源氏物語

柏木、衰弱のなかで感懐し近づく死を思う

The Oak Tree

衛門督の君、かくのみ悩みわたりたまふこ となほおこたらで、年も返りぬ。大臣北の 方、思し嘆くさまを見たてまつるに、 「強 ひてかけ離れなん命かひなく、罪重かるべきことを思ふ心は 心として、また、あながちに、この世に離れがたく惜しみと どめまほしき身かは。いはけなかりしほどより、思ふ心こと にて、何ごとをも人にいま一際まさらむと、公私の事にふ れて、なのめならず思ひのぼりしかど、その心かなひがたか りけりと、一つ二つのふしごとに、身を思ひおとしてしこな た、なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行ひに 本意深くすすみにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にも あくがれむ道の重き絆なるべくおぼえしかば、とざまかうざ

まに紛らはしつつ過ぐしつるを、つひに、なほ世に立ちまふ べくもおぼえぬもの思ひの一方ならず身に添ひにたるは、我 より外に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあ めれ」
と思ふに、恨むべき人もなし。 「神仏をもかこたん方 なきは、これみなさるべきにこそはあらめ。誰も千歳の松な らぬ世は、つひにとまるべきにもあらぬを、かく人にもすこ しうち偲ばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ 人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。せ めてながらへば、おのづから、あるまじき名をも立ち、我も 人も安からぬ乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと心 おいたまふらんあたりにも、さりとも思しゆるいてんかし。 よろづのこと、いまはのとぢめには、みな消えぬべきわざな り。また異ざまの過ちしなければ、年ごろもののをりふしご とには、まつはしならひたまひにし方のあはれも出で来な ん」など、つれづれに思ひつづくるも、うち返しいとあぢき

なし。 柏木、小侍従を介してひそかに宮と贈答 など、かく、ほどもなくしなしつる身なら むとかきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬば かり人やりならず流し添へつつ、いささか 隙ありとて人々立ち去りたまへるほどに、かしこに御文奉れ たまふ。 「今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞 こしめすやうもはべらんを、いかがなりぬるとだに御耳と どめさせたまはぬも、ことわりなれど、いとうくもはべるか な」など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふこともみな 書きさして、   「いまはとて燃えむけぶりもむすぼほれ絶えぬ思ひの   なほや残らむ あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に まどはむ道の光にもしはべらん」と聞こえたまふ。

 侍従にも、懲りずまに、あはれなることども言ひおこせた まへり。 「みづからも、いま一たび言ふべきことなん」と のたまへれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつ つ見たてまつり馴れたる人なれば、おほけなき心こそうたて おぼえたまひつれ、いまはと聞くはいと悲しうて、泣く泣く、 「なほ、この御返り。まことにこれをとぢめにもこそはべ れ」と聞こゆれば、 「我も、今日か明日かの心地しても の心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、 いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなんつつまし き」とて、さらに書いたまはず。  御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげ なる人の御気色のをりをりにまほならぬがいと恐ろしうわび しきなるべし。されど御硯などまかなひて責めきこゆれば、 しぶしぶに書いたまふ。とりて、忍びて、宵の紛れにかしこ に参りぬ。

 大臣は、かしこき行者、葛城山より請じ出でたる、待ちう けたまひて、加持まゐらせんとしたまふ。御修法読経なども いとおどろおどろしう騒ぎたり。人の申すままに、さまざま 聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず深き山に籠りた るなどをも、弟の君たちをつかはしつつ、尋ね、召すに、け にくく心づきなき山伏どもなどもいと多く参る。わづらひた まふさまの、そこはかとなくものを心細く思ひて、音をのみ 時々泣きたまふ。陰陽師なども、多くは、女の霊とのみ占ひ 申しければ、さることもやと思せど、さらに物の怪のあらは れ出で来るもなきに思ほしわづらひて、かかる隈々をも尋ね たまふなりけり。  この聖も、丈高やかに、まぶしつべたましくて、荒らかに おどろおどろしく陀羅尼読むを、 「いであな憎や。罪の深 き身にやあらむ、陀羅尼の声高きはいとけ恐ろしくて、いよ いよ死ぬべくこそおぼゆれ」とて、やをらすべり出でて、こ

の侍従と語らひたまふ。  大臣は、さも知りたまはず、うちやすみたると人々して申 させたまへば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語したまふ。 おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきてもの笑 ひしたまふ大臣の、かかる者どもと対ひゐて、このわづらひ そめたまひしありさま、何ともなくうちたゆみつつ重りたま へること、 「まことにこの物の怪あらはるべう念じた まへ」など、こまやかに語らひたまふもいとあはれなり。 「あれ聞きたまへ。何の罪とも思しよらぬに、占ひより けん女の霊こそ。まことにさる御執の身にそひたるならば、                     厭はしき身もひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。さ てもおほけなき心ありて、さるまじき過ちを引き出でて、人 の御名をも立て、身をもかへり見ぬたぐひ、昔の世にもなく やはありける、と思ひなほすに、なほけはひわづらはしう、 かの御心にかかる咎を知られたてまつりて、世になからへん

こともいとまばゆくおぼゆるは、げにことなる御光なるべし。 深き過ちもなきに、見あはせたてまつりし夕のほどより、や がてかき乱り、まどひそめにし魂の、身にも還らずなりにし を、かの院の内にあくがれ歩かば、結びとどめたまへよ」
な ど、いと弱げに、殻のやうなるさまして泣きみ笑ひみ語らひ たまふ。  宮も、ものをのみ恥づかしうつつまし、と思したるさまを 語る。さてうちしめり、面痩せたまへらん御さまの、面影に 見たてまつる心地して思ひやられたまへば、げにあくがるら む魂や行き通ふらんなど、いとどしき心地も乱るれば、 「今さらに、この御ことよ、かけても聞こえじ。この世は、 かう、はかなくて過ぎぬるを、長き世の絆にもこそと思ふな む、いといとほしき。心苦しき御ことを、たひらかにとだに いかで聞きおいたてまつらむ。見し夢を、心ひとつに思ひ あはせて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるか

な」
など、とり集め思ひしみたまへるさまの深きを、かつは いとうたて恐ろしう思へど、あはれ、はた、え忍ばず、この 人もいみじう泣く。  紙燭召して御返り見たまへば、御手もなほいとはかなげに、 をかしきほどに書いたまひて、 「心苦しう聞きながら、 いかでかは。ただ推しはかり。残らん、とあるは、 立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙く   らべに 後るべうやは」とばかりあるを、あはれにかたじけなしと 思ふ。   「いでや、この煙ばかりこそはこの世の思ひ出ならめ。 はかなくもありけるかな」と、いとど泣きまさりたまひて、 御返り、臥しながらうち休みつつ書いたまふ。言の葉のつづ きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、   「行く方なき空のけぶりとなりぬとも思ふあたりを立

ちははなれじ 夕はわきてながめさせたまへ。咎めきこえさせたまはん人目 をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも絶 えずかけさせたまへ」
など書き乱りて、心地の苦しさまさり ければ、 「よし。いたう更けぬさきに、帰り参りたまひて、 かく限りのさまになんとも聞こえたまへ。今さらに、人あや しと思ひあはせむを、わが世の後さへ思ふこそ苦しけれ。い かなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」と、 泣く泣くゐざり入りたまひぬれば、例は、無期に対へ据ゑて、 すずろ言をさへ言はせまほしうしたまふを、言少なにても、 と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。  御ありさまを乳母も語りていみじう泣きまどふ。大臣など の思したる気色ぞいみじきや。 「昨日今日すこしよろ しかりつるを、などかいと弱げには見えたまふ」と騒ぎたま ふ。 「何か。なほとまりはべるまじきなめり」と聞こえた

まひて、みづからも泣いたまふ。 女三の宮、男子を出産 産養の盛儀 宮はこの暮つ方より、悩ましうしたまひけ るを、その御けしきと見たてまつり知りた る人々騒ぎ満ちて、大殿にも聞こえたりけ れば、驚きて渡りたまへり。御心の中は、 「あな口惜しや。 思ひまずる方なくて見たてまつらましかば、めづらしくうれ しからまし」と思せど、人にはけしき漏らさじと思せば、験- 者など召し、御修法はいつとなく不断にせらるれば、僧ども の中に験あるかぎりみな参りて、加持まゐり騒ぐ。  夜一夜悩み明かさせたまひて、日さし上るほどに生まれた まひぬ。男君、と聞きたまふに、 「かく忍びたる事の、あや にくにいちじるき顔つきにて、さし出でたまへらんこそ苦し かるべけれ。女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見るもの ならねば安けれ」と思すに、また、 「かく心苦しき疑ひまじ りたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし。

さてもあやしや。わが世とともに恐ろしと思ひし事の報なめ り。この世にて、かく思ひかけぬ事にむかはりぬれば、後の 世の罪もすこし軽みなんや」
と思す。  人、はた、知らぬ事なれば、かく心ことなる御腹にて、末 に出でおはしたる御おほえいみじかりなんと、思ひ営み仕う まつる。  御産屋の儀式いかめしうおどろおどろし。御方々、さまざ まにし出でたまふ御産養、世の常の折敷、衝重、高坏など の心ばへも、ことさらに心々にいどましさ見えつつなむ。五- 日の夜、中宮の御方より、子持の御前の物、女房の中にも、 品々に思ひ当てたる際-  際、公事にいかめし うせさせたまへり。御- 粥屯食五十具、所どこ ろの饗、院の下部、庁

の召次所、何かの隈までいかめしくせさせたまへり。宮司、 大夫よりはじめて院の殿上人みな参れり。  七夜は、内裏より、それもおほやけざまなり。致仕の大臣 など、心ことに仕うまつりたまふべきに、このごろは、何ご とも思されで、おほぞうの御とぶらひのみぞありける。宮た ち上達部などあまた参りたまふ。おほかたのけしきも、世 になきまでかしづききこえたまへど、大殿の、御心の中に心- 苦しと思すことありて、いたうももてはやしきこえたまはず、 御遊びなどはなかりけり。 女三の宮出家を望み、源氏これを苦慮する 宮は、さばかりひはづなる御さまにて、い とむくつけう、ならはぬ事の恐ろしう思さ れけるに、御湯なども聞こしめさず、身の 心憂きことをかかるにつけても思し入れば、さはれ、このつ いでにも死なばや、と思す。大殿は、いとよう人目を飾り思 せど、まだむつかしげにおはするなどを、とりわきても見た

てまつりたまはずなどあれば、老いしらへる人などは、 「い でや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出でた まへる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはします を」と、うつくしみきこゆれば、片耳に聞きたまひて、さの みこそは思し隔つることもまさらめ、と恨めしう、わが身つ らくて、尼にもなりなばやの御心つきぬ。  夜なども、こなたには大殿籠らず、昼つ方などぞさしのぞ きたまふ。 「世の中のはかなきを見るままに、行く末短う もの心細くて、行ひがちになりにてはべれば、かかるほどの らうがはしき心地するによりえ参り来ぬを、いかが、御心地 はさはやかに思しなりにたりや。心苦しうこそ」とて、御几- 帳のそばよりさしのぞきたまへり。御ぐしもたげたまひて、 「なほ、え生きたるまじき心地なむしはべるを、かか  る人は罪も重かなり。尼になりて、もしそれにや生きとまる と試み、また亡くなるとも、罪を失ふことにもやとなん思ひ

はべる」
と、常の御けはひよりはいと大人びて聞こえたまふ を、 「いとうたて、ゆゆしき御ことなり。などてかさまで は思す。かかる事は、さのみこそ恐ろしかむなれど、さてな がらへぬわざならばこそあらめ」と聞こえたまふ。  御心の中には、 「まことに、さも思しよりてのたまはば、 さやうにて見たてまつらむはあはれなりなんかし。かつ見つ つも、事にふれて心おかれたまはんが心苦しう、我ながらも え思ひなほすまじう、うき事のうちまじりぬべきを、おのづ からおろかに人の見とがむることもあらんが、いといとほし う、院などの聞こしめさんことも、わがおこたりにのみこそ はならめ。御悩みにことつけて、さもやなしたてまつりてま し」など思しよれど、また、いとあたらしう、あはれに、か ばかり遠き御髪の生ひ先を、しかやつさんことも心苦しけれ ば、 「なほ、強く思しなれ。けしうはおはせじ。限りと見 ゆる人も、たひらかなる例近ければ、さすがに頼みある世に

なん」
など聞こえたまひて、御湯まゐりたまふ。いといたう 青み痩せて、あさましうはかなげにてうち臥したまへる御さ ま、おほどきうつくしげなれば、いみじき過ちありとも、心- 弱くゆるしつべき御ありさまかなと見たてまつりたまふ。 朱雀院、憂慮して下山 女三の宮出家する 山の帝は、めづらしき御事たひらかなりと 聞こしめして、あはれにゆかしう思ほすに、 かく悩みたまふよしのみあれば、いかにも のしたまふべきにかと、御行ひも乱れて思しけり。  さばかり弱りたまへる人の物を聞こしめさで日ごろ経たま へば、いと頼もしげなくなりたまひて、年ごろ見たてまつら ざりしほどよりも、院のいと恋しくおぼえたまふを、 「またも見たてまつらずなりぬるにや」といたう泣いたまふ。 かく聞こえたまふさま、さるべき人して伝へ奏せさせたまひ ければ、いとたへがたう悲しと思して、あるまじき事とは思 しめしながら、夜に隠れて出でさせたまへり。

 かねてさる御消息もなくて、にはかに、かく、渡りおはし まいたれば、主の院驚きかしこまりきこえたまふ。 「世 の中を、かへり見すまじう思ひはべりしかど、なほ、まどひ さめがたきものはこの道の闇になんはべりければ、行ひも懈- 怠して、もし後れ先だつ道の道理のままならで別れなば、や がてこの恨みもやかたみに残らむとあぢきなさに、この世の 譏りをば知らで、かくものしはべる」と聞こえたまふ。御容- 貌異にても、なまめかしうなつかしきさまにうち忍びやつれ たまひて、うるはしき御法服ならず、墨染の御姿あらまほし うきよらなるも、うらやましく見たてまつりたまふ。例の、 まづ涙落したまふ。 「わづらひたまふ御さま、ことなる御- 悩みにもはべらず、ただ月ごろ弱りたまへる御ありさまに、 はかばかしう物などもまゐらぬつもりにや、かくものしたま ふにこそ」など聞こえたまふ。 「かたはらいたき御座なれども」とて、御帳の前に、御-

褥まゐりて入れたてまつりたまふ。宮をも、とかう人々つく ろひきこえて、床の下におろしたてまつる。御几帳すこし押 しやらせたまひて、 「夜居の加持の僧などの心地すれど、 まだ験つくばかりの行ひにもあらねばかたはらいたけれど、 ただ、おぼつかなくおぼえたまふらんさまを、さながら見た まふべきなり」とて、御目おし拭はせたまふ。宮も、いと弱 げに泣いたまひて、 「生くべうもおぼえはべらぬを、 かくおはしまいたるついでに、尼になさせたまひてよ」と聞 こえたまふ。 「さる御本意あらば、いと尊きことなるを、 さすがに限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりて事 の乱れあり、世の人に譏らるるやうありぬべきことになん、 なほ憚りぬべき」などのたまはせて、大殿の君に、 「かく なん進みのたまふを、今は限りのさまならば、片時のほどに ても、その助けあるべきさまにて、となん思ひたまふる」と のたまへば、 「日ごろもかくなんのたまへど、邪気なんど

の人の心たぶろかして、かかる方にてすすむるやうもはべ なるをとて、聞きも入れはべらぬなり」
と聞こえたまふ。 「物の怪の教にても、それに負けぬとて、あしかるべき ことならばこそ憚らめ、弱りにたる人の、限りとてものした まはんことを聞き過ぐさむは、後の悔心苦しうや」とのた まふ。  御心の中、 「限りなううしろやすく譲りおきし御事を承け とりたまひて、さしも心ざし深からず、わが思ふやうにはあ らぬ御気色を、事にふれつつ、年ごろ聞こしめし思しつめけ ること、色に出でて恨みきこえたまふべきにもあらねば、世 の人の思ひ言ふらんところも口惜しう思しわたるに、かかる をりにもて離れなんも、何かは、人わらへに世を恨みたるけ しきならで、さもあらざらん。おほかたの後見には、なほ頼ま れぬべき御おきてなるを、ただ預けおきたてまつりししるし には思ひなして、憎げに背くさまにはあらずとも、御処分に、

広くおもしろき宮賜はりたまへるを繕ひて住ませたてまつら ん。わがおはします世に、さる方にても、うしろめたからず 聞きおき、また、かの大殿も、さ言ふとも、いとおろかには よも思ひ放ちたまはじ。その心ばへをも見はてん」
と思ほし とりて、 「さらば、かくものしたるついでに、忌むこと 受けたまはんをだに結縁にせんかし」とのたまはす。  大殿の君、うしと思す方も忘れて、こはいかなるべきこと ぞと悲しく口惜しければ、えたへたまはず、内に入りて、 「などか、いくばくもはべるまじき身をふり棄てて、かう は思しなりにける。なほ、しばし心を静めたまひて、御湯ま ゐり、物などをも聞こしめせ。尊きことなりとも、御身弱う ては行ひもしたまひてんや。かつはつくろひたまひてこそ」 と聞こえたまへど、頭ふりて、いとつらうのたまふ、と思し たり。つれなくて、恨めしと思すこともありけるにや、と見 たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり。

 とかく聞こえ返さひ思しやすらふほどに、夜明け方になり ぬ。帰り入らんに、道も昼ははしたなかるべしと急がせたま ひて、御祈祷にさぶらふ中に、やむごとなう尊きかぎり召し 入れて、御髪おろさせたまふ。いとさかりにきよらなる御髪 をそぎ棄てて、忌むこと受けたまふ作法悲しう口惜しけれ ば、大殿はえ忍びあへたまはず、いみじう泣いたまふ。院、 はた、もとより、とり分きてやむごとなく、人よりもすぐれ て見たてまつらんと思ししを、この世にはかひなきやうにな いたてまつるも飽かず悲しければ、うちしほたれたまふ。 「かくても、たひらかにて、同じうは念誦をも勤めたま へ」と聞こえおきたまひて、明けはてぬるに急ぎて出でさせ たまひぬ。  宮は、なほ弱う消え入るやうにしたまひて、はかばかしう もえ見たてまつらず、ものなども聞こえたまはず。大殿も、 「夢のやうに思ひたまへ乱るる心まどひに、かう昔おぼえた

る御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられぬらうがはしさは、 ことさらに参りはんべりてなん」
と聞こえたまふ。御送りに 人々参らせたまふ。 「世の中の、今日か明日かにおぼえ はべりしほどに、また知る人もなくてただよはんことのあは れに避りがたうおぼえはべしかば、御本意にはあらざりけめ ど、かく聞こえつけて、年ごろは心やすく思ひたまへつるを、 もしも生きとまりはべらば、さま異に変りて、人繁き住まひ はつきなかるべきを、さるべき山里などにかけ離れたらむあ りさまも、また、さすがに心細かるべくや。さまに従ひて、 なほ、思し放つまじく」など聞こえたまへば、 「さらに、 かくまで仰せらるるなん、かへりて恥づかしう思ひたまへら るる。乱り心地とかく乱れはべりて、何ごともえわきまへは べらず」とて、げにいとたへがたげに思したり。 六条御息所の物の怪、またも現われる

後夜の御加持に、御物の怪出で来て、 「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつ と、一人をば思したりしが、いと妬かりし かば、このわたりにさりげなくてなん日ごろさぶらひつる。 今は帰りなん」とてうち笑ふ。いとあさましう、さは、この 物の怪のここにも離れざりけるにやあらんと思すに、いとほ しう悔しう思さる。宮、すこし生き出でたまふやうなれど、 なほ頼みがたげにのみ見えたまふ。さぶらふ人々も、いと言 ふかひなうおぼゆれど、かうてもたひらかにだにおはしまさ ば、と念じつつ、御修法、また延べて、たゆみなく行はせな ど、よろづにせさせたまふ。 柏木、夕霧に告白、後事を託して死去する かの衛門督は、かかる御事を聞きたまふに、 いとど消え入るやうにしたまひて、むげに 頼む方少なうなりたまひにたり。女宮のあ はれにおぼえたまへば、ここに渡りたまはんことは、今さら

に、軽々しきやうにあらんを、上も大臣も、かく、つとそひ おはすれば、おのづからとりはづして、見たてまつりたまふ やうもあらむにあぢきなしと思して、 「かの宮に、とかく していま一たび参うでん」とのたまふを、さらにゆるしきこ えたまはず。  誰にも、この宮の御ことを聞こえつけたまふ。はじめより、 母御息所はをさをさ心ゆきたまはざりしを、この大臣のゐた ちねむごろに聞こえたまひて、心ざし深かりしに負けたまひ て、院にも、いかがはせんと思しゆるしけるを、二品の宮の 御こと思ほし乱れけるついでに、 「なかなか、この宮は、 行く先うしろやすく、まめやかなる後見まうけたまへり」と のたまはすと聞きたまひしを、かたじけなう思ひ出づ。 「かくて見棄てたてまつりぬるなめり、と思ふにつけては、 さまざまにいとほしけれど、心より外なる命なれば、たへぬ 契り恨めしうて、思し嘆かれんが心苦しきこと。御心ざしあ

りてとぶらひものせさせたまへ」
と、母上にも聞こえたまふ。 「いで、あなゆゆし。後れたてまつりては、いくばく 世に経べき身とて、かうまで行く先のことをばのたまふ」と て、泣きにのみ泣きたまへば、え聞こえやりたまはず。右大 弁の君にぞ、おほかたの事どもはくはしう聞こえたまふ。  心ばへのどかによくおはしつる君なれば、弟の君たちも、 まだ、末々の若きは、親とのみ頼みきこえたまへるに、かう 心細うのたまふを悲しと思はぬ人なく、殿の内の人も嘆く。 おほやけも惜しみ口惜しがらせたまふ。かく、限りと聞こし めして、にはかに権大納言になさせたまへり。よろこびに思 ひおこして、いま一たびも参りたまふやうもやあると思しの たまはせけれど、さらにえためらひやりたまはで、苦しき中 にもかしこまり申したまふ。大臣も、かく重き御おぼえを見 たまふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思しまどふ。  大将の君、常にいと深う思ひ嘆きとぶらひきこえたまふ。

御よろこびにも、まづ参うでたまへり。このおはする対のほ とり、こなたの御門は、馬車たちこみ、人騒がしう騒ぎみち たり。今年となりては、起き上ることもをさをさしたまはね ば、重々しき御さまに、乱れながらはえ対面したまはで、思 ひつつ弱りぬることと思ふに口惜しければ、 「なほこなた に入らせたまへ。いとらうがはしきさまにはべる罪は、おの づから思しゆるされなん」とて、臥したまへる枕上の方に、 僧などしばし出だしたまひて、入れたてまつりたまふ。  早うより、いささか隔てたまふことなう睦びかはしたまふ 御仲なれば、別れんことの悲しう恋しかるべき嘆き、親はら からの御思ひにも劣らず。今日はよろこびとて、心地よげな らましを、と思ふに、いと口惜しうかひなし。 「などかく 頼もしげなくはなりたまひにける。今日は、かかる御よろこ びに、いささかすくよかにもや、とこそ思ひはべりつれ」と て、几帳のつまをひき上げたまへれば、 「いと口惜しう、

その人にもあらずなりにてはべりや」
とて、烏帽子ばかり押 し入れて、すこし起き上らむとしたまへど、いと苦しげなり。 白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾 ひきかけて臥したまへり。御座のあたりもの清げに、けはひ 香ばしう、心にくくぞ住みなしたまへる。うちとけながら用- 意あり、と見ゆ。重くわづらひたる人は、おのづから髪髭も 乱れ、ものむつかしきけはひも添ふわざなるを、痩せさらぼ ひたるしも、いよいよ白うあてはかなるさまして、枕をそば だてて、ものなど聞こえたまふけはひいと弱げに、息も絶え つつあはれげなり。 「久しうわづらひたまへるほどよりは、ことにいたうも そこなはれたまはざりけり。常の御容貌よりも、なかなかま さりてなん見えたまふ」とのたまふものから、涙おし拭ひて、 「後れ先だつ隔てなくとこそ契りきこえしか。いみじうも あるかな。この御心地のさまを、何ごとにて重りたまふとだ

に、え聞きわきはべらず。かく親しきほどながら、おぼつか なくのみ」
などのたまふに、 「心には、重くなるけぢめも おぼえはべらず。そこ所と苦しきこともなければ、たちまち にかうも思ひたまへざりしほどに、月日も経で弱りはべりに ければ、今はうつし心も失せたるやうになん。惜しげなき身 をさまざまにひきとどめらるる祈祷願などの力にや、さすが にかかづらふも、なかなか苦しうはべれば、心もてなん、急 ぎたつ心地しはべる。さるは、この世の別れ、避りがたきこ とはいと多うなん。親にも仕うまつりさして、今さらに御心 どもを悩まし、君に仕うまつることもなかばのほどにて、 身をかへりみる方、はた、まして、はかばかしからぬ恨みを とどめつる、おほかたの嘆きをばさるものにて、また心の中 に思ひたまへ乱るることのはべるを、かかるいまはのきざみ にて、何かは漏らすべきと思ひはべれど、なほ忍びがたきこ とを誰にかは愁へはべらん。これかれあまたものすれど、

さまざまなることにて、さらに、かすめはべらむもあいなし かし。六条院にいささかなる事の違ひ目ありて、月ごろ、心 の中に、かしこまり申すことなんはべりしを、いと本意なう、 世の中心細う思ひなりて、病づきぬとおぼえはべしに、召し ありて、院の御賀の楽所の試みの日参りて、御気色を賜はり しに、なほゆるされぬ御心ばへあるさまに御眼尻を見たてま つりはべりて、いとど世にながらへんことも憚り多うおぼえ なりはべりて、あぢきなう思ひたまへしに心の騒ぎそめて、 かく静まらずなりぬるになん。人数には思し入れざりけめど、 いはけなうはべし時より、深う頼み申す心のはべりしを、い かなる讒言などのありけるにかと、これなんこの世の愁へに て残りはべるべければ、論なう、かの後の世のさまたげにも やと思ひたまふるを、事のついではべらば、御耳とどめて、 よろしう明らめ申させたまへ。亡からん後にも、この勘事ゆ るされたらんなむ、御徳にはべるべき」
などのたまふままに、

いと苦しげにのみ見えまされば、いみじうて、心の中に思ひ あはする事どもあれど、さしてたしかにはえしも推しはか らず。   「いかなる御心の鬼にかは。さらにさやうなる御気色も なく、かく重りたまへるよしをも聞きおどろき嘆きたまふこ と、限りなうこそ口惜しがり申したまふめりしか。など、か く思すことあるにては、今まで残いたまひつらん。こなたか なた明らめ申すべかりけるものを。今は、言ふかひなしや」 とて、とり返さまほしう悲しく思さる。 「げにいささかも 隙ありつるをり、聞こえ承るべうこそはべりけれ。されど、 いとかう今日明日としもやはと、みづからながら知らぬ命の ほどを思ひのどめはべりけるもはかなくなん。この事はさら に御心より漏らしたまふまじ。さるべきついではべらむをり には、御用意加へたまへとて、聞こえおくになん。一条にも のしたまふ宮、事にふれてとぶらひきこえたまへ。心苦しき

さまにて、院などにも聞こしめされたまはんを、つくろひた まへ」
などのたまふ。言はまほしきことは多かるべけれど、 心地せん方なくなりにければ、 「出でさせたまひね」と、 手かききこえたまふ。加持まゐる僧ども近う参り、上大臣 などおはし集まりて、人々もたち騒げば、泣く泣く出でたま ひぬ。  女御をばさらにも聞こえず、この大将の御方なども、いみ じう嘆きたまふ。心おきての、あまねく人の兄心にもの したまひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、睦 ましきものに思ひきこえたまひければ、よろづに思ひ嘆き たまひて、御祈祷などとりわきてせさせたまひけれど、やむ 薬ならねば、かひなきわざになんありける。女宮にも、つひ にえ対面しきこえたまはで、泡の消え入るやうにて亡せたま ひぬ。  年ごろ、下の心こそねむごろに深くもなかりしか、おほか

たには、いとあらまほしくもてなしかしづききこえて、気な つかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐいたま ひければ、つらきふしもことになし。ただかく短かりける御- 身にて、あやしくなべての世すさまじく思ひたまひけるなり けり、と思ひ出でたまふにいみじうて、思し入りたるさまい と心苦し。御息所も、いみじう人わらへに口惜しと、見たて まつり嘆きたまふこと限りなし。  大臣北の方などは、まして言はむ方なく、我こそ先立ため、 世のことわりなくつらいことと焦れたまへど何のかひなし。  尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世にながか れとしも思さざりしを、かくなむと聞きたまふはさすがにい とあはれなりかし。若君の御ことを、さぞと思ひたりしも、 げにかかるべき契りにてや思ひの外に心憂き事もありけむ、 と思しよるに、さまざまもの心細うてうち泣かれたまひぬ。 若君の五十日の祝儀 源氏感慨に沈む

三月になれば、空のけしきもものうららか にて、この君五十日のほどになりたまひて、 いと白ううつくしう、ほどよりはおよすけ て、物語などしたまふ。大殿渡りたまひて、 「御心地はさ はやかになりたまひにたりや。いでや、いとかひなくもはべ るかな。例の御ありさまにてかく見なしたてまつらましかば、 いかにうれしうはべらまし。心憂く思し棄てけること」と、 涙ぐみて恨みきこえたまふ。日々に渡りたまひて、今しも、 やむごとなく限りなきさまにもてなしきこえたまふ。  御五十日に餅まゐらせたまはんとて、かたちことなる御さ まを、人々、いかになど聞こえやすらへば、院渡らせたまひて、 「何か。女にものしたまはばこそ、同じ筋にていまいまし くもあらめ」とて、南面に小さき御座などよそひてまゐらせ たまふ。御乳母いと華やかに装束きて、御前の物、色々を尽 くしたる、籠物檜破子の心ばへどもを、内にも外にも、本の

心を知らぬことなれば、とり散らし、何心もなきを、いと心- 苦しうまばゆきわざなりやと思す。  宮も起きゐたまひて、御髪の末のところせう広ごりたるを、 いと苦しと思して、額など撫でつけておはするに、几帳を引 きやりてゐさせたまへば、いと恥づかしうて背きたまへる、 いとど小さう細りたまひて、御髪は惜しみきこえて長うそぎ たりければ、背後はことにけぢめも見えたまはぬほどなり。 すぎすぎ見ゆる鈍色ども、黄がちなる今様色など着たまひて、 まだありつかぬ御かたはら目、かくてしもうつくしき子ども の心地して、なまめかしうをかしげなり。 「いで、あな心- 憂。墨染こそ、なほ、いとうたて目もくるる色なりけれ。かや うにても見たてまつることは絶ゆまじきぞかし、と思ひ慰め はべれど、旧りがたうわりなき心地する涙の人わろさを、い と、かう、思ひ棄てられたてまつる身の咎に思ひなすも、さ まざまに胸いたう口惜しうなん。取り返すものにもがなや」

と、うち嘆きたまひて、 「今はとて思し離れば、まことに 御心と厭ひ棄てたまひけると、恥づかしう心憂くなんおぼゆ べき。なほあはれと思せ」と聞こえたまへば、 「かか るさまの人は、もののあはれも知らぬものと聞きしを、まし てもとより知らぬことにて、いかがは聞こゆべからむ」との たまへば、 「かひなのことや。思し知る方もあらむもの を」とばかりのたまひさして、若君を見たてまつりたまふ。  御乳母たちは、やむごとなくめやすきかぎりあまたさぶら ふ。召し出でて、仕うまつるべき心おきてなどのたまふ。 「あはれ。残り少なき世に生ひ出づべき人にこそ」とて、抱 きとりたまへば、いと心やすくうち笑みて、つぶつぶと肥え て白ううつくし。大将などの児生ひほのかに思し出づるには 似たまはず。女御の御宮たち、はた、父帝の御方ざまに、王- 気づきて気高うこそおはしませ、ことにすぐれてめでたうし もおはせず。この君、いとあてなるに添へて愛敬づき、まみ

のかをりて、笑がちなるなどをいとあはれと見たまふ。思ひ なしにや、なほいとようおぼえたりかし。ただ今ながら、ま なこゐののどかに、恥づかしきさまもやう離れて、かをりを かしき顔ざまなり。宮は、さしも思しわかず、人、はた、さ らに知らぬことなれば、ただ一ところの御心の中にのみぞ、 あはれ、はかなかりける人の契りかな、と見たまふに、おほ かたの世の定めなさも思しつづけられて、涙のほろほろとこ ぼれぬるを、今日は事忌すべき日をとおし拭ひ隠したまふ。 「静かに思ひて嗟くに堪へたり」と、うち誦じたまふ。五- 十八を十とり棄てたる御齢なれど、末になりたる心地したま ひて、いとものあはれに思さる。 「汝が爺に」とも、諫めま ほしう思しけむかし。 「この事の心知れる人、女房の中にもあらんかし。知らぬこ そ妬けれ。をこなりと見るらん」と安からず思せど、 「わが 御咎あることはあへなん。二つ言はんには、女の御ためこそ

いとほしけれ」
など思して、色にも出だしたまはず。いと何- 心なう物語して笑ひたまへる、まみ口つきのうつくしきも、 「心知らざらむ人はいかがあらん。なほ、いとよく似通ひた りけり」と見たまふに、 「親たちの、子だにあれかしと泣い たまふらんにもえ見せず、人知れずはかなき形見ばかりをと どめおきて、さばかり思ひあがりおよすけたりし身を、心も て失ひつるよ」とあはれに惜しければ、めざまし、と思ふ心 もひき返し、うち泣かれたまひぬ。  人々すべり隠れたるほどに、宮の御もとに寄りたまひて、 「この人をばいかが見たまふや。かかる人を棄てて、背き はてたまひぬべき世にやありける。あな心憂」とおどろかし きこえたまへば、顔うち赤めておはす。    「誰が世にかたねはまきしと人問はばいかが岩根の松   はこたへん あはれなり」など忍びて聞こえたまふに、御答へもなうて、

ひれ臥したまへり。ことわりと思せば、強ひても聞こえたま はず。 「いかに思すらん。もの深うなどはおはせねど、いか でかただには」と推しはかりきこえたまふも、いと心苦しう なん。 夕霧、柏木を回想、致仕の大臣の悲傷 大将の君は、かの心に余りてほのめかし出 でたりしを、 「いかなる事にかありけん。 すこしものおぼえたるさまならましかば、 さばかりうち出でそめたりしに、いとよう気色を見てましを。 言ふかひなきとぢめにて、をりあしう、いぶせくて、あはれ にもありしかな」と、面影忘れがたうて、はらからの君たち よりも、強ひて悲しとおぼえたまひけり。 「女宮のかく世を 背きたまへるありさま、おどろおどろしき御悩みにもあらで、 すがやかに思したちけるほどよ。また、さりともゆるしきこ えたまふべきことかは。二条の上の、さばかり限りにて、泣 く泣く申したまふと聞きしをば、いみじきことに思して、つ

ひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」
など、とり 集めて思ひくだくに、 「なほ昔より絶えず見ゆる心ばへ、え 忍ばぬをりをりありきかし。いとようもて静めたるうはべは、 人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心の中に 思ふらんと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きと ころつきて、なよび過ぎたりしけぞかし、いみじうとも、さ るまじき事に心を乱りて、かくしも身にかふべき事にやはあ りける。人のためにもいとほしう、わが身、はた、いたづら にやなすべき。さるべき昔の契りといひながら、いと軽々し うあぢきなきことなりかし」など心ひとつに思へど、女君に だに聞こえ出でたまはず。さるべきついでなくて、院にも、 また、え申したまはざりけり。さるは、かかることをなんか すめしと申し出でて、御気色も見まほしかりけり。  父大臣母北の方は、涙のいとまなく思し沈みて、はかなく 過ぐる日数をも知りたまはず。御わざの法服、御装束、何く

れのいそぎをも、君たち御方々とりどりになんせさせたまひ ける。経仏のおきてなども、右大弁の君せさせたまふ。七日- 七日の御誦経などを、人の聞こえおどろかすにも、 「我にな聞かせそ。かくいみじと思ひまどふに、なかなか道 さまたげにもこそ」とて、亡きやうに思しほれたり。 夕霧、一条宮を訪問、御息所と故人を語る 一条宮には、まして、おぼつかなくて別れ たまひにし恨みさへ添ひて、日ごろ経るま まに、広き宮の内人げ少なう心細げにて、 親しく使ひ馴らしたまひし人は、なほ参りとぶらひきこゆ。 好みたまひし鷹馬など、その方の預りどもも、みな属く所な う思ひ倦じて、かすかに出で入るを見たまふも、事にふれて あはれは尽きぬものになんありける。もて使ひたまひし御調- 度ども、常に弾きたまひし琵琶和琴などの緒もとり放ちやつ されて音をたてぬも、いと埋れいたきわざなりや。  御前の木立いたうけぶりて、花は時を忘れぬけしきなるを

ながめつつ、もの悲しく、さぶらふ人々も鈍色にやつれつつ、 さびしうつれづれなる昼つ方、前駆はなやかに追ふ音してこ こにとまりぬる人あり。 「あはれ、故殿の御けはひとこそ、 うち忘れては思ひつれ」とて泣くもあり。大将殿のおはした るなりけり。御消息聞こえ入れたまへり。例の、弁の君宰- 相などのおはしたる、と思しつるを、いと恥づかしげにきよ らなるもてなしにて入りたまへり。  母屋の廂に御座よそひて入れたてまつる。おしなべたるや うに人々のあへしらひきこえむは、かたじけなきさまのした まへれば、御息所ぞ対面したまへる。 「いみじきことを思 ひたまへ嘆く心は、さるべき人々にも越えてはべれど、限り あれば聞こえさせやる方なうて、世の常になりはべりにけ り。いまはのほどにも、のたまひおくことはべりしかば、お ろかならずなむ。誰ものどめ難き世なれど、後れ先だつほど のけぢめには、思ひたまへ及ばむに従ひて深き心のほどをも

御覧ぜられにしがなとなん。神事などの繁きころほひ、私 の心ざしにまかせて、つくづくと籠りゐはべらむも例ならぬ ことなりければ、立ちながら、はた、なかなかに飽かず思ひ たまへらるべうてなん、日ごろを過ぐしはべりにける。大臣 などの心を乱りたまふさま見聞きはべるにつけても、親子の 道の闇をばさるものにて、かかる御仲らひの、深く思ひとど めたまひけんほどを推しはかりきこえさするに、いと尽きせ ずなん」
とて、しばしばおし拭ひ鼻うちかみたまふ。あざや かに気高きものから、なつかしうなまめいたり。  御息所も鼻声になりたまひて、 「あはれなることは、その 常なき世のさがにこそは。いみじとても、また、たぐひなき ことにやはと、年つもりぬる人はしひて心強うさましはべる を、さらに思し入りたるさまのいとゆゆしきまで、しばし もたち後れたまふまじきやうに見えはべれば、すべていと心- 憂かりける身の、今までながらへはべりて、かくかたがたに

はかなき世の末のありさまを見たまへ過ぐすべきにや、とい と静心なくなん。おのづから近き御仲らひにて、聞き及ばせ たまふやうもはべりけん。はじめつ方より、をさをさ承け引 ききこえざりし御事を、大臣の御心むけも心苦しう、院にも よろしきやうに思しゆるいたる御気色などのはべりしかば、 さらばみづからの心おきての及ばぬなりけりと思ひたまへな してなん見たてまつりつるを、かく夢のやうなることを見た まふるに思ひたまへあはすれば、はかなきみづからの心のほ どなん、同じうは強うもあらがひきこえましを、と思ひはべ るに、なほいと悔しう。それはかやうにしも思ひよりはべら ざりきかし。皇女たちは、おぼろけのことならで、あしくも よくも、かやうに世づきたまふことは、心にくからぬことな りと、古めき心には思ひはべりしを。いづ方にもよらず、中- 空にうき御宿世なりければ、何かは、かかるついでに煙にも 紛れたまひなんは、この御身のための人聞きなどはことに

口惜しかるまじけれど、さりとても、しかすくよかにえ思ひ 静むまじう、悲しう見たてまつりはべるに、いとうれしう浅 からぬ御とぶらひのたびたびになりはべるめるを、あり難う も、と聞こえはべるも、さらばかの御契りありけるにこそは と、思ふやうにしも見えざりし御心ばへなれど、いまはとて これかれにつけおきたまひける御遺言のあはれなるになん、 うきにもうれしき瀬はまじりはべりける」
とて、いといたう 泣いたまふけはひなり。  大将も、とみにえためらひたまはず。 「あやしく、いとこ よなくおよすけたまへりし人の、かかるべうてや、この二三- 年のこなたなん、いたうしめりてもの心細げに見えたまひし かば、あまり世のことわりを思ひ知り、もの深うなりぬる人 の、すみ過ぎて、かかる例、心うつくしからず、かへりては あざやかなる方のおぼえ薄らぐものなりとなん、常にはかば かしからぬ心に諫めきこえしかば、心浅しと思ひたまへりし。

よろづよりも、人にまさりて、げにかの思し嘆くらん御心の 中の、かたじけなけれど、いと心苦しうもはべるかな」
など、 なつかしうこまやかに聞こえたまひて、ややほど経てぞ出で たまふ。  かの君は、五六年のほどの年上なりしかど、なほいと若や かになまめき、あいだれてものしたまひし。これは、いとす くよかに重々しく、男々しきけはひして、顔のみぞいと若う きよらなること、人にすぐれたまへる。若き人々は、もの悲 しさも少し紛れて見出だしたてまつる。御前近き桜のいとお もしろきを、 「今年ばかりは」とうちおぼゆるも、いまいま しき筋なりければ、 「あひ見むことは」と口ずさびて、   時しあればかはらぬ色ににほひけり片枝枯れにし宿   の桜も わざとならず誦じなして立ちたまふに、いととう、   この春は柳のめにぞ玉はぬく咲き散る花のゆくへ

  知らねば
と聞こえたまふ。いと深きよしにはあらねど、いまめかしう かどありとは言はれたまひし更衣なりけり。げにめやすきほ どの用意なめりと見たまふ。 夕霧、致仕の大臣を訪ね、故人を哀悼する やがて致仕の大殿に参りたまへれば、君た ちあまたものしたまひけり。 「こなたに入 らせたまへ」とあれば、大臣の御出居の方 に入りたまへり。ためらひて対面したまへり。旧りがたう清 げなる御容貌いと痩せおとろへて、御髭などもとりつくろひ たまはねばしげりて、親の孝よりもけにやつれたまへり。見 たてまつりたまふよりいと忍びがたければ、あまりをさまら ず乱れ落つる涙こそはしたなけれ、と思へば、せめてもて隠 したまふ。大臣も、とりわき御仲よくものしたまひしをと見 たまふに、ただ降りに降り落ちてえとどめたまはず、尽きせ ぬ御ことどもを聞こえかはしたまふ。

 一条宮に参うでたりつるありさまなど聞こえたまふ。いと どしく春雨かと見ゆるまで、軒の雫に異ならず濡らしそへた まふ。畳紙に、かの「柳のめにぞ」とありつるを書いたまへる を奉りたまへば、 「目も見えずや」と、おししぼりつつ 見たまふ。うちひそみつつ見たまふ御さま、例は心強うあざ やかに誇りかなる御気色なごりなく、人わろし。さるはこと なることなかめれど、この「玉はぬく」とあるふしのげにと 思さるるに心乱れて、久しうえためらひたまはず。 「君の御母君の隠れたまへりし秋なん、世に悲しきことの際 にはおぼえはべりしを、女は限りありて、見る人少なう、と ある事もかかる事もあらはならねば、悲しびも隠ろへてなむ ありける。はかばかしからねど、朝廷も棄てたまはず、やう やう人となり、官位につけてあひ頼む人々、おのづから次々 に多うなりなどして、驚き口惜しがるも類にふれてあるべし。 かう深き思ひは、そのおほかたの世のおぼえも、官位も思ほ

えず、ただことなることなかりしみづからのありさまのみこ そ、たへがたく恋しかりけれ。何ばかりの事にてかは思ひさ ますべからむ」
と、空を仰ぎてながめたまふ。  夕暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散りたる梢どもを も、今日ぞ目とどめたまふ。この御畳紙に、   木の下のしづくにぬれてさかさまにかすみの衣- 着たる春かな 大将の君、    亡き人もおもはざりけんうちすてて夕のかすみ君着たれ   とは 弁の君、    うらめしやかすみの衣たれ着よと春よりさきに花の散り   けん 御わざなど、世の常ならずいかめしうなんありける。大将殿 の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経なども、あ

はれに深き心ばへを加へたまふ。 夕霧、一条宮を訪れ、落葉の宮と贈答する かの一条宮にも、常にとぶらひきこえたま ふ。四月ばかりの空は、そこはかとなう心- 地よげに、一つ色なる四方の梢もをかしう 見えわたるを、もの思ふ宿は、よろづの事につけて静かに心 細く暮らしかねたまふに、例の、渡りたまへり。庭もやうや う青み出づる若草見えわたり、ここかしこの砂子薄き物の隠 れの方に、蓬も所えがほなり。前栽に心入れてつくろひたま ひしも、心にまかせて茂りあひ、一叢薄も頼もしげにひろご りて、虫の音添はん秋思ひやらるるより、いとものあはれに 露けくて、分け入りたまふ。伊予簾かけわたして、鈍色の几- 帳の更衣したる透影涼しげに見えて、よき童のこまやかに鈍 ばめる汗衫のつま、頭つきなどほの見えたる、をかしけれど、 なほ目おどろかるる色なりかし。 今日は、簀子にゐたまへば、褥さし出でたり。いと軽らか

なる御座なりとて、例の、御息所おどろかしきこゆれど、こ のごろ悩ましとて寄り臥したまへり。とかく聞こえ紛らはす ほど、御前の木立ども、思ふことなげなるけしきを見たまふ も、いとものあはれなり。柏木と楓との、ものよりけに若や かなる色して枝さしかはしたるを、 「いかなる契りにか、 末あへる頼もしさよ」などのたまひて、忍びやかにさし寄 りて、   「ことならばならしの枝にならさなむ葉守の神のゆる   しありきと 御簾の外の隔てあるほどこそ、恨めしけれ」とて、長押に寄 りゐたまへり。 「なよび姿、はた、いといたうたをやぎける をや」と、これかれつきしろふ。この御あへしらひ聞こゆる 少将の君といふ人して、 「かしは木に葉守の神はまさずとも人ならすべき 宿のこずゑか

うちつけなる御言の葉になん、浅う思ひたまへなりぬる」
と 聞こゆれば、げにと思すにすこしほほ笑みたまひぬ。  御息所ゐざり出でたまふけはひすれば、やをらゐなほりた まひぬ。 「うき世の中を思ひたまへ沈む月日のつもるけ ぢめにや、乱り心地もあやしう、ほれぼれしうて過ぐしはべ るを、かくたびたび重ねさせたまふ御とぶらひのいとかたじ けなきに思ひたまへ起こしてなん」とて、げに悩ましげなる 御けはひなり。 「思ほし嘆くは世のことわりなれど、また、 いとさのみはいかが。よろづのことさるべきにこそはべるめ れ。さすがに限りある世になん」と慰めきこえたまふ。この 宮こそ、聞きしよりは、心の奥見えたまへ、あはれ、げにい かに人笑はれなることをとり添へて思すらん、と思ふもただ ならねば、いたう心とどめて、御ありさまも問ひきこえたま ひけり。 「容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、 いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて見

る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をもまど はすべきぞ。さまあしや。ただ心ばせのみこそ、言ひもてゆ かんには、やむごとなかるべけれ」
と思ほす。 「今は、なほ、昔に思しなずらへて、うとからずもてな させたまへ」など、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろに 気色ばみて聞こえたまふ。直衣姿いとあざやかにて、丈だち ものものしうそぞろかにぞ見えたまひける。 「かの大殿は、 よろづの事なつかしうなまめき、あてに愛敬づきたまへるこ との並びなきなり。これは男々しうはなやかに、あなきよら、 とふと見えたまふにほひぞ、人に似ぬや」とうちささめきて、 「同じうは、かやうにても出で入りたまはましかば」など、 人々言ふめり。 諸人すべて柏木を哀惜し、頌賛する 「右将軍が塚に草初めて青し」と、うち 口ずさびて、それもいと近き世のことなれ ば、さまざまに近う遠う、心乱るやうなり

し世の中に、高きも下れるも、惜しみあたらしがらぬはなき も、むべむべしき方をばさるものにて、あやしう情をたてた る人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人、女- 房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。まし て、上には、御遊びなどのをりごとにも、まづ思し出でてな ん偲ばせたまひける。 「あはれ、衛門督」といふ言ぐさ、何 ごとにつけても言はぬ人なし。六条院には、まして、あはれ、 と思し出づること、月日にそへて多かり。この若君を、御心 ひとつには形見と見なしたまへど、人の思ひよらぬことなれ ば、いとかひなし。秋つ方になれば、この君這ひゐざりなど。
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