源氏物語

源氏、故式部卿宮邸に女五の宮を訪問する

The Morning Glory

斎院は、御服にておりゐたまひにきかし。 大臣、例の思しそめつること絶えぬ御癖に て、御とぶらひなどいとしげう聞こえたま ふ。宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけ て聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。  長月になりて、桃園の宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五 の宮のそこにおはすれば、そなたの御とぶらひにことづけて 参うでたまふ。故院の、この御子たちをば、心ことにやむご となく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ かはしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。 ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやか なり。

 宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。いと古めきた る御けはひ、咳がちにおはす。このかみにおはすれど、故大- 殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて 離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さる 方なり。 「院の上崩れたまひて後、よろづ心細くおぼえはべ りつるに、年のつもるままに、いと涙がちにて過ぐしはべる を、この宮さへかくうち棄てたまへれば、いよいよあるかな きかにとまりはべるを、かく立ち寄り訪はせたまふになむ、 もの忘れしぬべくはべる」と聞こえたまふ。かしこくも古り たまへるかなと思へど、うちかしこまりて、 「院崩れたま ひて後は、さまざまにつけて、同じ世のやうにもはべらず。 おぼえぬ罪に当りはべりて、知らぬ世にまどひはべりしを、 たまたま朝廷に数まへられたてまつりては、またとり乱り暇 なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞

こえ承らぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ」
など 聞こえたまふを、 「いともいともあさましく、いづ方 につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへすぐす、命- 長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて世にたち返りたま へる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさして ましかば、口惜しからまし、とおぼえはべり」と、うちわな なきたまひて、 「いときよらにねびまさりたまひにけ るかな。童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世 にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを。時々 見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。『内裏 の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへる』と、人々聞こ ゆるを、さりとも劣 りたまへらむとこそ、 推しはかりはべれ」 と、ながながと聞こ

えたまへば、ことにかくさし向ひて人のほめぬわざかなと、 をかしく思す。 「山がつになりて、いたう思ひくづほれは べりし年ごろの後、こよなく衰へにてはべるものを。内裏の 御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがた く見たてまつりはべれ。あやしき御推しはかりになむ」と聞 こえたまふ。 「時々見たてまつらば、いとどしき命や 延びはべらむ。今日は老も忘れ、うき世の嘆きみなさりぬる 心地なむ」とても、また泣いたまふ。 「三の宮うらや ましく、さるべき御ゆかりそひて、親しく見たてまつりたま ふを、うらやみはべる。この亡せたまひぬるも、さやうにこ そ悔いたまふをりをりありしか」とのたまふにぞ、すこし耳 とまりたまふ。 「さもさぶらひ馴れなましかば、今に思ふ さまにはべらまし。みなさし放たせたまひて」と、恨めしげ に気色ばみきこえたまふ。 源氏朝顔の姫君を訪ね、女房を介して話す

あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れ なる前栽の心ばへもことに見わたされて、 のどやかにながめたまふらむ御ありさま容- 貌もいとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、 「かく さぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうな るを、あなたの御とぶらひ聞こゆべかりけり」とて、やがて 簀子より渡りたまふ。暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾 に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹きとほ し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂 に入れたてまつる。  宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。 「今さらに若々しき 心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労数へられはべ るに、今は内外もゆるさせたまひてむとぞ、頼みはべりけ る」とて、飽かず思したり。 「ありし世は、みな夢に見な して、今なむさめてはかなきにや、と思ひたまへ定めがたく

はべるに、労などは静かにや定めきこえさすべうはべらむ」
と、聞こえ出だしたまへり。げにこそ定めがたき世なれと、 はかなきことにつけても思しつづけらる。 「人知れず神のゆるしを待ちし間にここらつれなき世 を過ぐすかな 今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて 世にわづらはしき事さへはべりし後、さまざまに思ひたまへ 集めしかな。いかで片はしをだに」と、あながちに聞こえた まふ。御用意なども、昔よりもいますこしなまめかしき気さ へ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、 御位のほどにはあはざめり。 なべて世のあはればかりをとふからに誓ひしことと 神やいさめむ とあれば、 「あな心憂。その世の罪はみな科戸の風にたぐ へてき」とのたまふ愛敬もこよなし。 「禊を神はいかがは

べりけん」
など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには いとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月にそへて も、もの深くのみひき入りたまひて、え聞こえたまはぬを見 たてまつりなやめり。 「すきずきしきやうになりぬるを」 など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。 「齢のつもり には、面なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、 今ぞとだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」とて 出でたまふなごり、ところせきまで例の聞こえあへり。  おほかたの空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけて も、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、そのをりをり、を かしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思 ひ出できこえさす。 源氏帰邸後姫君と朝顔の歌を贈答する 心やましくて立ち出でたまひぬるは、まし て寝ざめがちに思しつづけらる。とく御格- 子まゐらせたまひて、朝霧をながめたまふ。

枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれに這ひまつはれて、 あるかなきかに咲きて、にほひもことに変れるを、折らせた まひて奉れたまふ。 「けざやかなりし御もてなしに、人わ ろき心地しはべりて、後手も、いとどいかが御覧じけむ、と ねたく。されど、 見しをりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやし ぬらん 年ごろのつもりも、あはれとばかりは、さりとも思し知るら むやとなむ、かつは」など聞こえたまへり。おとなびたる御- 文の心ばへに、おぼつかなからむも、見知らぬやうにやと思 し、人々も御硯とりまかなひて聞こゆれば、 「秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにう つる朝顔 似つかはしき御よそへにつけても、露けく」とのみあるは、 何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧

ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく 見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどにつくろはれつつ、そ のをりは罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほ ゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつお ぼつかなきことも多かりけり。  たち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこ とと思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御気色ながら、口- 惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじく思さるれば、さ らがへりてまめやかに聞こえたまふ。 源氏、朝顔の姫君に執心 紫の上思い悩む 東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ 語らひたまふ。さぶらふ人々の、さしもあ らぬ際のことをだに、なびきやすなるなど は、過ちもしつべくめできこゆれど、宮はその上だにこよな く思し離れたりしを、今はまして、誰も思ひなかるべき御齢、 おぼえにて、はかなき木草につけたる御返りなどのをり過ぐ

さぬも、軽々しくやとりなさるらむなど、人のもの言ひを憚 りたまひつつ、うちとけたまふべき御気色もなければ、古り がたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変り、めづらしく もねたくも思ひきこえたまふ。  世の中に漏りきこえて、 「前斎院を、ねむごろに聞こえ たまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。似げな からぬ御あはひならむ」など言ひけるを、対の上は伝へ聞 きたまひて、しばしは、 「さりとも、さやうならむ事もあら ば隔てては思したらじ」と思しけれど、うちつけに目とどめ きこえたまふに、御気色なども、例ならずあくがれたるも心 うく、 「まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに 言ひなしたまひけんよ」と、 「同じ筋にはものしたまへど、 おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心な ど移りなば、はしたなくもあべいかな、年ごろの御もてなし などは、立ち並ぶ方なくさすがにならひて、人に押し消たれ

むこと」
など、人知れず思し嘆かる。 「かき絶えなごりなき さまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて 見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあ らめ」など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしき事こそ、 うち怨じなど憎からずきこえたまへ、まめやかにつらしと思 せば、色にも出だしたまはず。端近うながめかちに、内裏住 みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、 「げに人の言は むなしかるまじきなめり。気色をだにかすめたまへかし」と、 うとましくのみ思ひきこえたまふ。 源氏五の宮の見舞いにかこつけて外出する 夕つかた、神事などもとまりてさうざうし きに、つれづれと思しあまりて、五の宮に 例の近づき参りたまふ。雪うち散りて、艶 なる黄昏時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよ いよたきしめたまひて、心ことに化粧じ暮らしたまへれば、 いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。

 さすがに、罷り申しはた聞こえたまふ。 「女五の宮の悩 ましくしたまふなるを、とぶらひきこえになむ」とて、突い ゐたまへれど、見もやりたまはず。若君をもてあそび、紛ら はしおはする側目のただならぬを、 「あやしく御気色のか はれるべきころかな。罪もなしや。塩焼き衣のあまり目馴れ、 見だてなく思さるるにやとて、と絶えおくを、またいかが」 など聞こえたまへば、 「馴れゆくこそげにうきこと多か りけれ」とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨て て出でたまふ道ものうけれど、宮に御消息聞こえたまひてけ れば、出でたまひぬ。  かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ と、思ひつづけて臥したまへり。鈍びたる御衣どもなれど、 色あひ重なり好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶 なる御姿を見出だして、まことに離れまさりたまはば、と忍 びあへず思さる。御前など忍びやかなるかぎりして、 「内-

裏よりほかの歩きは、ものうきほどになりにけりや。桃園の 宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲 りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに いとほしければ」
など、人々にものたまひなせど、 「いでや。 御すき心の古りがたきぞ、あたら御瑕なめる。軽々しき事も 出で来なむ」などつぶやきあへり。 源氏、式部卿宮邸で、源典侍に出会う 宮には、北面の人繁き方なる御門は、入り たまはむも軽々しければ、西なるがことご としきを、人入れさせたまひて、宮の御方 に御消息あれば、今日しも渡りたまはじと思しけるを、おど ろきて開けさせたまふ。御門守寒げなるけはひうすすき出で 来て、とみにもえ開けやらず。これより外の男はたなきなる べし、ごほごほと引きて、 「錠のいといたく銹びにければ、 開かず」と愁ふるを、あはれと聞こしめす。 「昨日今日と思 すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見

つつ、かりそめの宿をえ思ひ棄てず、木草の色にも心を移す よ」
と、思し知らるる。口ずさびに、 いつのまによもぎがもととむすぼほれ雪ふる里と荒れし 垣根ぞ やや久しうひこじらひ開けて、入りたまふ。  宮の御方に、例の御物語聞こえたまふに、古事どものそこ はかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおど ろかず、ねぶたきに、宮もあくびうちしたまひて、 「宵 まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」と、のたまふ ほどもなく、いびきとか、聞き知らぬ音すれば、よろこびな がら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしき咳うち して、参りたる人あり。 「かしこけれど、聞こしめしたらむ と頼みきこえさするを、世にあるものとも数まへさせたまは ぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」など、名の り出づるにぞ思し出づる。

 源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子に てなむ行ふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまは ざりつるを、あさましうなりぬ。 「その世のことは、みな 昔語になりゆくを、遙かに思ひ出づるも心細きに、うれし き御声かな。親なしに臥せる旅人とはぐくみたまへかし」と て、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古 りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにた る口つき思ひやらるる声づかひの、さすがに、舌つきにてう ちざれむとはなほ思へり。 「言ひこしほどに」など聞こえ かかるまばゆさよ。今しも来たる老のやうになど、ほほ笑ま れたまふものから、 ひきかへ、これも あはれなり。 「この盛りにいど みたまひし女御

更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、 はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの 御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少 なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きと まりて、のどやかに行ひをもうちして過ぐしけるは、なほす べて定めなき世なり」
と思すに、ものあはれなる御気色を、 心ときめきに思ひて、若やぐ。 年ふれどこのちぎりこそ忘られね親の親とかいひし ひと言 と聞こゆれば、うとましくて、 「身をかへて後もまちみよこの世にて親を忘るるため しありやと 頼もしき契りぞや。いまのどかにぞ聞こえさすべき」とて立 ちたまひぬ。 源氏、姫君に求愛、姫君つれなく拒む

西面には御格子まゐりたれど、厭ひきこえ 顔ならむもいかがとて、一間二間はおろさ ず。月さし出でて、薄らかに積れる雪の光 りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。ありつる 老いらくの心げさうも、よからぬものの世のたとひとか聞き し、と思し出でられてをかしくなむ。  今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、 「一言、憎し なども、人づてならでのたまはせんを、思ひ絶ゆるふしにも せん」と、おり立ちて責めきこえたまへど、 「昔、我も人も 若やかに罪ゆるされたりし世にだに、故宮などの心寄せ思し たりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにし を、世の末に、さだ過ぎ、つきなきほどにて、一声もいとま ばゆからむ」と思して、さらに動きなき御心なれば、あさま しうつらしと思ひきこえたまふ。  さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ、人づての

御返りなどぞ心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけ はひ烈しくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよ きほどにおし拭ひたまひて、 「つれなさを昔にこりぬ心こそ人のつらきに添へてつ らけれ 心づからの」とのたまひすさぶるを、 「げに、かたはらいた し」と、人々、例の、聞こゆ。 「あらためて何かは見えむ人のうへにかかりと聞きし 心がはりを 昔に変ることはならはず」など聞こえたまへり。  言ふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふ も、いと若々しき心地したまへば、 「いとかく世のためし になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ、ゆめゆめ。いさ ら川なども馴れ馴れしや」とて、切にうちささめき語らひた まへど、何ごとにかあらむ。人々も、 「あなかたじけな。あな

がちに情おくれても、もてなしきこえたまふらん。かるらか におし立ちてなどは見えたまはぬ御気色を。心苦しう」
と いふ。  げに人のほどの、をかしきにも、あはれにも思し知らぬに はあらねど、 「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、お しなべての世の人の、めできこゆらむ列にや思ひなされむ。 かつは軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげ なめる御ありさまを」と思せば、 「なつかしからむ情もいと あいなし。よその御返りなどはうち絶えで、おぼつかなかる まじきほどに聞こえたまひ、人づての御いらへはしたなから で過ぐしてむ。年ごろ沈みつる罪うしなふばかり御行ひを」 とは思し立てど、 「にはかにかかる御事をしも、もて離れ顔 にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人の とりなさじやは」と、世の人の口さかなさを思し知りにしか ば、かつはさぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づ

かひしたまひつつ、やうやう御行ひをのみしたまふ。  御はらからの君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹なら ねば、いとうとうとしく、宮の内いとかすかになりゆくまま に、さばかりめでたき人のねむごろに御心を尽くしきこえた まへぱ、皆人心を寄せきこゆるもひとつ心と見ゆ。 朝顔の姫君との仲につき、紫の上に弁明 大臣は、あながちに思し焦らるるにしもあ らねど、つれなき御気色のうれたきに、負 けてやみなむも口惜しく、げに、はた、人 の御ありさま世のおぼえ、ことにあらまほしく、ものを深く 思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞きつめたまひ て、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだ けも、かつは世のもどきをも思しながら、 「空しからむはい よいよ人笑へなるべし。いかにせむ」と御心動きて、二条院 に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。 忍びたまへど、いかがうちこぼるるをりもなからむ。

「あやしく例ならぬ御気色こそ、心得がたけれ」とて、 御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描か まほしき御あはひなり。 「宮亡せたまひて後、上のいとさ うざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、 太政大臣もものしたまはで、見ゆづる人なき事しげさになむ。 このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、こ とわりにあはれなれど、今はさりとも心のどかに思せ。おと なびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見- 知らぬさまにものしたまふこそらうたけれ」など、まろがれ たる御額髪ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞 こえたまはず。 「いといたく若びたまへるは、誰がならは しきこえたるぞ」とて、常なき世にかくまで心おかるるもあ ぢきなのわざや、とかつはうちながめたまふ。 「斎院には かなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それはい ともて離れたる事ぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこ

よなうけ遠き御心ばへなるを、さうざうしきをりをり、ただ ならで聞こえなやますに、かしこもつれづれにものしたまふ ところなれば、たまさかの答へなどしたまへど、まめまめし きさまにもあらぬを、かくなむあるとしも愁へきこゆべきこ とにやは。うしろめたうはあらじとを思ひなほしたまへ」
な ど、日一日慰めきこえたまふ。 雪の夜、紫の上と昔今の女の評をかわす 雪のいたう降り積りたる上に、今も散りつ つ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮 に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。 「時- 時につけても、人の心をうつすめる花紅葉の盛りよりも、冬 の夜の澄める月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なき ものの、身にしみて、この世の外のことまで思ひ流され、お もしろさもあはれさも残らぬをりなれ。すさまじき例に言ひ おきけむ人の心浅さよ」とて、御簾捲き上げさせたまふ。月 は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれ

たる前栽のかげ心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の 氷もえもいはずすごきに、童べおろして、雪まろばしせさせ たまふ。をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きや かに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿 なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはまして もてはやしたる、いとけざやかなり。ちひさきは童げてよろ こび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。い と多う転ばさむとふくつけがれど、えも押し動かさでわぶ めり。かたへは東のつまなどに出でゐて、心もとなげに 笑ふ。 「ひと年、中宮の 御前に雪の山作られた りし、世に古りたる事 なれど、なほめづらし くもはかなきことをし

なしたまへりしかな。何のをりをりにつけても、口惜しう飽 かずもあるかな。いとけ遠くもてなしたまひて、くはしき御 ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御ま じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。う ち頼みきこえて、とある事かかるをりにつけて、何ごとも聞 こえ通ひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざ りしかど、言ふかひあり、思ふさまに、はかなき事わざをも しなしたまひしはや。世にまたさばかりのたぐひありなむ や。やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるとこ ろの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど紫の ゆゑこよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき 気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや苦しからむ。前- 斎院の御心ばへは、またさまことにぞみゆる。さうざうしき に、何とはなくとも聞こえあばせ、我も心づかひせらるべき あたり、ただこの一ところや、世に残りたまへらむ」
とのた

まふ。 「尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は人にま さりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人 の御心を、あやしくもありけることどもかな」とのたまへば、 「さかし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほひき出 でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多 かるかな。まいて、うちあだけすきたる人の、年つもりゆく ままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはこよなき静け さと思ひしだに」など、のたまひ出でて、尚侍の君の御こと にも涙すこしは落したまひつ。 「この数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身 のほどにはややうち過ぎ、ものの心などえつべけれど、人よ りことなるべきものなれば、思ひあがれるさまをも見消ちて はべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれ たるは難き世なりや。東の院にながむる人の心ばへこそ、古

りがたくらうたけれ。さはたさらにえあらぬものを。さる方 につけての心ばせ人にとりつつ見そめしより、同じやうに世 をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今、はた、かたみに背く べくもあらず、深うあはれと思ひはべる」
など、昔今の御物- 語に夜更けゆく。  月いよいよ澄みて、靜かにおもしろし。女君、 こほりとぢ石間の水はゆきなやみそらすむ月のかげぞな がるる 外を見出だして、すこしかたぶきたまへるほど、似るものな くうつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影 にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり かさねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、 かきつめてむかし恋しき雪もよにあはれを添ふる鴛- 鴦のうきねか 亡き藤壺、源氏の夢枕に立って恨む

入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大- 殿籠れるに、夢ともなくほのかに見たてま つるを、いみじく恨みたまへる御気色にて、 「漏らさじとのたまひしかど、うき名の隠れなかりければ、 恥づかしう。苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」との たまふ。御答へ聞こゆと思すに、おそはるる心地して、女君 の 「こは。などかくは」とのたまふに、おどろきて、いみじ く口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、おさへて、涙も流 れ出でにけり。今もいみじく濡らし添へたまふ。女君、いか なる事にかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。 とけて寝ぬねざめさびしき冬の夜に結ぼほれつる夢 のみじかさ  なかなか飽かず悲しと思すに、とく起きたまひて、さとは なくて、所どころに御誦経などせさせたまふ。 「苦しき目見 せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらんかし。行ひを

したまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一 つ事にてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ」
と、もの の心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、 「何わざを して、知る人なき世界におはすらむを、とぶらひきこえに参 うでて、罪にもかはりきこえばや」など、つくづくと思す。 かの御ために、とり立てて何わざをもしたまはむは、人咎め きこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ、 と思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて、念じたてまつ りたまふ。おなじ蓮にとこそは、 なき人をしたふ心にまかせてもかげ見ぬみつの瀬に やまどはむ と思すぞうかりけるとや。
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