源氏物語

源氏、明石の姫君を紫の上の養女にと望む

A Rack of Cloud

冬になりゆくままに、川づらの住まひいと ど心細さまさりて、上の空なる心地のみし つつ明かし暮らすを、君も、 「なほかくて はえ過ぐさじ。かの近き所に思ひ立ちね」とすすめたまへど、 「つらきところ多く試みはてむも残りなき心地すべきを、い かに言ひてか」などいふやうに思ひ乱れたり。 「さらばこ の若君を。かくてのみは便なきことなり。思ふ心あればかた じけなし。対に聞きおきて常にゆかしがるを、しばし見なら はさせて、袴着の事なども、人知れぬさまならずしなさんと なむ思ふ」と、まめやかに語らひたまふ。さ思すらん、と思 ひわたることなれば、いとど胸つぶれぬ。 「あらためてや んごとなき方にもてなされたまふとも、人の漏り聞かんこと

は、なかなかにやつくろひがたく思されん」
とて、放ちがた く思ひたる、ことわりにはあれど、 「うしろやすからぬ方 にやなどはな疑ひたまひそ。かしこには年経ぬれどかかる人 もなきが、さうざうしくおほぼるままに、前斎宮の大人びも のしたまふをだにこそ、あながちに扱ひきこゆめれば、まし て、かく憎みがたげなめるほどを、をろかには見放つまじき 心ばへに」など、女君の御ありさまの思ふやうなることも語 りたまふ。 明石の君、その是非の判断に悩む 「げにいにしへは、いかばかりのことに定 まりたまふべきにかと、伝にもほの聞こえ し御心のなごりなく静まりたまへるは、お ぼろけの御宿世にもあらず、人の御ありさまも、ここらの御- 中にすぐれたまへるにこそは」と思ひやられて、 「数ならぬ 人の並びきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、立ち出 でて、人もめざましと思す事やあらむ。わが身はとてもかく

ても同じこと、生ひ先遠き人の御上もつひにはかの御心にか かるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかう何心なきほ どにや譲りきこえまし」
と思ふ。また、 「手を放ちてうしろ めたからむこと。つれづれも慰む方なくては、いかが明かし 暮らすべからむ。何につけてかたまさかの御立寄りもあら む」など、さまざまに思ひ乱るるに、身のうきこと限りなし。 尼君、姫君を紫の上に渡すことを勧める 尼君、思ひやり深き人にて、 「あぢきな し。見たてまつらざらむことはいと胸痛か りぬべけれど、つひにこの御ためによかる べからんことをこそ思はめ。浅く思してのたまふことにはあ らじ。ただうち頼みきこえて、渡したてまつりたまひてよ。 母方からこそ、帝の御子もきはぎはにおはすめれ。この大臣 の君の、世に二つなき御ありさまながら世に仕へたまふは、 故大納言の、いま一階なり劣りたまひて、更衣腹と言はれた まひしけぢめにこそはおはすめれ。ましてただ人は、なずら

ふべきことにもあらず。また、親王たち、大臣の御腹といへ ど、なほさし向かひたる劣りの所には、人も思ひおとし、親 の御もてなしもえ等しからぬものなり。まして、これは、や むごとなき御方々にかかる人出でものしたまはば、こよなく 消たれたまひなむ。ほどほどにつけて、親にも一ふしもてか しづかれぬる人こそ、やがておとしめられぬはじめとはなれ。 御袴着のほども、いみじき心を尽くすとも、かかる深山隠れ にては何のはえかあらむ。ただまかせきこえたまひて、もて なしきこえたまはむありさまをも聞きたまへ」
と教ふ。 明石の君、姫君を手放すことを決心する さかしき人の心の占どもにも、もの問はせ などするにも、なほ 「渡りたまひてはまさ るべし」とのみ言へば、思ひ弱りにたり。 殿もしか思しなから、思はむところのいとほしさに、しひて もえのたまはで、 「御袴着のこと、いかやうにか」とのた まへる御返りに、 「よろづのことかひなき身にたぐへき

こえては、げに生ひ先もいとほしかるべくおぼえはべるを、 立ちまじりてもいかに人笑へにや」
と聞こえたるを、いとど あはれに思す。日などとらせたまひて、忍びやかにさるべき ことなどのたまひ掟てさせたまふ。放ちきこえむことは、な ほいとあはれにおぼゆれど、君の御ためによかるべきことを こそは、と念ず。 「乳母をもひき別れなんこと。明け暮れのもの思はしさ、 つれづれをも、うち語らひて慰め馴らひつるに、いとどたづ きなきことさへとり添へ、いみじくおぼゆべきこと」と君も 泣く。乳母も、 「さるべきにや、おぼえぬさまにて見たてま つりそめて、年ごろの御心ばへの忘れがたう、恋しうおぼえ たまふべきを、うち絶えきこゆる事はよもはべらじ。つひに はと頼みながら、しばしにてもよそよそに、思ひの外のまじ らひしはべらむが、やすからずもはべるべきかな」など、う ち泣きつつ過ぐすほどに、十二月にもなりぬ。 雪の日、明石の君、乳母と和歌を唱和する

雪霰がちに、心細さまさりて、あやしくさ まざまにもの思ふべかりける身かな、とう ち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひ つつ見ゐたり。雪かきくらし降りつもる朝、来し方行く末の こと残らず思ひつづけて、例はことに端近なる出でゐなども せぬを、汀の氷など見やりて、白き衣どものなよよかなるあ また着て、ながめゐたる様体、頭つき、後手など、限りなき 人と聞こゆとも、かうこそはおはすらめ、と人々も見る。落 つる涙をかき払ひて、 「かやうならむ日、ましていかにお ぼつかなからむ」とらうたげにうち嘆きて、 雪ふかみみ山の道ははれずともなほふみかよへあと 絶えずして とのたまへば、乳母うち泣きて、 雪まなきよしのの山をたづねても心のかよふあと絶 えめやは

と言ひ慰む。 明石の姫君を二条院に迎える 袴着のこと この雪すこしとけて渡りたまへり。例は待 ちきこゆるに、さならむとおぼゆること により、胸うちつぶれて人やりならずおぼ ゆ。 「わが心にこそあらめ。辞びきこえむを強ひてやは。あ ぢきな」とおぼゆれど、軽々しきやうなりとせめて思ひかへ す。いとうつくしげにて前にゐたまへるを見たまふに、おろ かには思ひがたかりける人の宿世かなと思ほす。この春より 生ほす御髪、尼そぎのほどにてゆらゆらとめでたく、つらつ き、まみのかをれるほどなど、いへばさらなり。よそのもの に思ひやらむほどの心の闇、推しはかりたまふにいと心苦し ければ、うち返しのたまひ明かす。 「何か。かく口惜しき 身のほどならずだにもてなしたまはば」と聞こゆるものから、 念じあへずうち泣くけはひあはれなり。  姫君は、何心もなく、御車に乗らむことを急ぎたまふ。寄

せたる所に、母君みづから抱きて出でたまへり。片言の、声 はいとうつくしうて、袖をとらへて、乗りたまへと引くも、 いみじうおぼえて、 末遠きふたばの松にひきわかれいつか木だかきかげ を見るべき えも言ひやらずいみじう泣けば、さりや、あな苦しと思して、 「生ひそめし根もふかければたけくまの松にこまつの 千代をならべん のどかにを」と慰めたまふ。さることとは思ひ静むれど、え なむたへざりける。乳母、少将とてあてやかなる人ばかり、 御佩刀、天児やうの物取りて乗る。副車によろしき若人、童 など乗せて、御送りに参らす。道すがら、とまりつる人の心- 苦しさを、いかに罪や得らむと思す。  暗うおはし着きて、御車寄するより、華やかにけはひこと なるを、田舎びたる心地どもは、はしたなくてやまじらはむ

と思ひつれど、西面をことにしつらはせたまひて、小さき御- 調度ども、うつくしげにととのへさせたまへり。乳母の局に は、西の渡殿の北に当れるをせさせたまへり。  若君は、道にて寝たまひにけり。抱きおろされて、泣きな どはしたまはず。こなたにて御くだもの参りなどしたまへど、 やうやう見めぐらして、母君の見えぬを求めて、らうたげに うちひそみたまへば、乳母召し出でて慰め紛らはしきこえた まふ。山里のつれづれ、ましていかに、と思しやるはいとほ しけれど、明け暮れ思すさまにかしづきつつ見たまふは、も のあひたる心地したまふらむ。いかにぞや、人の思ふべき瑕 なきことは、このわ たりに出でおはせで、 と口惜しく思さる。 しばしは人々求めて 泣きなどしたまひし

かど、おほかた心やすくをかしき心ざまなれば、上にいとよ くつき睦びきこえたまへれば、いみじううつくしきもの得た りと思しけり。他ごとなく抱き扱ひ、もてあそびきこえたま ひて、乳母も、おのづから近う仕うまつり馴れにけり。また やむごとなき人の乳ある、添へてまゐりたまふ。  御袴着は、何ばかりわざと思しいそぐ事はなけれど、けし きことなり。御しつらひ、雛遊びの心地してをかしう見ゆ。 参りたまへる客人ども、ただ明け暮れのけぢめしなければ、 あながちに目もたたざりき。ただ、姫君の襷ひき結ひたまへ る胸つきぞ、うつくしげさ添ひて見えたまひつる。 明石の君、姫君の女房に歳暮の贈物をする 大堰には、尽きせず恋しきにも、身のおこ たりを嘆きそへたり。さこそ言ひしか、尼- 君もいとど涙もろなれど、かくもてかしづ かれたまふを聞くはうれしかりけり。何ごとをか、なかなか とぶらひきこえたまはむ。ただ、御方の人々に、乳母よりは

じめて、世になき色あひを思ひいそぎてぞ、贈りきこえたま ひける。待ち遠ならむも、いとどさればよと思はむに、いと ほしければ、年の内に忍びて渡りたまへり。いとどさびしき 住まひに、明け暮れのかしづきぐさをさへ離れきこえて思ふ らむことの心苦しければ、御文なども絶え間なく遣はす。女- 君も、今はことに怨じきこえたまはず、うつくしき人に罪ゆ るしきこえたまへり。 新春、人々参賀 花散里の好ましき日常 年も返りぬ。うららかなる空に、思ふこと なき御ありさまはいとどめでたく、磨きあ らためたる御よそひに参り集ひたまふめる 人の、大人しきほどのは、七日、御よろこびなどしたまふ、 ひきつれたまへり。若やかなるは、何ともなく心地よげに見 えたまふ。次々の人も、心の中には思ふこともやあらむ、う はべは誇りかに見ゆるころほひなりかし。東の院の対の御方 も、ありさまは好ましう、あらまほしきさまに、さぶらふ人-

人、童べの姿などうちとけず、心づかひしつつ過ぐしたまふ に、近きしるしはこよなくて、のどかなる御暇のひまなどに は、ふと這ひ渡りなどしたまへど、夜たちとまりなどやうに わざとは見えたまはず。ただ御心ざまのおいらかにこめきて、 かばかりの宿世なりける身にこそあらめと思ひなしつつ、あ り難きまでうしろやすくのどかにものしたまへば、をりふし の御心おきてなども、こなたの御ありさまに劣るけぢめこよ なからずもてなしたまひて、侮りきこゆべうはあらねば、 同じごと、人参り仕うまつりて、別当どもも事怠らず、なか なか乱れたるところなくめやすき御ありさまなり。 源氏、大堰を訪問する 紫の上との唱和 山里のつれづれをも絶えず思しやれば、 公私もの騒がしきほど過ぐして渡りた まふとて、常よりことにうち化粧じたまひ て、桜の御直衣にえならぬ御衣ひき重ねて、たきしめ、装束 きたまひて、罷申したまふさま、隈なき夕日にいとどしく

きよらに見えたまふを、女君ただならず見たてまつり送り たまふ。姫君は、いはけなく御指貫の裾にかかりて慕ひきこ えたまふほどに、外にも出でたまひぬべければ、立ちとまり て、いとあはれと思したり。こしらへおきて、 「明日帰り 来む」と口ずさびて出でたまふに、渡殿の戸口に待ちかけて、 中将の君して聞こえたまへり。 舟とむるをちかた人のなくはこそあすかへりこむ 夫と待ちみめ いたう馴れて聞こゆれば、いとにほひやかにほほ笑みて、 行きてみてあすもさねこむなかなかにをちかた人は 心おくとも 何ごととも聞き分かで戯れ歩きたまふ人を、上はうつくしと 見たまへば、をちかた人のめざましきもこよなく思しゆるさ れにたり。いかに思ひおこすらむ、我にていみじう恋しかり ぬべきさまを、とうちまもりつつ、ふところに入れて、うつ

くしげなる御乳をくくめたまひつつ戯れゐたまへる御さま、 見どころ多かり。御前なる人々は、 「などか同じくは」 「いで や」など語らひあへり。 源氏、明石の君の心用意を重んじいたわる かしこには、いとのどやかに、心ばせある けはひに住みなして、家のありさまも、や う離れめづらしきに、みづからのけはひな どは、見る度ごとに、やむごとなき人々などに劣るけぢめこ よなからず、容貌、用意あらまほしうねびまさりゆく。 「た だ世の常のおぼえにかき紛れたらば、さるたぐひなくやはと 思ふべきを、世に似ぬひがものなる親の聞こえなどこそ苦し けれ。人のほどなどはさてもあるべきを」など思す。はつか に、飽かぬほどにのみあればにや、心のどかならずたち帰り たまふも苦しくて、 「夢のわたりの浮橋か」とのみうち嘆か れて、筝の琴のあるを引き寄せて、かの明石にて小夜更け たりし音も、例の思し出でらるれば、琵琶をわりなくせめた

まへば、すこし掻き合はせたる、いかでかうのみひき具しけ むと思さる。若君の御ことなどこまやかに語りたまひつつお はす。  ここはかかる所なれど、かやうにたちとまりたまふをりを りあれば、はかなきくだもの、強飯ばかりはきこしめす時も あり。近き御寺、桂殿などにおはしまし紛らはしつつ、いと まほには乱れたまはねど、またいとけざやかにはしたなく、 おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとお ぼえことには見ゆめれ。女も、かかる御心のほどを見知りき こえて、過ぎたりと思すばかりの事はし出でず、また、いた く卑下せずなどして、御心おきてにもて違ふことなく、いと めやすくぞありける。おぼろけにやむごとなき所にてだに、 かばかりもうちとけたまふことなく、気高き御もてなしを聞 きおきたれば、「近きほどにまじらひては、なかなかいとど 目馴れて人侮られなることどももぞあらまし。たまさかに

て、かやうにふりはへたまへるこそ、たけき心地すれ」
と思 ふべし。明石にも、さこそ言ひしか、この御心おきて、あり さまをゆかしがりて、おぼつかなからず人は通はしつつ、胸 つぶるることもあり、また、面だたしくうれしと思ふことも 多くなむありける。 太政大臣薨去 源氏ねんごろに弔問する そのころ、太政大臣亡せたまひぬ。世の重 しとおはしつる人なれば、おほやけにも思 し嘆く。しばし籠りたまへりしほどをだに、 天の下の騒ぎなりしかば、まして悲しと思ふ人多かり。源氏 の大臣も、いと口惜しく、よろづの事おし譲りきこえてこそ 暇もありつるを、心細く、事しげくも思されて、嘆きおはす。 帝は、御年よりはこよなう大人大人しうねびさせたまひて、 世の政もうしろめたく思ひきこえたまふべきにはあらねど も、またとりたてて御後見したまふべき人もなきを、誰に譲 りてかは静かなる御本意もかなはむと思すに、いと飽かず口-

惜し。後の御わざなどにも、御子ども孫に過ぎてなん、こま やかにとぶらひ扱ひたまひける。 天変地異しきり 藤壺の宮重態に陥る その年、おほかた世の中騒がしくて、公 ざまにもののさとししげく、のどかならで、 天つ空にも、例に違へる月日星の光見え、 雲のたたずまひありとのみ世の人おどろくこと多くて、道々 の勘文ども奉れるにも、あやしく世になべてならぬ事ども まじりたり。内大臣のみなむ、御心の中にわづらはしく思し 知らるることありける。  入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて、三- 月には、いと重くならせたまひぬれば、行幸などあり。院に 別れたてまつらせたまひしほどは、いといはけなくてもの深 くも思されざりしを、いみじう思し嘆きたる御気色なれば、 宮もいと悲しく思しめさる。 「今年は必ずのがるまじき年 と思ひたまへつれど、おどろおどろしき心地にもはべらざり

つれば、命の限り知り顔にはべらむも、人やうたてことごと しう思はむと憚りてなむ、功徳の事なども、わざと例よりも とりわきてしもはべらずなりにける。参りて、心のどかに昔 の御物語もなど思ひたまへながら、うつしざまなるをり少な くはべりて、口惜しくいぶせくて過ぎはべりぬること」
と、 いと弱げに聞こえたまふ。三十七にぞおはしましける。され ど、いと若く、盛りにおはしますさまを、惜しく悲しと見た てまつらせたまふ。つつしませたまふべき御年なるに、晴れ 晴れしからで月ごろ過ぎさせたまふことをだに嘆きわたりは べりつるに、御つつしみなどをも常よりことにせさせたま はざりけることと、いみじう思しめしたり。ただこのごろ ぞ、おどろきてよろづの事せさせたまふ。月ごろは常の御悩 みとのみうちたゆみたりつるを、源氏の大臣も深く思し入り たり。限りあれば、ほどなく還らせたまふも、悲しきこと多 かり。

 宮いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず。 御心の中に思しつづくるに、高き宿世、世の栄えも並ぶ人な く、心の中に飽かず思ふことも人にまさりける身、と思し知 らる。上の、夢の中にも、かかることの心を知らせたまはぬ を、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、 うしろめたくむすぼほれたることに思しおかるべき心地した まひける。 源氏、藤壺の宮を見舞う 藤壺の宮の崩御 大臣は、公方ざまにても、かくやむごと なき人のかぎり、うちつづき亡せたまひな むことを思し嘆く。人知れぬあはれ、はた、 限りなくて、御祈祷など、思し寄らぬことなし。年ごろ思し 絶えたりつる筋さへ、いま一たび聞こえずなりぬるがいみじ く思さるれば、近き御几帳のもとによりて、御ありさまなど もさるべき人々に問ひ聞きたまへば、親しきかぎりさぶらひ て、こまかに聞こゆ。 「月ごろ悩ませたまへる御心地に、

御行ひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふつもりの、 いとどいたうくづほれさせたまふに、このごろとなりては、 柑子などをだに触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころ なくならせたまひにたること」
と泣き嘆く人々多かり。 「院の御遺言にかなひて、内裏の御後見仕うまつりたま ふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてか はその心寄せことなるさまをも漏らしきこえむとのみ、のど かに思ひはべりけるを、いまなむあはれに口惜しく」とほの かにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御答へも聞こえ やりたまはず泣きたまふさま、いといみじ。などかうしも心- 弱きさまに、と人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさ まを、おほかたの世につけてもあたらしく惜しき人の御さま を、心にかなふわざならねばかけとどめきこえむ方なく、言 ふかひなく思さるること限りなし。 「はかばかしからぬ身 ながらも、昔より御後見仕うまつるべきことを、心のいたる

限りおろかならず思ひたまふるに、太政大臣の隠れたまひぬ るをだに、世の中心あわたたしく思ひたまへらるるに、また かくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむ ことも残りなき心地なむしはべる」
と聞こえたまふほどに、 燈火などの消え入るやうにてはてたまひぬれば、いふかひな く悲しきことを思し嘆く。 人々、藤壺を痛惜 源氏、悲傷の歌を詠む かしこき御身のほどと聞こゆる中にも、御 心ばへなどの、世のためにもあまねくあは れにおはしまして、豪家にこと寄せて、人 の愁へとある事などもおのづからうちまじるを、いささかも さやうなる事の乱れなく、人の仕うまつることをも、世の苦 しみとあるべきことをばとどめたまふ。功徳の方とても、勧 むるによりたまひて、厳しうめづらしうしたまふ人なども、 昔のさかしき世にみなありけるを、これはさやうなることな く、ただもとよりの財物、えたまふべき年官、年爵、御封の

ものの、さるべき限りして、まことに心深き事どものかぎり をしおかせたまへれば、何とわくまじき山伏などまで惜しみ きこゆ。  をさめたてまつるにも、世の中響きて悲しと思はぬ人なし。 殿上人などなべて一つ色に黒みわたりて、ものの栄なき春の 暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴のをりなど 思し出づ。 「今年ばかりは」と独りごちたまひて、人の見と がめつべければ、御念誦堂にこもりゐたまひて、日一日泣き 暮らしたまふ。タ日はなやかにさして、山際の梢あらはなる に、雲の薄くわたれるが鈍色なるを、何ごとも御目とどまら ぬころなれど、いとものあはれに思さる。 入日さすみねにたなびく薄雲はもの思ふ袖にいろや まがへる 人聞かぬ所なればかひなし。 夜居の僧都冷泉帝に秘密の大事を奏上する

御わざなども過ぎて、事ども静まりて、帝 もの心細く思したり。この入道の宮の御母- 后の御世より伝はりて、次々の御祈祷の師 にてさぶらひける僧都、故宮にもいとやむごとなく親しき者 に思したりしを、おほやけにも重き御おぼえにて、厳しき御- 願ども多く立てて、世にかしこき聖なりける、年七十ばかり にて、いまは終りの行ひをせむとて籠りたるが、宮の御事に よりて出でたるを、内裏より召しありて常にさぶらはせたま ふ。このごろは、なほもとのごとく参りさぶらはるべきよし、 大臣もすすめのたまへば、 「今は夜居などいとたへがたう おぼえはべれど、仰せ言のかしこきにより、古き心ざしを添 へて」とてさぶらふに、静かなる暁に、人も近くさぶらはず、 あるはまかでなどしぬるほどに、古代にうちしはぶきつつ世 の中の事ども奏したまふついでに、 「いと奏しがたく、か へりては罪にもやまかり当らむと思ひたまへ憚る方多かれど、

知ろしめさぬに罪重くて、天の眼恐ろしく思ひたまへらるる ことを、心にむせびはべりつつ命終りはべりなば、何の益か ははべらむ。仏も心ぎたなしとや思しめさむ」
とばかり奏し さして、えうち出でぬことあり。  上、 「何ごとならむ。この世に怨み残るべく思ふことやあ らむ。法師は聖といへども、あるまじき横さまのそねみ深く、 うたてあるものを」と思して、 「いはけなかりし時より隔 て思ふことなきを、そこにはかく忍び残されたることありけ るをなむ、つらく思ひぬる」とのたまはすれば、 「あなか しこ。さらに仏のいさめ守りたまふ真言の深き道をだに、隠 しとどむることなく弘め仕うまつりはべり。まして心に隈あ ること、何ごとにかはべらむ。これは来し方行く先の大事と はべることを、過ぎおはしましにし院后の宮、ただ今世をま つりごちたまふ大臣の御ため、すべてかへりてよからぬこと にや漏り出ではべらむ。かかる老法師の身には、たとひ愁へ

はべりとも何の悔かはべらむ。仏天の告げあるによりて、奏 しはべるなり。わが君孕まれおはしましたりし時より、故宮 の深く思し嘆くことありて、御祈祷仕うまつらせたまふゆゑ なむはべりし。くはしくは法師の心にえさとりはべらず。事 の違ひ目ありて、大臣横さまの罪に当りたまひし時、いよい よ怖ぢ思しめして、重ねて御祈祷ども承りはべりしを、大臣 も聞こしめしてなむ、またさらに事加へ仰せられて、御位に 即きおはしまししまで仕うまつる事どもはべりし。その承り しさま」
とて、くはしく奏するを聞こしめすに、あさましう めづらかにて、恐ろしうも悲しうも、さまざまに御心乱れた り。とばかり御 答へもなければ、 僧都、進み奏し つるを便なく思 しめすにやとわ

づらはしく思ひて、やをらかしこまりてまかづるを、召しと どめて、 「心に知らで過ぎなましかば、後の世までの咎め あるべかりけることを、今まで忍びこめられたりけるをなむ、 かへりてはうしろめたき心なり、と思ひぬる。またこのこと を知りて漏らし伝ふるたぐひやあらむ」とのたまはす。 「さらに。なにがしと王命婦とより外の人、この事のけしき 見たるはべらず。さるによりなむ、いと恐ろしうはべる。 天変頻りにさとし、世の中静かならぬはこのけなり。いとき なく、ものの心知ろしめすまじかりつるほどこそはべりつれ、 やうやう御齢足りおはしまして、何ごともわきまへさせた まふべき時にいたりて、咎をも示すなり。よろづの事、親の 御世よりはじまるにこそはべるなれ。何の罪とも知ろしめさ ぬが恐ろしきにより、思ひたまへ消ちてし事を、さらに心よ り出だしはべりぬること」と、泣く泣く聞こゆるほどに明け はてぬればまかでぬ。 冷泉帝煩悶する 源氏に譲位をほのめかす

上は、夢のやうにいみじき事を聞かせたま ひて、色々に思し乱れさせたまふ。故院の 御ためもうしろめたく、大臣の、かくただ 人にて世に仕へたまふもあはれにかたじけなかりけること、 かたがた思し悩みて、日たくるまで出でさせたまはねば、か くなむと聞きたまひて、大臣も驚きて参りたまへるを御覧ず るにつけても、いとど忍びがたく思しめされて、御涙のこぼ れさせたまひぬるを、おほかた故宮の御ことを干る世なく思 しめしたるころなればなめり、と見たてまつりたまふ。  その日式部卿の親王亡せたまひぬるよし奏するに、いよい よ世の中の騒がしきことを嘆き思したり。かかるころなれば、 大臣は里にもえまかでたまはで、つとさぶらひたまふ。しめ やかなる御物語のついでに、 「世は尽きぬるにやあらむ。 もの心細く例ならぬ心地なむするを、天の下もかくのどかな らぬに、よろづあわたたしくなむ。故宮の思さむところによ

りてこそ世間のことも思ひ憚りつれ、今は心やすきさまにて も過ぐさまほしくなむ」
と語らひきこえたまふ。 「いとあ るまじき御事なり。世の静かならぬことは、かならず政の 直くゆがめるにもよりはべらず。さかしき世にしもなむ、よ からぬ事どももはべりける。聖の帝の世にも、横さまの乱れ 出で来ること、唐土にもはべりける。わが国にもさなむはべ る。ましてことわりの齢どもの、時いたりぬるを、思し嘆く べきことにもはべらず」など、すべて多くのことどもを聞こ えたまふ。片はしまねぶも、いとかたはらいたしや。常より も黒き御装ひにやつしたまへる御容貌、違ふところなし。上 も年ごろ御鏡にも思し寄ることなれど、聞こしめししことの 後は、またこまかに見たてまつりたまうつつ、ことにいとあ はれに思しめさるれば、いかでこのことをかすめ聞こえばや と思せど、さすがにはしたなくも思しぬべきことなれば、若 き御心地につつましくて、ふともえうち出できこえたまはぬ

ほどは、ただおほかたのことどもを、常よりことになつかし う聞こえさせたまふ。うちかしこまりたまへるさまにて、い と御気色ことなるを、かしこき人の御目にはあやしと見たて まつりたまへど、いとかくさださだと聞こしめしたらむとは 思さざりけり。 帝、皇統乱脈の先例を典籍に求める 上は、王命婦にくはしき事は問はまほしう 思しめせど、 「今さらに、しか忍びたまひ けむこと知りにけり、とかの人にも思はれ じ。ただ大臣に、いかでほのめかし問ひきこえて、さきざき のかかる事の例はありけりや、と問ひ聞かむ」とぞ思せど、 さらについでもなければ、いよいよ御学問をせさせたまひつ つ、さまざまの書どもを御覧ずるに、唐土には、顕はれても 忍びても、乱りがはしきこといと多かりけり。日本には、さ らに御覧じうるところなし。たとひあらむにても、かやうに 忍びたらむ事をば、いかでか伝へ知るやうのあらむとする。

一世の源氏、また納言大臣になりて後に、さらに親王にもな り、位にも即きたまひつるも、あまたの例ありけり。人柄の かしこきに事よせて、さもや譲りきこえましなど、よろづに ぞ思しける。 源氏、帝意に恐懼 秘事漏洩を命婦に質す 秋の司召に太政大臣になりたまふべきこと、 うちうちに定め申したまふついでになむ、 帝、思し寄する筋のこと漏らしきこえたま ひけるを、大臣、いとまばゆく恐ろしう思して、さらにある まじきよしを申し返したまふ。 「故院の御心ざし、あまた の皇子たちの御中に、とりわきて思しめしながら、位を譲ら せたまはむことを思しめし寄らずなりにけり。何か、その御- 心あらためて、及ばぬ際には上りはべらむ。ただ、もとの御- 掟てのままに、朝廷に仕うまつりて、いますこしの齢重なり はべりなば、のどかなる行ひに籠りはべりなむと思ひたまふ る」と、常の御言の葉に変らず奏したまへば、いと口惜しう

なむ思しける。太政大臣になりたまふべき定めあれど、しば しと思すところありて、ただ御位添ひて、牛車聴されて参り まかでしたまふを、帝、飽かずかたじけなきものに思ひきこ えたまひて、なほ親王になりたまふべきよしを思しのたまは すれど、 「世の中の御後見したまふべき人なし。権中納言、 大納言になりて右大将かけたまへるを、いま一際上りなむに、 何ごとも譲りてむ。さて後に、ともかくも静かなるさまに」 とぞ思しける。  なほ思しめぐらすに、故宮の御ためにもいとほしう、また、 上のかく思しめし悩めるを見たてまつりたまふもかたじけな きに、誰かかる事を漏らし奏しけむとあやしう思さる。命婦 は、御匣殿のかはりたるところに移りて、曹司賜はりて参り たり。大臣対面したまひて、この事を、もし物のついでに、 つゆばかりにても漏らし奏したまふことやありし、と案内し たまへど、 「さらに。かけても聞こしめさむことをいみじ

きことに思しめして、かつは、罪得ることにやと、上の御た めをなほ思しめし嘆きたりし」
と聞こゆるにも、ひとかたな らず心深くおはせし御ありさまなど、尽きせず恋ひきこえた まふ。 源氏、斎宮の女御を訪れ、恋情を訴える 斎宮の女御は、思ししも著き御後見にて、 やむごとなき御おぼえなり。御用意、あり さまなども、思ふさまにあらまほしう見え たまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたま へり。  秋のころ、二条院にまかでたまへり。寝殿の御しつらひ、 いとど輝くばかりしたまひて、今は、むげの親ざまにもてな して扱ひきこえたまふ。秋の雨いと静かに降りて、御前の前- 栽の色々乱れたる露のしげさに、いにしへの事どもかきつづ け思し出でられて、御袖も濡れつつ、女御の御方に渡りたま へり。こまやかなる鈍色の御直衣姿にて、世の中の騒がしき

などことつけたまひて、やがて御精進なれば、数珠ひき隠し て、さまよくもてなしたまへる、尽きせずなまめかしき御あ りさまにて、御簾の中に入りたまひぬ。御几帳ばかりを隔て て、みづから聞こえたまふ。 「前栽どもこそ残りなく紐と きはべりにけれ。いとものすさまじき年なるを、心やりて時- 知り顔なるもあはれにこそ」とて、柱に寄りゐたまへる夕映 えいとめでたし。昔の御事ども、かの野宮に立ちわづらひし 曙などを聞こえ出でたまふ。いとものあはれと思したり。 宮も、 「かくれば」とにや、すこし泣きたまふけはひいとら うたげにて、うち身じろきたまふほども、あさましく柔かに なまめきておはすべかめる、見たてまつらぬこそ口惜しけれ と、胸のうちつぶるるぞうたてあるや。 「過ぎにし方、こ とに思ひ悩むべき事もなくてはべりぬべかりし世の中にも、 なほ心から、すきずきしきことにつけて、もの思ひの絶えず もはべりけるかな。さるまじきことどもの心苦しきがあまた

はべりし中に、つひに心もとけずむすぼほれてやみぬること、 二つなむはべる。一つは、この過ぎたまひにし御ことよ。あ さましうのみ思ひつめてやみたまひにしが、長き世の愁はし きふしと思ひたまへられしを、かうまでも仕うまつり御覧ぜ らるるをなむ、慰めに思うたまへなせど、燃えし煙のむすぼ ほれたまひけむは、なほいぶせうこそ思うたまへらるれ」
と て、いま一つはのたまひさしつ。源氏「中ごろ、身のなきに沈 みはべりしほど、かたがたに思ひたまへしことは、片はしづ つかなひにたり。東の院にものする人の、そこはかとなくて 心苦しうおぼえわたりはべりしも、おだしう思ひなりにては べり。心ばへの憎からぬなど、我も人も見たまへあきらめて、 いとこそさはやかなれ。かくたち帰り、おほやけの御後見仕 うまつるよろこびなどは、さしも心に深くしまず、かやうな るすきがましき方は、しづめがたうのみはべるを、おぼろけ に思ひ忍びたる御後見とは思し知らせたまふらむや。あはれ

とだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」とのたま へば、むつかしうて、御答へもなければ、 「さりや。あな 心う」とて、他事に言ひ紛らはしたまひつ。 「今は、いか でのどやかに、生ける世の限り、思ふこと残さず、後の世の 勤めも心にまかせて籠りゐなむと思ひはべるを、この世の思 ひ出にしつべきふしのはべらぬこそ、さすがに口惜しうはべ りぬべけれ、数ならぬ幼き人のはべる、生ひ先いと待ち遠な りや。かたじけなくとも、なほこの門ひろげさせたまひて、 はべらずなりなむ後にも数まへさせたまへ」など聞こえたま ふ。御答へは、いとおほどかなるさまに、からうじて一言ば かりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるに、聞きつ きて、しめじめと暮るるまでおはす。 春秋優劣論に、女御、秋を好しとする 「はかばかしき方の望みはさるものにて、 年の内ゆきかはる時々の花紅葉、空のけし きにつけても、心のゆくこともしはべりに

しがな。春の花の林、秋の野の盛りを、とりどりに人あらそ ひはべりける、そのころのげにと心寄るばかりあらはなる定 めこそはべらざなれ。唐土には、春の花の錦にしくものなし と言ひはべめり。やまと言の葉には、秋のあはれをとりたて て思へる、いづれも時々につけて見たまふに、目移りてえこ そ花鳥の色をも音をもわきまへはべらね。狭き垣根の内なり とも、そのをりの心見知るばかり、春の花の木をも植ゑわた し、秋の草をも掘り移して、いたづらなる野辺の虫をもすま せて、人に御覧ぜさせむと思ひたまふるを、いづ方にか御心 寄せはべるべからむ」
と聞こえたまふに、いと聞こえにくき ことと思せど、むげに絶えて御答へ聞こえたまはざらんもう たてあれば、 「ましていかが思ひ分きはべらむ。げにいつ となき中に、あやしと聞きし夕こそ、はかなう消えたまひに し露のよすがにも思ひたまへられぬべけれ」と、しどけなげ にのたまひ消つもいとらうたげなるに、え忍びたまはで、

「君もさはあはれをかはせ人しれずわが身にしむる秋 の夕風 忍びがたきをりをりもはべるかし」と聞こえたまふに、いづ この御答へかはあらむ、心得ずと思したる御気色なり。この ついでに、え籠めたまはで恨みきこえたまふことどもあるべ し。いますこし、ひがこともしたまひつべけれども、いとう たてとおぼいたるもことわりに、わが御心も若々しうけしか らずと思し返して、うち嘆きたまへるさまの、もの深うなま めかしきも、心づきなうぞ思しなりぬる。やをらづつひき入 りたまひぬるけしきなれば、 「あさましうもうとませたま ひぬるかな。まことに心深き人はかくこそあらざなれ。よし、 今よりは憎ませたまふなよ。つらからむ」とて、渡りたまひ ぬ。うちしめりたる御匂ひのとまりたるさへ、うとましく思 さる。人々、御格子など参りて、 「この御褥の移り香、言ひ 知らぬものかな」 「いかでかく、とり集め、柳の枝に咲かせ

たる御ありさまならん。ゆゆしう」
と聞こえあへり。  対に渡りたまひて、とみにも入りたまはず、いたうながめ て、端近う臥したまへり。燈籠遠くかけて、近く人々さぶら はせたまひて、物語などせさせたまふ。かうあながちなるこ とに胸塞がる癖のなほありけるよ、とわが身ながら思し知ら る。 「これはいと似げなきことなり。恐ろしう罪深き方は多 うまさりけめど、いにしへのすきは、思ひやり少なきほどの 過ちに、仏神もゆるしたまひけん」と思しさますも、なほこ の道はうしろやすく深き方のまさりけるかな、と思し知られ たまふ。  女御は、秋のあはれを知り顔に答へきこえてけるも、悔し う恥づかしと、御心ひとつにものむつかしうて、悩ましげに さへしたまふを、いとすくよかにつれなくて、常よりも親が りありきたまふ。女君に、 「女御の、秋に心を寄せたまへ りしもあはれに、君の、春の曙に心しめたまへるもことわり

にこそあれ。時々につけたる木草の花に寄せても、御心とま るばかりの遊びなどしてしがな」
と、 「公私の営みしげ き身こそふさはしからね、いかで思ふことしてしがな」と、 「ただ、御ためさうざうしくやと思ふこそ心苦しけれ」など 語らひきこえたまふ。 源氏、大堰を訪れ、明石の君と歌をかわす 山里の人も、いかになど、絶えず思しやれ ど、ところせさのみまさる御身にて、渡り たまふこといと難し。 「世の中を、あぢき なくうし、と思ひ知る気色、などかさしも思ふべき。心やす く立ち出でて、おほぞうの住まひはせじ、と思へるを、おほ けなし」とは思すものから、いとほしくて、例の不断の御念- 仏にことつけて渡りたまへり。  住み馴るるままに、 いと心すごげなる所の さまに、いと深からざ

らむことにてだにあはれ添ひぬべし。まして見たてまつるに つけても、つらかりける御契りのさすがに浅からぬを思ふに、 なかなかにて慰めがたき気色なれば、こしらへかねたまふ。 いと木繁き中より、篝火どもの影の、遣水の螢に見えまがふ もをかし。 「かかる住まひにしほじまざらましかば、めづ らかにおぼえまし」とのたまふに、 「いさりせし影わすられぬかがり火は身のうき舟やし たひきにけん 思ひこそまがへられはべれ」と聞こゆれば、 「あさからぬしたの思ひをしらねばやなほかがり火の かげはさわげる 誰うきもの」とおし返し恨みたまふ。おほかたもの静かに思 さるるころなれば、尊きことどもに御心とまりて、例よりは 日ごろ経たまふにや、すこし思ひ紛れけむとぞ。
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