源氏物語

夕霧、雲居雁、内大臣、それぞれに苦しむ

Wisteria Leaves

御いそぎのほどにも、宰相中将はながめ がちにて、ほれぼれしき心地するを、かつ はあやしく、 「わが心ながら執念きぞかし。 あながちにかう思ふことならば、関守のうちも寝ぬべき気色 に思ひ弱りたまふなるを聞きながら、同じくは人わろからぬ さまに見はてん」と念ずるも苦しう、思ひ乱れたまふ。女君 も、大臣のかすめたまひしことの筋を、もしさもあらば何の なごりかは、と嘆かしうて、あやしく背き背きに、さすがな る御諸恋なり。大臣も、さこそ心強がりたまひしかど、たけ からぬに思しわづらひて、 「かの宮にもさやうに思ひたちは てたまひなば、またとかくあらため思ひかかづらはむほど、 人のためも苦しう、わが御方ざまにも人笑はれに、おのづか

ら軽々しきことやまじらむ。忍ぶとすれど、内々の事あやま りも、世に漏りにたるべし。とかく紛らはして、なほ負けぬ べきなめり」
と思しなりぬ。 大宮の法事の日、内大臣、夕霧と語る 上はつれなくて、恨み解けぬ御仲なれば、 ゆくりなく言ひ寄らむもいかが、と思し憚 りて、 「ことごとしくもてなさむも人の思 はむところをこなり。いかなるついでしてかはほのめかすべ き」など思すに、三月二十日大殿の大宮の御忌日にて、極楽- 寺に詣でたまへり。君たちみなひきつれ、勢あらまほしく、 上達部などもあまた参り集ひたまへるに、宰相中将、をさを さけはひ劣らず、よそほしくて、容貌など、ただ今のいみじ き盛りにねびゆきて、とり集めめでたき人の御ありさまなり。 この大臣をばつらしと思ひきこえたまひしより、見えたてま つるも心づかひせられて、いといたう用意し、もてしづめて ものしたまふを、大臣も常よりは目とどめたまふ。御誦経な

ど、六条院よりもせさせたまへり。宰相の君は、まして、よ ろづをとりもちて、あはれに営み仕うまつりたまふ。  夕かけて、みな帰りたまふほど、花はみな散り乱れ、霞た どたどしきに、大臣、昔思し出でて、なまめかしううそぶき ながめたまふ。宰相もあはれなる夕のけしきに、いとどうち しめりて、 「雨気あり」と人々の騒ぐに、なほながめ入りて ゐたまへり。心ときめきに見たまふことやありけん、袖をひ き寄せて、 「などか、いとこよなくは勘じたまへる。今- 日の御法の縁をも尋ね思さば、罪ゆるしたまひてよや。残り 少なくなりゆく末の世に、思ひ棄てたまへるも、恨みきこゆ べくなん」とのたまへば、うちかしこまりて、 「過ぎにし 御おもむけも、頼みきこえさすべきさまに、承りおくこと はべりしかど、ゆるしなき御気色に憚りつつなん」と聞こえ たまふ。  心あわたたしき雨風に、みな散りぢりに競ひ帰りたまひぬ。

君、いかに思ひて例ならず気色ばみたまひつらんなど、世と ともに心をかけたる御あたりなれば、はかなき事なれど耳と まりて、とやかうやと思ひ明かしたまふ。 内大臣、藤の宴に事よせて、夕霧を招待する ここらの年ごろの思ひのしるしにや、かの 大臣も、なごりなく思し弱りて、はかなき ついでの、わざとはなく、さすがにつきづ きしからんを思すに、四月の朔日ごろ、御前の藤の花、いと おもしろう咲き乱れて、世の常の色ならず、ただに見過ぐさ むこと惜しき盛りなるに、遊びなどしたまひて、暮れゆくほ どのいとど色まされるに、頭中将して御消息あり。 「一日の 花の蔭の対面の、飽かずおぼえはべりしを、御暇あらば立ち 寄りたまひなんや」とあり。御文には、 わが宿の藤の色こきたそかれに尋ねやはこぬ春の   なごりを げにいとおもしろき枝につけたまへり。待ちつけたまへるも、

心ときめきせられて、かしこまりきこえたまふ。 なかなかに折りやまどはむ藤の花たそかれどきのた   どたどしくは と聞こえて、 「口惜しくこそ臆しにけれ。とり直したまへ よ」と聞こえたまふ。 「御供にこそ」とのたまへば、 「わづらはしき随身はいな」とて帰しつ。  大臣の御前に、かくなんとて御覧ぜさせたまふ。 「思ふ やうありてものしたまへるにやあらむ。さも進みものしたま はばこそは、過ぎにし方の孝なかりし恨みも解けめ」とのた まふ。御心おごり、こよなうねたげなり。 「さしもはべら じ。対の前の藤、常よりもおもしろう咲きてはべるなるを、 静かなるころほひなれば、遊びせんなどにやはべらん」と申 したまふ。 「わざと使さされたりけるを、早うものしたま へ」とゆるしたまふ。いかならむ、と下には苦しう、ただな らず。 「直衣こそあまり濃くて軽びためれ。非参議のほど、

何となき若人こそ、二藍はよけれ、ひきつくろはんや」
とて、 わが御料の心ことなるに、えならぬ御衣ども具して、御供に 持たせて奉れたまふ。 宴深更に及び、夕霧、酔を装い宿を求める わが御方にて、心づかひいみじう化粧じて、 黄昏も過ぎ、心やましきほどに参うでたま へり。主の君達、中将をはじめて、七八人 うちつれて迎へ入れたてまつる。いづれとなくをかしき容- 貌どもなれど、なほ人にすぐれて、あざやかにきよらなる ものから、なつかしうよしづき恥づかしげなり。大臣、御座 ひきつくろはせなどしたまふ御用意おろかならず。御冠な どしたまひて出でたまふとて、北の方、若き女房などに、 「のぞきて見たまへ。いと警策にねびまさる人なり。用- 意などいとしづかにものものしや。あざやかにぬけ出でおよ すけたる方は、父大臣にもまさりざまにこそあめれ。かれは ただいと切になまめかしう愛敬づきて、見るに笑ましく、世

の中忘るる心地ぞしたまふ。公ざまは、すこしたはれて、あ ざれたる方なりし、ことわりぞかし。これは才の際もまさり、 心用ゐ男々しく、すくよかに、足らひたりと世におぼえため り」
などのたまひてぞ対面したまふ。ものまめやかにむべむ べしき御物語はすこしばかりにて、花の興に移りたまひぬ。 「春の花いづれとなく、みな開け出づる色ごとに、目お どろかぬはなきを、心短くうち棄てて散りぬるが、恨めしう おぼゆるころほひ、この花の独りたち後れて、夏に咲きかか るほどなん、あやしう心にくくあはれにおぼえはべる。色も、 はた、なつかしきゆかりにしつべし」とて、うちほほ笑みた まへる、気色ありて、にほひきよげなり。  月はさし出でぬれど、花の色さだかにも見えぬほどなるを、 もてあそぶに心を寄せて、大御酒まゐり、御遊びなどしたま ふ。大臣、ほどなく空酔をしたまひて、乱りがはしく強ひ酔 はしたまふを、さる心していたうすまひ悩めり。 「君は、

末の世にはあまるまで天の下の有職にものしたまふめるを、 齢経りぬる人思ひ棄てたまふなんつらかりける。文籍にも 家礼といふことあるべくや。なにがしの教もよく思し知るら むと思ひたまふるを、いたう心悩ましたまふと、恨みきこゆ べくなん」
などのたまひて、酔泣きにや、をかしきほどに気- 色ばみたまふ。 「いかでか。昔を思うたまへ出づる御かは りどもには、身を棄つるさまにもとこそ思ひたまへ知りはべ るを、いかに御覧じなすことにかはべらん。もとより愚なる 心の怠りにこそ」と、かしこまりきこえたまふ。御時よくさ うどきて、 「藤の裏葉の」とうち誦じたまへる、御気色 を賜はりて、頭中将、花の色濃くことに房長きを折りて、客- 人の御盃に加ふ。収りてもて悩むに、大臣、 紫にかごとはかけむ藤のはなまつよりすぎてうれたけれ   ども  宰相盃を持ちながら、気色ばかり拝したてまつりたまへるさ

ま、いとよしあり。 いくかへり露けき春をすぐしきて花のひもとくをり   にあふらん 頭中将に賜へば、 たをやめの袖にまがへる藤の花見る人からや色もま   さらむ 次々順流るめれど、酔の紛れにはかばかしからで、これより まさらず。  七日の夕月夜、影ほのかなるに、池の鏡のどかに澄みわた れり。げに、まだほのかなる梢どものさうざうしきころなる に、いたうけしきばみ横たはれる松の、木高きほどにはあら ぬに、かかれる花のさま、世の常ならずおもしろし。例の弁少- 将、声いとなつかしくて、葦垣をうたふ。大臣、 「いとけや けうも仕うまつるかな」とうち乱れたまひて、 「年経にける この家の」とうち加へたまへる、御声いとおもしろし。をか

しきほどに乱りがはしき御遊びにて、もの思ひ残らずなりぬ めり。  やうやう夜更けゆくほどに、いたうそら悩みして、 「乱 り心地いとたへがたうて、まかでん空もほとほとしうこそは べりぬべけれ。宿直所ゆづりたまひてんや」と、中将に愁へた まふ。大臣、 「朝臣や、御休み所もとめよ。翁いたう酔ひすす みて無礼なれば、まかり入りぬ」と言ひ捨てて入りたまひぬ。 柏木に導かれ、夕霧、雲居雁と結ばれる 中将、 「花の蔭の旅寝よ。いかにぞや、苦 しき導にぞはべるや」と言へば、 「松に 契れるは、あだなる花かは。ゆゆしや」と 責めたまふ。中将は心の中に、ねたのわざやと思ふところあ れど、人ざまの思ふさまにめでたきに、かうもありはてなむ と心寄せわたることなれば、うしろやすく導きつ。  男君は、夢かとおぼえたまふにも、わが身いとどいつかし うぞおぼえたまひけんかし。女は、いと恥づかしと思ひしみ

てものしたまふも、ねびまされる御ありさま、いとど飽かぬ ところなくめやすし。 「世の例にもなりぬべかりつる身を、 心もてこそかうまでも思しゆるさるめれ。あはれを知りたま はぬも、さまことなるわざかな」と、恨みきこえたまふ。 「少将の進み出だしつる葦垣のおもむきは、耳とどめたま ひつや。いたき主かなな。『河口の』とこそ、さし答へまほ しかりつれ」とのたまへば、女いと聞きぐるしと思して、 「あさき名をいひ流しける河口はいかがもらしし関    のあらがき あさまし」とのたまふさま、いと児めきたり。すこしうち笑 ひて、 「もりにけるくきだの関を河口のあさきにのみはおほ   せざらなん 年月のつもりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず」 と、酔にかこちて苦しげにもてなして、明くるも知らず顔

なり。人々聞こえわづらふを、大臣、 「したり顔なる朝寝か な」ととがめたまふ。されど明かしはてでぞ出でたまふ。ね くたれの御朝顔見るかひありかし。  御文は、なほ忍びたりつるさまの心づかひにてあるを、な かなか今日はえ聞こえたまはぬを、ものいひさがなき御達つ きしろふに、大臣渡りて見たまふぞ、いとわりなきや。 「尽きせざりつる御気色に、いとど思ひ知らるる身のほどを、 たへぬ心にまた消えぬべきも、   とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖の  しづくを」 などいと馴れ顔なり。うち笑みて、 「手をいみじうも書 きなられにけるかな」とのたまふも、昔のなごりなし。御返 りいと出で来がたげなれば、 「見苦しや」とて、さも思し憚 りぬべきことなれば、渡りたまひぬ。御使の禄、なべてなら ぬさまにて賜へり。中将、をかしきさまにもてなしたまふ。

常にひき隠しつつ隠ろへ歩きし御使、今日は面もちなど人々 しくふるまふめり。右近将監なる人の、睦ましう思し使ひた まふなりけり。 源氏、夕霧に訓戒 内大臣婿君をもてなす 六条の大臣も、かくと聞こしめしてけり。 宰相、常よりも光添ひて参りたまへれば、 うちまもりたまひて、 「今朝はいかに。 文などものしつや。さかしき人も、女の筋には乱るる例ある を、人わろくかかづらひ、心いられせで過ぐされたるなん、 すこし人に抜けたりける御心とおぼえける。大臣の御おきて のあまりすくみて、なごりなくくづほれたまひぬるを、世人 も言ひ出づることあらんや。さりとても、わが方たけう思ひ 顔に、心おごりして、すきずきしき心ばへなど漏らしたまふ な。さこそおいらかに大きなる心おきてと見ゆれど、下の心 ばへ男々しからず癖ありて、人見えにくきところつきたまへ る人なり」など、例の教へきこえたまふ。事うちあひ、めや

すき御あはひと思さる。御子とも見えず、すこしが兄ばかり と見えたまふ。別々にては、同じ顔を移しとりたると見ゆる を、御前にては、さまざま、あなめでたと見えたまへり。大- 臣は、薄き御直衣、白き御衣の唐めきたるが、紋けざやかに 艶々と透きたるを奉りて、なほ尽きせずあてになまめかしう おはします。宰相殿は、すこし色深き御直衣に、丁子染の焦 がるるまで染める、白き綾のなつかしきを着たまへる、こと さらめきて艶に見ゆ。  灌仏率てたてまつりて、御導師おそく参りければ、日暮れ て御方々より童べ出だし、布施など、朝廷ざまに変らず、心- 心にしたまへり。御前の作法をうつして、君たちなども参り 集ひて、なかなかうるはしき御前よりも、あやしう心づかひ せられて臆しがちなり。  宰相は、静心なく、いよいよ化粧じ、ひきつくろひて出で たまふを、わざとならねど情だちたまふ若人は、恨めしと思

ふもありけり。年ごろのつもりとり添へて、思ふやうなる御- 仲らひなめれば、水も漏らむやは。主の大臣、いとどしき近 まさりを、うつくしきものに思して、いみじうもてかしづき きこえたまふ。負けぬる方の口惜しさはなほ思せど、罪も残 るまじうぞ、まめやかなる御心ざまなどの、年ごろ異心なく て過ぐしたまへるなどを、あり難く、思しゆるす。女御の御 ありさまなどよりも、華やかにめでたくあらまほしければ、 北の方、さぶらふ人々などは、心よからず思ひ言ふもあれ ど、何の苦しき ことかはあらむ。 按察の北の方な ども、かかる方 にてうれしと思 ひきこえたまひ けり。 紫の上、御阿礼詣での後、祭りを見物する

かくて六条院の御いそぎは、二十余日のほ どなりけり。 対の上、御阿礼に詣でたまふとて、例の 御方々いざなひきこえたまへど、なかなかさしもひきつづ きて、心やましきを思して、誰も誰もとまりたまひて、こと ごとしきほどにもあらず、御車二十ばかりして、御前なども くだくだしき人数多くもあらず、事そぎたるしもけはひこと なり。  祭の日の暁に詣でたまひて、帰さには、物御覧ずべき御桟- 敷におはします。御方々の女房、おのおの車ひきつづきて、 御前、所しめたるほどいかめしう、かれはそれと、遠目より おどろおどろしき御勢なり。大臣は、中宮の御母御息所の 車押しさげられたまへりしをりの事、思し出でて、 「時に よる心おごりして、さやうなる事なん情なきことなりける。 こよなく思ひ消ちたりし人も、嘆き負ふやうにて亡くなりに

き」
と、そのほどはのたまひ消ちて、 「残りとまれる人の、 中将はかくただ人にて、わづかになりのぼるめり。宮は並び なき筋にておはするも、思へばいとこそあはれなれ。すべて いと定めなき世なればこそ、何ごとも思ふままにて、生ける かぎりの世を過ぐさまほしけれど、残りたまはむ末の世など の、たとしへなきおとろへなどをさへ、思ひ憚らるれば」と うち語らひたまひて、上達部なども御桟敷に参り集ひたまへ れば、そなたに出でたまひぬ。 夕霧、祭りの使いの藤典侍をねぎらう 近衛府の使は、頭中将なりけり。かの大殿 にて、出で立つ所よりぞ人々は参りたまう ける。藤典侍も使なりけり。おぼえこと にて、内裏、春宮よりはじめたてまつりて、六条院などより も、御とぶらひどもところせきまで、御心寄せいとめでたし。 宰相中将、出立の所にさへとぶらひたまへり。うちとけずあ はれをかはしたまふ御仲なれば、かくやむごとなき方に定ま

りたまひぬるを、ただならずうち思ひけり。 「なにとかや今日のかざしよかつ見つつおぼめくまで   もなりにけるかな あさまし」とあるを、をり過ぐしたまはぬばかりを、いかが 思ひけん、いともの騒がしく、車に乗るほどなれど、 「かざしてもかつたどらるる草の名はかつらを折り   し人や知るらん 博士ならでは」と聞こえたり。はかなけれど、ねたき答へと 思す。なほこの内侍にぞ、思ひ離れず、はひ紛れたまふべき。 姫君入内の際、明石の君を後見役と定める かくて、御参りは北の方添ひたまふべきを、 「常にながながしうはえ添ひさぶらひたま はじ。かかるついでに、かの御後見をや添 へまし」と思す。上も、 「つひにあるべき事の、かく隔たり て過ぐしたまふを、かの人もものしと思ひ嘆かるらむ。この 御心にも、今はやうやうおぼつかなくあはれに思し知るらん。

方々心おかれたてまつらんもあいなし」
と思ひなりたまひて、 「このをりに添へたてまつりたまへ。まだいとあえかな るほどもうしろめたきに、さぶらふ人とても、若々しきのみ こそ多かれ。御乳母たちなども、見及ぶ事の心いたる限りあ るを、みづからはえつとしもさぶらはざらむほど、うしろや すかるべく」と聞こえたまへば、いとよく思し寄るかなと思 して、 「さなん」とあなたにも語らひのたまひければ、いみ じくうれしく、思ふことかな ひはつる心地して、人の装束 何かのことも、やむごとなき 御ありさまに劣るまじくいそ ぎたつ。尼君なん、なほこの 御生ひ先見たてまつらんの心 深かりける。今一たび見たて まつる世もやと、命をさへ執-

念くなして念じけるを、いかにしてかは、と思ふも悲し。その 夜は、上添ひて参りたまふに、御輦車にも、立ちくだりうち 歩みなど人わるかるべきを、わがためは思ひ憚らず、ただか く磨きたてまつりたまふ玉の瑕にて、わがかくながらふるを、 かつはいみじう心苦しう思ふ。 姫君入内、明石の君参内して姫君に侍する 御参りの儀式、人の目驚くばかりの事はせ じ、と思しつつめど、おのづから世の常の さまにぞあらぬや。限りもなくかしづきす ゑたてまつりたまひて、上はまことにあはれにうつくしと思 ひきこえたまふにつけても、人に譲るまじう、まことにかか る事もあらましかば、と思す。大臣も宰相の君も、ただこの こと一つをなん、飽かぬことかなと思しける。三日過ごして ぞ、上はまかでさせたまふ。  たちかはりて参りたまふ夜、御対面あり。 「かく大人 びたまふけぢめになん、年月のほども知られはべれば、うと

うとしき隔ては残るまじくや」
と、なつかしうのたまひて、 物語などしたまふ。これもうちとけぬるはじめなめり。もの などうち言ひたるけはひなど、むべこそはと、めざましう見 たまふ。またいと気高う盛りなる御けしきを、かたみにめで たしと見て、そこらの御中にもすぐれたる御心ざしにて、並 びなきさまに定まりたまひけるも、いと道理と思ひ知らるる に、かうまで立ち並びきこゆる契りおろかなりやは、と思ふ ものから、出でたまふ儀式のいとことによそほしく、御輦車 などゆるされたまひて、女御の御ありさまに異ならぬを、思 ひくらぶるに、さすがなる身のほどなり。  いとうつくしげに雛のやうなる御ありさまを、夢の心地し て見たてまつるにも、涙のみとどまらぬは、ひとつものとぞ 見えざりける。年ごろよろづに嘆き沈み、さまざまうき身と 思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、ま ことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。思ふさまにかし

づききこえて、心及ばぬこと、はた、をさをさなき人のらう らうじさなれば、おほかたの寄せおぼえよりはじめ、なべて ならぬ御ありさま容貌なるに、宮も、若き御心地に、いと心 ことに思ひきこえたまへり。いどみたまへる御方々の人など は、この母君のかくてさぶらひたまふを、瑕に言ひなしなど すれど、それに消たるべくもあらず。いまめかしう、並びな きことをば、さらにもいはず、心にくくよしある御けはひを、 はかなき事につけても、あらまほしうもてなしきこえたまへ れば、殿上人なども、めづらしきいどみ所にて、とりどりに さぶらふ人々も心をかけたる、女房の用意ありさまさへ、い みじくととのへなしたまへり。  上もさるべきをりふしには参りたまふ。御仲らひあらまほ しううちとけゆくに、さりとてさし過ぎもの馴れず、侮らは しかるべきもてなし、はた、つゆなく、あやしくあらまほし き人のありさま心ばへなり。 諸事終わり源氏、出家の志を立てる

大臣も、長からずのみ思さるる御世のこな たにと思しつる御参り、かひあるさまに見 たてまつりなしたまひて、心からなれど、 世に浮きたるやうにて見苦しかりつる宰相の君も、思ひなく めやすきさまに静まりたまひぬれば、御心落ちゐはてたまひ て、今は本意も遂げなん、と思しなる。対の上の御ありさま の見棄てがたきにも、中宮おはしませば、おろかならぬ御心 寄せなり。この御方にも、世に知られたる親ざまには、まづ 思ひきこえたまふべければ、さりともと思しゆづりけり。夏 の御方の、時々に華やぎたまふまじきも、宰相のものしたま へばと、みなとりどりにうしろめたからず思しなりゆく。 源氏、准太上天皇となり年官・年爵加わる 明けむ年四十になりたまふ。御賀の事を、 朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世 のいそぎなり。  その秋、太上天皇に准ふ御位得たまうて、御封加はり、

年官年爵などみな添ひたまふ。かからでも、世の御心にかな はぬことなけれど、なほめづらしかりける昔の例を改めで、 院司どもなどなり、さまことにいつくしうなり添ひたまへば、 内裏に参りたまふべきこと難かるべきをぞ、かつは思しける。 かくても、なほ飽かず帝は思して、世の中を憚りて位をえ譲 りきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける。 内大臣、太政大臣に、夕霧中納言に昇進 内大臣あがりたまひて、宰相中将、中納言 になりたまひぬ。御よろこびに出でたまふ。 光いとどまさりたまへるさま容貌よりは じめて、飽かぬことなきを、主の大臣も、なかなか人におさ れまし宮仕よりはと思しなほる。  女君の大輔の乳母、 「六位宿世」とつぶやきし宵のこと、 もののをりをりに思し出でければ、菊のいとおもしろくうつ ろひたるを賜はせて、 「あさみどりわか葉の菊をつゆにてもこき紫の色とか

  けきや からかりしをりの一言葉こそ忘られね」
と、いとにほひやか にほほ笑みて賜へり。恥づかしういとほしきものから、うつ くしう見たてまつる。 「二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もな   かりき いかに心おかせたまへりけるにか」と、いと馴れて苦しがる。 夕霧夫妻三条殿に移る 父大臣これを訪う 御勢まさりて、かかる御住まひもところ せければ、三条殿に渡りたまひぬ。すこし 荒れにたるを、いとめでたく修理しなして、 宮のおはしましし方を、改めしつらひて住みたまふ。昔おぼ えて、あはれに思ふさまなる御住まひなり。前栽どもなど小 さき木どもなりしも、いと繁き蔭となり、一叢薄も心にまか せて乱れたりける、つくろはせたまふ。遣水の水草も掻きあ らためて、いと心ゆきたるけしきなり。

 をかしき夕暮のほどを、二ところながめたまひて、あさま しかりし世の、御幼さの物語などしたまふに、恋しきことも 多く、人の思ひけむことも恥づかしう、女君は思し出づ。古- 人どもの、まかで散らず、曹司曹司にさぶらひけるなど、参 うのぼり集まりて、いとうれしと思ひあへり。男君、 なれこそは岩もるあるじ見し人のゆくへは知るや宿   の真清水 女君、 なき人のかげだに見えずつれなくて心をやれるい   さらゐの水 などのたまふほどに、大臣、内裏よりまかでたまひけるを、 紅葉の色におどろかされて渡りたまへり。  昔おはさいし御ありさまにも、をさをさ変ることなく、あ たりあたりおとなしく住まひたまへるさま、華やかなるを見 たまふにつけても、いとものあはれに思さる。中納言も、気-

色ことに顔すこし赤みて、いとど静まりてものしたまふ。あ らまほしくうつくしげなる御あはひなれど、女は、またかか る容貌のたぐひもなどかなからんと見えたまへり。男は、際 もなくきよらにおはす。古人ども御前に所えて、神さびたる 事ども聞こえ出づ。ありつる御手習どもの、散りたるを御覧 じつけて、うちしほたれたまふ。 「この水の心尋ねま ほしけれど、翁は言忌して」とのたまふ。 そのかみの老木はむべも朽ちぬらむ植ゑし小松も   苔生ひにけり 男君の御宰相の乳母、つらかりし御心も忘れねば、したり 顔に、 いづれをも蔭とぞたのむ二葉より根ざしかはせる松のす   ゑずゑ 老人どもも、かやうの筋に聞こえあつめたるを、中納言はを かしと思す。女君はあいなく面赤み、苦しと聞きゐたまふ。 当帝、朱雀院ともに、六条院に行幸

神無月の二十日あまりのほどに、六条院に 行幸あり。紅葉のさかりにて、興あるべき たびの行幸なるに、朱雀院にも御消息あり て、院さへ渡りおはしますべければ、世にめづらしくあり難 きことにて、世人も心をおどろかす。主の院方も、御心を尽 くし、目もあやなる御心まうけをせさせたまふ。  巳の刻に行幸ありて、まづ馬場殿に、左右の寮の御馬牽き 並べて、左右の近衛立ち添ひたる作法、五月の節にあやめわ かれず通ひたり。未下るほどに、南の寝殿に移りおはします。 道のほどの反橋、渡殿には錦を敷き、あらはなるべき所には 軟障をひき、いつくしうしなさせたまへり。東の池に舟ども 浮けて、御廚子所の鵜飼の長、院の鵜飼を召し並べて、鵜を おろさせたまへり。小さき鮒ども食ひたり。わざとの御覧と はなけれど、過ぎさせたまふ道の興ばかりになん。山の紅葉 いづ方も劣らねど、西の御前は心ことなるを、中の廊の壁を

くづし、中門を開きて、霧の隔てなくて御覧ぜさせたまふ。 御座二つよそひて、主の御座は下れるを、宣旨ありて直させ たまふほど、めでたく見えたれど、帝はなほ限りあるゐやゐ やしさを尽くして見せたてまつりたまはぬことをなん思し ける。  池の魚を、左少将とり、蔵人所の鷹飼の、北野に狩仕まつ れる鳥一番を、右の少将捧げて、寝殿の東より御前に出でて、 御階の左右に膝をつきて奏す。太政大臣仰せ言賜ひて、調じ て御膳にまゐる。親- 王たち、上達部など の御設けも、めづら しきさまに、常のこ とどもを変へて仕う まつらせたまへり。 みな御酔になりて、

暮れかかるほどに楽所の人召す。わざとの大楽にはあらず、 なまめかしきほどに、殿上の童べ舞仕うまつる。朱雀院の紅- 葉の賀、例の古事思し出でらる。賀皇恩といふものを奏する ほどに、太政大臣の御弟子の十ばかりなる、切におもしろう 舞ふ。内裏の帝、御衣脱ぎて賜ふ。太政大臣降りて舞踏した まふ。主の院、菊を折らせたまひて、青海波のをりを思し出 づ。 色まさるまがきの菊もをりをりに袖うちかけし秋を   恋ふらし 大臣、そのをりは同じ舞に立ち並びきこえたまひしを、我も 人にはすぐれたまへる身ながら、なほこの際はこよなかりけ るほど思し知らる。時雨、をり知り顔なり。 「むらさきの雲にまがへる菊の花にごりなき世の   星かとぞ見る 時こそありけれ」と聞こえたまふ。 日暮れ、宴酣にして帝・上皇、感慨多し

夕風の吹き敷く紅葉のいろいろ濃き薄き、 錦を敷きたる渡殿の上見えまがふ庭の面に、 容貌をかしき童べの、やむごとなき家の子 どもなどにて、青き赤き白橡、蘇芳、葡萄染など、常のごと、 例の角髪に、額ばかりのけしきを見せて、短きものどもをほ のかに舞ひつつ、紅葉の蔭にかへり入るほど、日の暮るるも いと惜しげなり。楽所などおどろおどろしくはせず。上の御- 遊びはじまりて、書司の御琴ども召す。物の興切なるほどに、 御前にみな御琴どもまゐれり。宇陀の法師の変らぬ声も、朱- 雀院は、いとめづらしくあはれに聞こしめす。 秋をへて時雨ふりぬる里人もかかるもみぢのをりをこ   そ見ね 恨めしげにぞ思したるや。帝、 世のつねの紅葉とや見るいにしへのためしにひける庭   の錦を

と聞こえ知らせたまふ。御容貌いよいよねびととのほりたま ひて、ただ一つものと見えさせたまふを、中納言さぶらひた まふが、ことごとならぬこそめざましかめれ。あてにめでた きけはひや、思ひなしに劣りまさらん、あざやかににほはし きところは、添ひてさへ見ゆ。笛仕うまつりたまふ、いとお もしろし。唱歌の殿上人、御階にさぶらふ中に、弁少将の声 すぐれたり。なほさるべきにこそと見えたる御仲らひなめり。
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