなほ世に見えぬ花のさまなれ。 房の大きさなどよ。品高くなどはおきてざりける花にやあら ん、はなやかににぎははしき方はいとおもしろきものになん

ありける。植ゑし人なき春とも知らず顔にて常よりもにほ ひ重ねたるこそあはれにはべれ」
とのたまふ。御答へに、 「谷には春も」と何心もなく聞こえたまふを、言しもこ そあれ、心憂くも、と思さるるにつけても、まづ、かやうの はかなきことにつけては、そのことのさらでもありなむかし、 と思ふに違ふふしなくてもやみにしかなと、いはけなかりし ほどよりの御ありさまを、いで何ごとぞやありしと思し出づ るに、まづそのをりかのをり、かどかどしうらうらうじうに ほひ多かりし心ざまもてなし言の葉のみ思ひつづけられた まふに、例の涙のもろさは、ふとこぼれ出でぬるもいと苦し。 明石の君と語るも心慰まずさびしく帰る 夕暮の霞たどたどしくをかしきほどなれば、 やがて明石の御方に渡りたまへり。久しう さしものぞきたまはぬに、おぼえなきをり なればうち驚かるれど、さまようけはひ心にくくもてつけて、 なほこそ人にはまさりたれ、と見たまふにつけては、またか

うざまにはあらでこそ、ゆゑよしをももてなしたまへりしか、 と思しくらべらるるに、面影に恋しう、悲しさのみまされば、 いかにして慰むべき心ぞ、といとくらべ苦し。  こなたにては、のどやかに昔物語などしたまふ。 「人を あはれと心とどめむは、いとわろかべきことと、いにしへよ り思ひえて、すべていかなる方にも、この世に執とまるべき 事なくと心づかひをせしに、おほかたの世につけて、身のい たづらにはふれぬべかりしころほひなど、とざまかうざまに 思ひめぐらししに、命をもみづから棄てつべく、野山の末に はふらかさんにことなる障りあるまじくなむ思ひなりしを、 末の世に、今は限りのほど近き身にてしも、あるまじき絆多 うかかづらひて今まで過ぐしてけるが、心弱う、もどかしき こと」など、さして一つ筋の悲しさにのみはのたまはねど、 思したるさまのことわりに心苦しきを、いとほしう見たてま つりて、 「おほかたの人目に何ばかり惜しげなき人だ

に、心の中の絆おのづから多うはべなるを、ましていかでか は心やすくも思し棄てん。さやうにあさへたることは、かへ りて軽々しきもどかしさなどもたち出でて、なかなかなるこ となどはべるを、思したつほど鈍きやうにはべらんや、つひ に澄みはてさせたまふ方深うはべらむと、思ひやられはべり てこそ。いにしへの例などを聞きはべるにつけても、心にお どろかれ、思ふより違ふふしありて、世を厭ふついでになる とか、それはなほわるき事とこそ。なほしばし思しのどめさ せたまひて、宮たちなどもおとなびさせたまひ、まことに動 きなかるべき御ありさまに、見たてまつりなさせたまはむま では、乱れなくはべらんこそ、心やすくもうれしくもはべ るべけれ」
など、いとおとなびて聞こえたる気色いとめや すし。 「さまで思ひのどめむ心深さこそ、浅きにおとりぬべけ れ」などのたまひて、昔よりものを思ふことなど語り出でた

まふ中に、 「故后の宮の崩れたまへりし春なむ、花の色を 見ても、まことに『心あらば』とおぼえし。それは、おほか たの世につけて、をかしかりし御ありさまを幼くより見たて まつりしみて、さるとぢめの悲しさも人よりことにおぼえし なり。みづからとり分く心ざしにも、もののあはれはよらぬ わざなり。年経ぬる人に後れて、心をさめむ方なく忘れがた きも、ただかかる仲の悲しさのみにはあらず。幼きほどより 生ほしたてしありさま、もろともに老いぬる末の世にうち棄 てられて、わが身も人の身も思ひつづけらるる悲しさのたへ がたきになん。すべてもののあはれも、ゆゑあることも、を かしき筋も、広う思ひめぐらす方々添ふことの浅からずなる になむありける」など、夜更くるまで、昔今の御物語に、か くても明かしつべき夜をと思しながら、帰りたまふを、女も ものあはれにおぼゆべし。わが御心にも、あやしうもなりに ける心のほどかな、と思し知らる。

 さてもまた例の御行ひに、夜半になりてぞ、昼の御座にい とかりそめにより臥したまふ。つとめて、御文奉りたまふに、   なくなくも帰りにしかな仮の世はいづこもつひの常   世ならぬに                               昨夜の御ありさまは恨めしげなりしかど、いとかくあらぬさ まに思しほれたる御気色の心苦しさに、身の上はさしおかれ て、涙ぐまれたまふ。   かりがゐし苗代水の絶えしよりうつりし花のかげ   をだに見ず 旧りがたくよしある書きざまにも、 「なまめざましきものに 思したりしを、末の世には、かたみに心ばせを見知るどちに て、うしろやすき方にはうち頼むべく、思ひかはしたまひな がら、またさりとてひたぶるにはたうちとけず、ゆゑありて もてなしたまへりし心おきてを、人はさしも見知らざりきか し」など思し出づ。せめてさうざうしき時は、かやうにただ

おほかたに、うちほのめきたまふをりをりもあり。昔の御あ りさまには、なごりなくなりにたるべし。 花散里よりの夏衣を見、はかなき世を思う 夏の御方より、御更衣の御装束奉りたまふ とて、   夏衣たちかへてける今日ばかり   古き思ひもすすみやはせぬ 御返し、   羽衣のうすきにかはる今日よりはうつせみの世ぞい   とど悲しき 祭の日、中将の君にほのかな愛情を覚える 祭の日、いとつれづれにて、 「今日は物- 見るとて、人々心地よげならむかし」とて、 御社のありさまなど思しやる。 「女房な どいかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」な どのたまふ。 中将の君の東面にうたた寝したるを、歩みおはして見た

まへば、いとささやかにをかしきさまして起き上りたり。頬 つきはなやかに、にほひたる顔をもて隠して、すこしふくだ みたる髪のかかりなど、いとをかしげなり。紅の黄ばみたる 気添ひたる袴、萱草色の単衣、いと濃き鈍色に黒きなど、う るはしからず重なりて、裳唐衣も脱ぎすべしたりけるを、と かくひき懸けなどするに、葵をかたはらに置きたりけるをと りたまひて、 「いかにとかや、この名こそ忘れにけれ」と のたまへば、   さもこそはよるべの水に水草ゐめけふのかざしよ   名さへ忘るる と恥ぢらひて聞こゆ。げに、といとほしくて、   おほかたは思ひすててし世なれどもあふひはなほや   つみをかすべき など、一人ばかりは思し放たぬ気色なり。 五月雨のころ、故人を偲び夕霧と語る

五月雨はいとどながめ暮らしたまふより外 の事なくさうざうしきに、十余日の月はな やかにさし出でたる雲間のめづらしきに、 大将の君御前にさぶらひたまふ。花橘の月影にいときはやか に見ゆるかをりも、追風なつかしければ、「千代をならせる 声」もせなん、と待たるるほどに、にはかに立ち出づるむら 雲のけしきいとあやにくにて、おどろおどろしう降り来る雨 に添ひて、さと吹く風に燈籠も吹きまどはして、空暗き心地 するに、 「窓をうつ声」など、めづらしからぬ古言を、う ち誦じたまへるも、をりからにや、妹が垣根におとなはせま ほしき御声なり。 「独り住みは、ことに変る事なけれど、 あやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせんにも、 かくて身を馴らはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざ なりけり」などのたまひて、 「女房、ここにくだものなど まゐらせよ。男ども召さんもことごとしきほどなり」などの

たまふ。  心には、ただ空をながめたまふ御気色の、尽きせず心苦し ければ、かくのみ思し紛れずは、御行ひにも心澄ましたまは んこと難くや、と見たてまつりたまふ。ほのかに見し御面影 だに忘れがたし、ましてことわりぞかし、と思ひゐたまへり。 「昨日今日と思ひたまふるほどに、御はてもやうやう近 うなりはべりにけり。いかやうにかおきて思しめすらむ」と 申したまへば、 「何ばかり、世の常ならぬ事をかはものせ ん。かの、心ざしおかれたる極楽の曼荼羅など、このたびな          ん供養ずべき。経などもあまたありけるを、なにがし僧都み なその心くはしく聞きおきたなれば、また加へてすべき事ど もも、かの僧都の言はむに従ひてなむものすべき」などのた まふ。 「かやうの事、もとよりとりたてて思しおきてける は、うしろやすきわざなれど、この世にはかりそめの御契り なりけりと見たまふには、形見といふばかりとどめきこえた

まへる人だにものしたまはぬこそ、口惜しうはべりけれ」
と 申したまへば、 「それは、かりそめならず命長き人々にも、 さやうなることのおほかた少なかりける。みづからの口惜し さにこそ。そこにこそは、門はひろげたまはめ」などのた まふ。  何ごとにつけても、忍びがたき御心弱さのつつましくて、 過ぎにしこといたうものたまひ出でぬに、待たれつる郭公の ほのかにうち鳴きたるも、 「いかに知りてか」と、聞く人た だならず。 なき人をしのぶる宵のむら雨に濡れてや来つる山ほ   ととぎす とて、いとど空をながめたまふ。大将、    ほととぎす君につてなんふるさとの花橘は今ぞさか   りと  女房など多く言ひ集めたれどとどめつ。大将の君は、やが

て御宿直にさぶらひたまふ。さびしき御独り寝の心苦しけれ ば、時々かやうにさぶらひたまふに、おはせし世はいとけ遠 かりし御座のあたりの、いたうもたち離れぬなどにつけても、 思ひ出でらるる事ども多かり。 夏、蜩・螢につけ尽きぬ悲しみを歌に詠む いと暑きころ、涼しき方にてながめたまふ に、池の蓮の盛りなるを見たまふに、 「い かに多かる」などまづ思し出でらるるに、 ほれぼれしくて、つくづくとおはするほどに、日も暮れにけ り。蜩の声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを独りのみ 見たまふは、げにぞかひなかりける。   つれづれとわが泣きくらす夏の日をかごとがましき   虫の声かな 螢のいと多う飛びかふも、 「夕殿に螢飛んで」と、例の、 古言もかかる筋にのみ口馴れたまへり。   夜を知るほたるを見てもかなしきは時ぞともなき思

  ひなりけり
七夕の深夜独り逢瀬の後の別れの涙を歌う 七月七日も、例に変りたること多く、御遊 びなどもしたまはで、つれづれにながめ暮 らしたまひて、星合見る人もなし。まだ夜 深う、一ところ起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、前- 栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりて見わたさるれば、 出でたまひて、   たなばたの逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれのにはに   露ぞおきそふ 八月正日、斎して曼荼羅の供養をする 風の音さへただならずなりゆくころしも、 御法事の営みにて、朔日ごろは紛らはしげ なり。今まで経にける月日よ、と思すにも あきれて明かし暮らしたまふ。御正日には、上下の人々みな 斎して、かの曼荼羅など今日ぞ供養ぜさせたまふ。例の宵の 御行ひに、御手水まゐらす中将の君の扇に、

君恋ふる涙は際もなきものを今日をば何のはてと   いふらん と、書きつけたるを取りて見たまひて、   人恋ふるわが身も末になりゆけどのこり多かる涙な   りけり と、書き添へたまふ。 九月九日、延命長寿を祈る被綿に涙する 九月になりて、九日、綿おほひたる菊を御- 覧じて、   もろともにおきゐし菊の朝露もひ とり袂にかかる秋かな 秋、雁によせて亡き魂の行く方を思う 神無月は、おほかたも時雨がちなるころ、 いとどながめたまひて、夕暮の空のけしき にも、えも言はぬ心細さに、 「降りしか ど」と独りごちおはす。雲ゐをわたる雁の翼も、うらやまし くまもられたまふ。

  大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方   たづねよ 何ごとにつけても、紛れずのみ月日にそへて思さる。 五節にはなやぐ人を見、何の感興も覚えず 五節などいひて、世の中そこはかとなくい まめかしげなるころ、大将殿の君たち、童 殿上したまひて参りたまへり。同じほどに て、二人いとうつくしきさまなり。御叔父の頭中将、蔵人少- 将など小忌にて、青摺の姿ども、清げにめやすくて、みなう ちつづきもてかしづきつつ、もろともに参りたまふ。思ふこ となげなるさまどもを見たまふに、いにしへあやしかりし日- 蔭のをり、さすがに思し出でらるべし。   みや人は豊の明にいそぐ今日ひかげもしらで暮らし   つるかな 一年を終え涙ながらに紫の上の文殻を焼く

今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今はと 世を去りたまふべきほど近く思しまうくる に、あはれなること尽きせず。やうやうさ るべき事ども、御心の中に思しつづけて、さぶらふ人々にも、 ほどほどにつけて物賜ひなど、おどろおどろしく、今なん限 りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人々は、御本意遂げた まふべき気色と見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く 悲しきこと限りなし。  落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、 「破れば惜し」 と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、ものの ついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨 のころほひ、所どころより奉りたまひけるもある中に、かの 御手なるは、ことに結ひあはせてぞありける。みづからしお きたまひける事なれど、久しうなりにける世の事と思すに、 ただ今のやうなる墨つきなど、げに千年の形見にしつべかり

けるを、見ずなりぬべきよ、と思せば、かひなくて、疎から ぬ人々二三人ばかり、御前にて破らせたまふ。  いと、かからぬほどの事にてだに、過ぎにし人の跡と見る はあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分か れぬまで降りおつる御涙の水茎に流れそふを、人もあまり心- 弱しと見たてまつるべきがかたはらいたうはしたなければ、 おしやりたまひて、   死出の山越えにし人をしたふとて跡を見つつもなほ   まどふかな さぶらふ人々も、まほにはえひきひろげねど、それとほのぼ の見ゆるに、心まどひどもおろかならず。この世ながら遠か らぬ御別れのほどを、いみじと思しけるままに書いたまへる 言の葉、げにそのをりよりもせきあへぬ悲しさやらん方なし。 いとうたて、いま一際の御心まどひも、女々しく人わるくな りぬべければ、よくも見たまはで、こまやかに書きたまへる

かたはらに、   かきつめて見るもかひなしもしほ草おなじ雲ゐの煙   とをなれ と書きつけて、みな焼かせたまひつ。 仏名の日、はじめて人前に姿を現わす 御仏名も今年ばかりにこそは、と思せばに や、常よりもことに錫杖の声々などあはれ に思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、 仏の聞きたまはんことかたはらいたし。雪いたう降りて、ま めやかに積りにけり。導師のまかづるを御前に召して、盃な ど常の作法よりも、さし分かせたまひて、ことに禄など賜は す。年ごろ久しく参り、朝廷にも仕うまつりて、御覧じ馴れ たる御導師の、頭はやうやう色変りてさぶらふも、あはれに 思さる。例の、宮たち上達部など、あまた参りたまへり。梅 の花のわづかに気色ばみはじめてをかしきを、御遊びなども ありぬべけれど、なほ今年までは物の音もむせびぬべき心地

したまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさ せたまふ。  まことや、導師の盃のついでに、   春までのいのちも知らず雪のうちに色づく梅をけふ   かざしてん 御返し、   千代の春見るべき花といのりおきてわが身ぞ雪とと   もにふりぬる 人々多く詠みおきたれど漏らしつ。  その日ぞ出でゐたまへる。御容貌、昔の御光にもまた多く 添ひて、あり難くめでたく見えたまふを、この旧りぬる齢の 僧は、あ いなう涙 もとどめ ざりけり。 歳暮、年もわが世も果てることを思う

年暮れぬ、と思すも心細きに、若宮の、 「儺やらはんに、音高かるべきこと、何わ ざをせさせん」と、走り歩きたまふも、を かしき御ありさまを見ざらんこと、とよろづに忍びがたし。   もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世もけ   ふや尽きぬる  朔日のほどの事、常よりことなるべく、とおきてさせたま ふ。親王たち大臣の御引出物、品々の禄どもなど二なう思し まうけて、とぞ。
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