源氏物語

春の町の船楽 人々玉鬘に心を寄せる

Batterflies

三月の二十日あまりのころほひ、春の御前 のありさま、常よりことに尽くしてにほふ 花の色、鳥の声、他の里には、まだ古りぬに や、とめづらしう見え聞こゆ。山の木立、中島のわたり、色 まさる苔のけしきなど、若き人々のはつかに心もとなく思ふ べかめるに、唐めいたる舟造らせたまひける、急ぎさうぞか せたまひて、おろし始めさせたまふ日は、雅楽寮の人召して、 船の楽せらる。親王たち上達部などあまた参りたまへり。  中宮、このころ里におはします。かの 「春まつ苑は」とは げましきこえたまへりし御返りもこのころやと思し、大臣の 君も、いかでこの花のをり御覧ぜさせむ、と思しのたまへど、 ついでなくて軽らかにはひ渡り花をももて遊びたまふべき

ならねば、若き女房たちの、 ものめでしぬべきを舟にのせ たまうて、南の池の、こなた にとほし通はしなさせたまへ るを、小さき山を隔ての関に 見せたれど、その山の崎より漕ぎまひて、東の釣殿に、こな たの若き人々集めさせたまふ。  龍頭鷁首を、唐の装ひにことごとしうしつらひて、楫とり の棹さす童べ、みな角髪結ひて、唐土だたせて、さる大きな る池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむ心- 地して、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ。 中島の入江の岩蔭にさし寄せて見れば、はかなき石のたたず まひも、ただ絵に描いたらむやうなり。こなたかなた霞みあ ひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の方ははるばると 見やられて、色を増したる柳枝を垂れたる、花もえもいはぬ

匂ひを散らしたり。他所には盛り過ぎたる桜も、今盛りにほ ほ笑み、廊を繞れる藤の色も、こまやかにひらけゆきにけり。 まして池の水に影をうつしたる山吹、岸よりこぼれていみじ き盛りなり。水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝 どもをくひて飛びちがふ、鴛鴦の波の綾に文をまじへたるな ど、物の絵様にも描き取らまほしき、まことに斧の柄も朽い つべう思ひつつ、日を暮らす。 風吹けば波の花さへいろ見えてこや名にたてる山ぶ   きの崎 春の池や井手のかはせにかよふらん岸の山吹そこもに   ほへり 亀の上の山もたづねじ舟のうちに老いせぬ名をばここ   に残さむ 春の日のうららにさして行く舟は棹のしづくも花ぞち   りける

などやうの、はかな事どもを、心々に言ひかはしつつ、行く 方も、帰らむ里も忘れぬべう、若き人々の心をうつすに、こ とわりなる水の面になむ。  暮れかかるほどに、皇瘴*といふ楽いとおもしろく聞こゆる に、心にもあらず、釣殿にさし寄せられておりぬ。ここのし つらひ、いと事そぎたるさまに、なまめかしきに、御方々の 若き人どもの、我劣らじ、と尽くしたる装束容貌、花をこき まぜたる錦に劣らず見えわたる。世に目馴れずめづらかなる 楽ども仕うまつる。舞人など、心ことに選ばせたまひて、人 の御心ゆくべき手の限りを尽くさせたまふ。  夜に入りぬれば、いと飽かぬ心地して、御前の庭に篝火と もして、御階のもとの苔の上に、楽人召して、上達部親王た ちも、みなおのおの弾物吹物とりどりにしたまふ。物の師ど も、ことにすぐれたるかぎり、双調吹きて、上に待ちとる御- 琴どもの調べ、いと華やかに掻きたてて、安名尊遊びたまふ

ほど、生けるかひありと、何のあやめも知らぬ賤の男も、御- 門のわたり隙なき馬車の立処にまじりて、笑みさかえ聞きけ り。空の色物の音も、春の調べ、響きはいとことにまさりけ るけぢめを、人々思しわくらむかし。夜もすがら遊び明かし たまふ。返り声に喜春楽立ちそひて、兵部卿宮、青柳折り 返しおもしろくうたひたまふ。主の大臣も言加へたまふ。  夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥の囀を、中宮は、物隔ててねた う聞こしめしけり。いつも春の光を籠めたまへる大殿なれど、 心をつくるよすがのまたなきを、飽かぬことに思す人々もあ りけるに、西の対の姫君、事もなき御ありさま、大臣の君も、 わざと思しあがめきこえたまふ御気色など、みな世に聞こえ 出でて、思ししもしるく、心なびかしたまふ人多かるべし。 わが身さばかりと思ひあがりたまふ際の人こそ、たよりにつ けつつ気色ばみ、言出で聞こえたまふもありけれ、えしもう ち出でぬ中の思ひに燃えぬべき、若君達などもあるべし。そ

の中に、事の心を知らで、内の大殿の中将などはすきぬべか めり。  兵部卿宮、はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、 この三年ばかり独り住みにてわびたまへば、うけばりて今は 気色ばみたまふ。今朝もいといたうそら乱れして、藤の花を かざして、なよびさうどきたまへる御さま、いとをかし。大- 臣も、思ししさまかなふ、と下には思せど、せめて知らず顔 をつくりたまふ。御土器のついでに、いみじうもて悩みたま うて、 「思ふ心はべらずは、まかり逃げはべりなまし。い とたへがたしや」とすまひたまふ。 むらさきのゆゑに心をしめたればふちに身なげん名   やはをしけき とて、大臣の君に、同じかざしをまゐりたまふ。いといたうほ ほ笑みたまひて、 ふちに身を投げつべしやとこの春は花のあたりを立

  ちさらで見よ
と切にとどめたまへば、え立ちあかれたまはで、今朝の御遊 びましていとおもしろし。 中宮の季の御読経 紫の上春秋競べに勝つ 今日は、中宮の御読経のはじめなりけり。 やがてまかでたまはで、休み所とりつつ、 日の御装ひにかへたまふ人々も多かり。障 りあるはまかでなどもしたまふ。午の刻ばかりに、みなあな たに参りたまふ。大臣の君をはじめたてまつりて、みな着き わたりたまふ。殿上人なども残るなく参る。多くは大臣の御- 勢にもてなされたまひて、やむごとなくいつくしき御あり さまなり。  春の上の御心ざしに、仏に花奉らせたまふ。鳥蝶にさうぞ き分けたる童べ八人、容貌などことにととのへさせたまひ て、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、黄金の瓶に山吹を、 同じき花の房いかめしう、世になきにほひを尽くさせたまへ

り。南の御前の山際より漕 ぎ出でて、御前に出づるほ ど、風吹きて、瓶の桜すこ しうち散り紛ふ。いとうら らかに晴れて、霞の間より 立ち出でたるは、いとあは れになまめきて見ゆ。わざと平張なども移されず、御前に渡 れる廊を、楽屋のさまにして、仮に胡床どもを召したり。  童べども御階のもとに寄りて、花ども奉る。行香の人々取 りつぎて、閼伽に加へさせたまふ。御消息、殿の中将の君し て聞こえたまへり。 花ぞののこてふをさへや下草に秋まつむしはうと   く見るらむ 宮、かの紅葉の御返りなりけり、とほほ笑みて御覧ず。昨日 の女房たちも、 「げに春の色はえおとさせたまふまじかりけ

り」
と花におれつつ聞こえあへり。鶯のうららかなる音に、 鳥の楽華やかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなく 囀りわたるに、急になりはつるほど、飽かずおもしろし。蝶 はまして、はかなきさまに飛びたちて、山吹の籬のもとに、 咲きこぼれたる花の蔭に舞ひいづる。  宮の亮をはじめて、さるべき上人ども、禄とりつづきて、 童べに賜ぶ。鳥には桜の細長、蝶には山吹襲賜はる。かねて しもとりあへたるやうなり。物の師どもは、白き一襲、腰差 など、次々に賜ふ。中将の君には、藤の細長添へて、女の装- 束かづけたまふ。御返り、 「昨日は音に泣きぬべくこそは。   こてふにもさそはれなまし心ありて八重山吹をへだてざ   りせば」 とぞありける。すぐれたる御労どもに、かやうのことはたへ ぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。  まことや、かの見物の女房たち、宮のには、みな気色ある

贈物どもせさせたまうけり。さやうのこと委しければむつか し。明け暮れにつけても、かやうのはかなき御遊びしげく、 心をやりて過ぐしたまへば、さぶらふ人もおのづから、も の思ひなき心地してなむ、こなたかなたにも聞こえかはした まふ。 玉鬘の風姿と源氏の胸中 柏木夕霧の態度 西の対の御方は、かの踏歌のをりの御対面 の後は、こなたにも聞こえかはしたまふ。 深き御心もちゐや、浅くもいかにもあらむ、 気色いと労あり、なつかしき心ばへと見えて、人の心隔つべ くもものしたまはぬ人ざまなれば、いづ方にもみな心寄せき こえたまへり。聞こえたまふ人、いとあまたものしたまふ。 されど、大臣、おぼろけに思し定むべくもあらず、わが御心 にも、すくよかに親がりはつまじき御心や添ふらむ、父大臣 にも知らせやしてましなど、思し寄るをりをりもあり。殿の 中将は、すこしけ近く、御簾のもとなどにも寄りて、御答へ

みづからなどするも、女はつつましう思せど、さるべきほど と人々も知りきこえたれば、中将はすくすくしくて思ひもよ らず。  内の大殿の君たちは、この君に引かれて、よろづに気色ば み、わび歩くを、その方のあはれにはあらで、下に心苦しう、 実の親にさも知られたてまつりにしがなと、人知れぬ心にか けたまへれど、さやうにも漏らしきこえたまはず、ひとへに、 うちとけ頼みきこえたまふ心むけなど、らうたげに若やかな り。似るとはなけれど、なほ母君のけはひに、いとよくおぼ えて、これは才めいたるところぞ添ひたる。 源氏、人々の懸想文を見て玉鬘に語る 更衣の今めかしう改まれるころほひ、空の けしきなどさへあやしうそこはかとなくを かしきを、のどやかにおはしませば、よろ づの御遊びにて過ぐしたまふに、対の御方に、人々の御文し げくなりゆくを、思ひしことと、をかしう思いて、ともすれ

ば渡りたまひつつ御覧じ、さるべきには御返りそそのかしき こえたまひなどするを、うちとけず苦しいことに思いたり。  兵部卿宮の、ほどなく焦られがましきわび言どもを書き集 めたまへる御文を御覧じつけて、こまやかに笑ひたまふ。 「はやうより隔つることなう、あまたの親王たちの御中に、 この君をなん、かたみにとり分きて思ひしに、ただかやうの 筋のことなむ、いみじう隔て思うたまひてやみにしを、世の 末に、かく、すきたまへる心ばへを見るが、をかしうもあは れにもおぼゆるかな。なほ御返りなど聞こえたまへ。すこし も故あらむ女の、かの親王より外に、また言の葉をかはすべ き人こそ世におぼえね。いと気色ある人の御さまぞや」と、 若き人はめでたまひぬべく聞こえ知らせたまへど、つつまし くのみ思いたり。  右大将の、いとまめやかにことごとしきさましたる人の、 恋の山には孔子の倒れまねびつべき気色に愁へたるも、さる

方にをかしと、みな見くらべたまふ中に、唐の縹の紙の、い となつかしうしみ深う匂へるを、いと細く小さく結びたるあ り。 「これはいかなれば、かく結ぼほれたるにか」とて、 ひきあけたまへり。手いとをかしうて、 思ふとも君は知らじなわきかへり岩漏る水に色し見   えねば 書きざま今めかしうそぼれたり。 「これはいかなるぞ」と 問ひきこえたまへど、はかばかしうも聞こえたまはず。  右近召し出でて、 「かやうに訪れきこえん人をば、人選 りして答へなどはせさせよ。すきずきしうあざれがましき今 やうの人の、便ないことし出でなどする、男の咎にしもあら ぬことなり。我にて思ひしにも、あな情な、恨めしうもと、 そのをりにこそ無心なるにや、もしはめざましかるべき際は、 けやけうなどもおぼえけれ、わざと深からで、花蝶につけた るたより言は、心妬うもてないたる、なかなか心だつやうに

もあり。またさて忘れぬるは、何の咎かはあらむ。もののた よりばかりのなほざり言に、口疾う心得たるも、さらであり ぬべかりける、後の難とありぬべきわざなり。すべて女のも のづつみせず、心のままに、もののあはれも知り顔つくり、 をかしき事をも見知らんなん、そのつもりあぢきなかるべき を、宮、大将は、おほなおほななほざりごとをうち出でたま ふべきにもあらず、またあまりもののほど知らぬやうならん も、御ありさまに違へり。その際より下は、心ざしのおもむ きに従ひて、あはれをも分きたまへ。労をも数へたまへ」
な ど聞こえたまへば、君はうち背きておはする、側目いとをか しげなり。撫子の細長に、このごろの花の色なる御小袿、あ はひけ近う今めきて、もてなしなども、さはいへど、田舎び たまへりしなごりこそ、ただありにおほどかなる方にのみは 見えたまひけれ、人のありさまをも見知りたまふままに、い とさまよう、なよびかに、化粧なども心してもてつけたまへ

れば、いとど飽かぬところなく、華やかにうつくしげなり。 他人と見なさむは、いと口惜しかべう思さる。右近もうち笑 みつつ見たてまつりて、 「親と聞こえんには、似げなう若く おはしますめり。さし並びたまへらんはしも、あはひめでた しかし」と思ひゐたり。 「さらに人の御消息などは聞こえ 伝ふることはべらず。さきざきも知ろしめし御覧じたる三つ 四つは、ひき返しはしたなめきこえむもいかがとて、御文ば かり取り入れなどしはべるめれど、御返りはさらに。聞こえ させたまふをりばかりなむ。それをだに、苦しいことに思い たる」と聞こゆ。 「さてこの若やかに結ぼほれたるは誰が ぞ。いといたう書いたる気色かな」と、ほほ笑みて御覧ずれ ば、 「かれは、執念うとどめてまかりにけるにこそ。内の 大殿の中将の、このさぶらふみるこをぞ、もとより見知りた まへりける伝へにてはべりける。また見入るる人もはべら ざりしにこそ」と聞こゆれば、 「いとらうたきことかな。

下臈なりとも、かの主たちをば、いかがいとさははしたなめ む。公卿といへど、この人のおぼえに、かならずしも並ぶま じきこそ多かれ。さる中にもいと静まりたる人なり。おのづ から思ひあはする世もこそあれ。掲焉にはあらでこそ言ひ紛 らはさめ。見どころある文書きかな」
など、とみにもうち置 きたまはず。   「かう何やかやと聞こゆるをも、思すところやあらむと ややましきを、かの大臣に知られたてまつりたまはむことも、 まだ若々しう何となきほどに、ここら年経たまへる御仲にさ し出でたまはむことはいかが、と思ひめぐらしはべる。なほ 世の人のあめる方に定まりてこそは、人々しう、さるべきつ いでもものしたまはめと思ふを。宮は、独りものしたまふや うなれど、人柄いといたうあだめいて、通ひたまふ所あまた 聞こえ、召人とか、憎げなる名のりする人どもなむ、数あま た聞こゆる。さやうならむことは、憎げなうて見直いたまは

む人は、いとようなだらかにもて消ちてむ。すこし心に癖あ りては、人に飽かれぬべき事なむ、おのづから出で来ぬべき を、その御心づかひなむあべき。大将は、年経たる人の、い たうねびすぎたるを厭ひがてに、と求むなれど、それも人々 わづらはしがるなり。さもあべいことなれば、さまざまにな む人知れず思ひ定めかねはべる。かうざまのことは、親など にも、さはやかに、わが思ふさまとて、語り出でがたきこと なれど、さばかりの御齢にもあらず、今はなどか何ごとをも、 御心に分いたまはざらむ。まろを、昔ざまになずらへて、母- 君と思ひないたまへ。御心に飽かざらむことは心苦しく」
な ど、いとまめやかにて聞こえたまへば、苦しうて御答へ聞こ えむともおぼえたまはず。いと若々しきもうたておぼえて、 「何ごとも思ひ知りはべらざりけるほどより、親などは見 ぬものにならひはべりて、ともかくも思うたまへられずな む」と、聞こえたまふさまのいとおいらかなれば、げにと思

いて、 「さらば世の譬の、後の親をそれと思いて、おろか ならぬ心ざしのほども、見あらはしはてたまひてむや」など、 うち語らひたまふ。思すさまのことはまばゆければ、えうち 出でたまはず。気色ある言葉は時々まぜたまへど、見知らぬ さまなれば、すずろにうち嘆かれて渡りたまふ。  御前近き呉竹の、いと若やかに生ひたちて、うちなびくさ まのなつかしきに、立ちとまりたまうて、   「ませのうちに根深くうゑし竹の子のおのが世々にや    生ひわかるべき 思へば恨めしかべいことぞかし」と、御簾をひき上げて聞こ えたまへば、ゐざり出でて、   「今さらにいかならむ世かわか竹のおひはじめけむ根    をばたづねん なかなかにこそはべらめ」と聞こえたまふを、いとあはれと 思しけり。さるは心の中にはさも思はずかし。いかならむを

り聞こえ出でむとすらむと、心もとなくあはれなれど、この 大臣の御心ばへのいとあり難きを、親と聞こゆとも、もとよ り見馴れたまはぬは、えかうしもこまやかならずやと、昔物- 語を見たまふにも、やうやう人のありさま、世の中のあるや うを見知りたまへば、いとつつましう、心と知られたてまつ らむことは難かるべう思す。 紫の上、玉鬘に対する源氏の内心を察する 殿は、いとどらうたしと思ひきこえたまふ。 上にも語り申したまふ。 「あやしうなつ かしき人のありさまにもあるかな。かのい にしへのは、あまりはるけどころなくぞありし。この君は、 もののありさまも見知りぬべく、け近き心ざま添ひて、うし ろめたからずこそ見ゆれ」などほめたまふ。ただにしも思す まじき御心ざまを見知りたまへれば、思し寄りて、 「も のの心えつべくはものしたまふめるを、うらなくしもうちと け頼みきこえたまふらんこそ心苦しけれ」とのたまへば、

「など頼もしげなくやはあるべき」と聞こえたまへば、 「いでや。我にても、また忍びがたう、もの思はしきを りをりありし御心ざまの、思ひ出でらるる節ぶしなくやは」 とほほ笑みて聞こえたまへば、あな心疾、と思いて、 「う たても思し寄るかな。いと見知らずしもあらじ」とて、わづ らはしければ、のたまひさして、心の中に、人のかう推しは かりたまふにも、いかがはあべからむ、と思し乱れ、かつは ひがひがしうけしからぬわが心のほども、思ひ知られたまう けり。 源氏、玉鬘に慕情を告白 玉鬘苦悩する 心にかかれるままに、しばしば渡りたまひ つつ見たてまつりたまふ。雨のうち降りた るなごりの、いとものしめやかなる夕つ方、 御前の若楓柏木などの、青やかに茂りあひたるが、何とな く心地よげなる空を見出だしたまひて、 「和して且清し」 とうち誦じたまうて、まづこの姫君の御さまのにほひやかげ

さを思し出でられて、例の忍びやかに渡りたまへり。手習な どして、うちとけたまへりけるを、起き上りたまひて、恥ぢ らひたまへる顔の色あひいとをかし。なごやかなるけはひの、 ふと昔思し出でらるるにも、忍びがたくて、 「見そめたて まつりしは、いとかうしもおぼえたまはずと思ひしを、あや しう、ただそれかと思ひまがへらるるをりをりこそあれ。あ はれなるわざなりけり。中将の、さらに、昔ざまのにほひに も見えぬならひに、さしも似ぬものと思ふに、かかる人もも のしたまうけるよ」とて、涙ぐみたまへり。箱の蓋なる御く だものの中に、橘のあるをまさぐりて、 「橘のかをりし袖によそふればかはれる身ともおもほ   えぬかな 世とともの心にかけて忘れがたきに、慰むことなくて過ぎつ る年ごろを、かくて見たてまつるは、夢にやとのみ思ひなす を、なほえこそ忍ぶまじけれ。思しうとむなよ」とて、御手

をとらへたまへれば、女かやうにもならひたまはざりつるを、 いとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにてものしたまふ。 袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりも   こそすれ  むつかしと思ひてうつぶしたまへるさま、いみじうなつか しう、手つきのつぶつぶと肥えたまへる、身なり肌つきのこ まやかにうつくしげなるに、なかなかなるもの思ひ添ふ心地 したまて、今日はすこし思ふこと聞こえ知らせたまひける。 女は心憂く、いかにせむとおぼえて、わななかるる気色もし るけれど、 「何か、かくうとましとは思いたる。いとよく もて隠して、人に咎めらるべくもあらぬ心のほどぞよ。さり げなくてをもて隠したまへ。浅くも思ひきこえさせぬ心ざし に、また添ふべければ、世にたぐひあるまじき心地なんする を。このおとづれきこゆる人々には、思しおとすべくやはあ る。いとかう深き心ある人は世にあり難かるべきわざなれば、

うしろめたくのみこそ」
とのたまふ。いとさかしらなる御親 心なりかし。  雨はやみて、風の竹に鳴るほど、はなやかにさし出でたる 月影、をかしき夜のさまもしめやかなるに、人々は、こまや かなる御物語にかしこまりおきて、け近くもさぶらはず。 常に見たてまつりたまふ御仲なれど、かくよきをりしもあり 難ければ、言に出でたまへるついでの御ひたぶる心にや、な つかしいほどなる御衣どものけはひは、いとよう紛らはしす べしたまひて、近やかに臥したまへば、いと心憂く、人の思 はむこともめづらかに、いみじうおぼゆ。実の親の御あたり ならましかば、おろかには見放ちたまふとも、かくざまのう きことはあらましや、と悲しきに、つつむとすれどこぼれ出 でつつ、いと心苦しき御気色なれば、 「かう思すこそつら けれ。もて離れ知らぬ人だに、世のことわりにて、みなゆる すわざなめるを、かく年経ぬる睦ましさに、かばかり見えた

てまつるや、何のうとましかるべきぞ。これよりあながちな る心は、よも見せたてまつらじ。おぼろけに忍ぶるにあまる ほどを、慰むるぞや」
とて、あはれげになつかしう聞こえた まふこと多かり。まして、かやうなるけはひは、ただ昔の心- 地して、いみじうあはれなり。わが御心ながらも、ゆくりか にあはつけきことと思し知らるれば、いとよく思し返しつつ、 人もあやしと思ふべければ、いたう夜もふかさで出でたまひ ぬ。 「思ひうとみたまはば、いと心憂くこそあるべけれ。 よその人は、かうほれぼれしうはあらぬものぞよ。限りなく 底ひ知らぬ心ざしなれば、人の咎むべきさまにはよもあらじ。 ただ昔恋しき慰めに、はかなきことをも聞こえん。同じ心に 答へなどしたまへ」と、いとこまかに聞こえたまへど、我に もあらぬさまして、いといとうしと思いたれば、 「いとさ ばかりには見たてまつらぬ御心ばへを。いとこよなくも憎み たまふべかめるかな」と、嘆きたまひて、 「ゆめ気色なく

てを」
とて出でたまひぬ。  女君も、御年こそ過ぐしたまひにたるほどなれ、世の中を 知りたまはぬ中にも、すこしうち世馴れたる人のありさまを だに見知りたまはねば、これよりけ近きさまにも思し寄らず、 思ひのほかにもありける世かな、と嘆かしきに、いと気色も あしければ、人々、御心地悩ましげに見えたまふ、ともてな やみきこゆ。 「殿の御気色のこまやかに、かたじけな くもおはしますかな。実の御親と聞こゆとも、さらにかばか り思し寄らぬことなくは、もてなしきこえたまはじ」など、 兵部なども忍びて聞こゆるにつけて、いとど思はずに、心づ きなき御心のありさまを、うとましう思ひはてたまふにも、 身ぞ心憂かりける。  またの朝、御文とくあり。悩ましがりて臥したまへれど、 人々御硯などまゐりて、 「御返り疾く」と聞こゆれば、しぶし ぶに見たまふ。白き紙の、うはべはおいらかに、すくすくし

きに、いとめでたう書いたまへり。 「たぐひなかりし御気- 色こそ、つらきしも忘れがたう。いかに人見たてまつりけむ。   うちとけてねもみぬものを若草のことあり顔にむすぼほ   るらむ 幼くこそものしたまひけれ」と、さすがに親がりたる御言葉 も、いと憎しと見たまひて、御返り事聞こえざらむも、人目 あやしければ、ふくよかなる陸奥国紙に、ただ、 「承りぬ。 乱り心地のあしうはべれば、聞こえさせぬ」とのみあるに、 かやうの気色はさすがにすくよかなり、とほほ笑みて、恨み どころある心地したまふも、うたてある心かな。 玉鬘、源氏の求愛に困惑 他の求婚者たち 色に出でたまひて後は、「太田の松の」と 思はせたることなく、むつかしう聞こえた まふこと多かれば、いとどところせき心地 して、置き所なきもの思ひつきて、いと悩ましうさへした まふ。

 かくて、事の心知る人は少なうて、うときも親しきも、無- 下の親ざまに思ひきこえたるを、「 かうやうの気色の漏り出 でば、いみじう人笑はれに、うき名にもあるべきかな。父大- 臣などの尋ね知りたまふにても、まめまめしき御心ばへにも あらざらむものから、ましていとあはつけう、待ち聞き思さ んこと」と、よろづに安げなう思し乱る。  宮、大将などは、殿の御気色、もて離れぬさまに伝へ聞き たまうて、いとねむごろに聞こえたまふ。この岩漏る中将も、 大臣の御ゆるしを見てこそかたよりにほの聞きて、まことの 筋をば知らず、ただひとへにうれしくて、下り立ち恨みきこ えまどひ歩くめり。
目次         前章         次章