源氏物語

二条の東院成り、花散里などを住まわせる

The Wind in the Pines

東の院造りたてて、花散里と聞こえし、 移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて、 政所家司など、あるべきさまにしおかせた まふ。東の対は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は、 ことに広く造らせたまひて、かりにてもあはれと思して、行 く末かけて契り頼めたまひし人々集ひ住むべきさまに、隔て 隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見どころありて、 こまかなり。寝殿は塞げたまはず、時々渡りたまふ御住み所 にして、さる方なる御しつらひどもしおかせたまへり。 明石の入道娘のために大堰の邸を修築する 明石には御消息絶えず、今はなほ上りぬべ きことをばのたまへど、女はなほわか身の ほどを思ひ知るに、 「こよなくやむごとな

き際の人々だに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれ なきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばか りのおぼえなりとてかさし出でまじらはむ。この若君の御面- 伏せに、数ならぬ身のほどこそあらはれめ。たまさかに這ひ 渡りたまふついでを待つことにて、人わらへにはしたなきこ といかにあらむ」
と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる 所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれ ば、ひたすらにもえ恨み背かず。親たちもげにことわりと思 ひ嘆くに、なかなか心も尽きはてぬ。  昔、母君の御祖父、中務宮と聞こえけるが領じたまひけ る所、大堰川のわたりにありけるを、その御後はかばかし う相継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの 時より伝はりて宿守のやうにてある人を呼びとりて語らふ。 「世の中を今はと思ひはてて、かかる住まひに沈みそめし かども、末の世に思ひかけぬ事出で来てなん、さらに都の住

み処求むるを、にはかにまばゆき人中いとはしたなく、田舎 びにける心地も靜かなるまじきを、古き所尋ねてとなむ思ひ よる。さるべき物は上げ渡さむ。修理などして、形のごと、 人住みぬべくは繕ひなされなむや」
と言ふ。預り、 「この年 ごろ、領ずる人もものしたまはず、あやしき藪になりてはべ れば、下屋にぞ繕ひて宿りはべるを、この春のころより、内 の大殿の造らせたまふ御堂近くて、かのわたりなむ、いとけ 騒がしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多く の人なむ造り営みはべるめる。静かなる御本意ならば、それ や違ひはべらむ」 「何か。それも、かの殿の御蔭にかたか けて、と思ふことありて。おのづからおひおひに内のことど もはしてむ。まづ急ぎておほかたの事どもをものせよ」と言 ふ。 「みづから領ずる所にはべらねど、また知り伝へたま ふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ隠ろへはべ りつるなり。御庄の田畠などいふことのいたづらに荒れは

べりしかば、故民部大輔の君に申し賜はりて、さるべき物な ど奉りてなん、領じ作りはべる」
など、そのあたりの貯へ のことどもをあやふげに思ひて、鬚がちにつなし憎き顔を、 鼻などうち赤めつつはちぶき言へば、 「さらにその田など やうのことはここに知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひても のせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を棄てた る身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのこともいま 詳しくしたためむ」など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、 わづらはしくて、その後、物など多く受け取りてなん急ぎ造 りける。  かやうに思ひ寄るらんとも知りたまはで、上らむことをも のうがるも心得ず思し、若君のさてつくづくとものしたまふ を、後の世に人の言ひ伝へん、いま一際人わろき瑕にや、と 思ほすに、造り出でてぞ、 「しかじかの所をなむ思ひ出でた る」と聞こえさせける。人にまじらはむことを、苦しげにの

みものするは、かく思ふなりけり、と心得たまふ。口惜しか らぬ心の用意かなと、思しなりぬ。  惟光朝臣、例の忍ぶる道は、いつとなくいろひ仕うまつ る人なれば遣はして、さるべきさまに、ここかしこの用意な どせさせたまひけり。 「あたりをかしうて、海づらに通ひ たる所のさまになむはべりける」と聞こゆれば、さやうの住 まひによしなからずはありぬべし、と思す。造らせたまふ御- 堂は、大覚寺の南に当りて、滝殿の心ばへなど劣らずおもし ろき寺なり。これは川づらに、えもいはぬ松蔭に、何のいた はりもなく建てたる寝殿のことそぎたるさまも、おのづから 山里のあはれを見せたり。内のしつらひなどまで思しよる。 京より迎えの使者下る 明石一家の哀歓 親しき人々、いみじう忍びて下し遣わす。 のがれ難くて、いまはと思ふに、年経つる 浦を離れなむことあはれに、入道の心細く て独りとまらんことを思ひ乱れて、よろづに悲し。すべてな

どかく心づくしになりはじめけむ身にかと、露のかからぬた ぐひうらやましくおぼゆ。親たちも、かかる御迎へにて上 る幸ひは、年ごろ寝ても覚めても願ひわたりし心ざしのかな ふと、いとうれしけれど、あひ見で過ぐさむいぶせさの、た へがたう悲しければ、夜昼思ひほれて、同じことをのみ、 「さらば若君をば見たてまつらでははべるべきか」と言ふ よりほかのことなし。母君もいみじうあはれなり。年ごろだ に、同じ庵にも住まずかけ離れつれば、まして誰によりてか は、かけとどまらむ。ただ、あだにうち見る人の、あさはか なる語らひだに、みなれそなれて、別るるほどはただならざ めるを、まして、もてひがめたる頭つき、心おきてこそ頼も しげなけれど、またさる方に、これこそは世を限るべき住み 処なれと、ありはてぬ命を限りに思ひて、契り過ぐしきつる を、にはかに行き離れなむも心細し。若き人々のいぶせう思 ひ沈みつるは、うれしきものから、見捨てがたき浜のさまを、

またはえしも帰らじかし、と寄する波にそへて、袖濡れがち なり。 出発の朝の贈答 入道の別離の言葉 秋のころほひなれば、もののあはれとり重 ねたる心地して、その日とある暁に、秋風 涼しくて虫の音もとりあへぬに、海の方を 見出だしてゐたるに、入道、例の後夜より深う起きて、鼻す すりうちして行ひいましたり。いみじう言忌すれど、誰も誰 もいと忍びがたし。若君は、いともいともうつくしげに、夜- 光りけむ玉の心地して、袖より外に放ちきこえざりつるを、 見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかく人 に違へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらで は、いかでか過ぐさむとすらむ、とつつみあへず。 「ゆくさきをはるかに祈るわかれ路にたえぬは老のな みだなりけり いともゆゆしや」とて、おしのごひ隠す。尼君、

もろともに都は出できこのたびやひとり野中のみちにま どはん とて泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契りかはし てつもりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼み て棄てし世に帰るも、思へばはかなしや。御方、 「いきてまたあひ見むことをいつとてかかぎりもしら ぬ世をばたのまむ 送りにだに」と切にのたまへど、かたがたにつけて、えさる まじきよしを言ひつつ、さすがに道のほどもいとうしろめた なき気色なり。 「世の中を棄てはじめしに、かかる他の国 に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやう に明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもや、と思ひたま へたちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多 かりしかば、さらに都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、 貧しき家の蓬葎、もとのありさまあらたむることもなきもの

から、公私にをこがましき名を弘めて、親の御亡き影を辱 づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を棄てつる門出 なりけり、と人にも知られにしを、その方につけては、よう 思ひ放ちてけり、と思ひはべるに、君のやうやう大人びたま ひ、もの思ほし知るべきにそへては、などかう口惜しき世界 にて錦を隠しきこゆらんと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりは べりしままに、仏神を頼みきこえて、さりともかうつたなき 身にひかれて、山がつの庵にはまじりたまはじ、と思ふ心ひ とつを頼みはべりしに、思ひよりがたくてうれしきことども を見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかう ざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君の、かう出でおはしま したる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまは むもいとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たて まつらざらむ心まどひはしづめがたけれど、この身は長く世 を棄てし心はべり、君たちは世を照らしたまふべき光しるけ

れば、しばしかかる山がつの心を乱りたまふばかりの御契り こそはありけめ、天に生まるる人の、あやしき三つの途に帰 るらむ一時に思ひなづらへて、今日長く別れたてまつりぬ。 命尽きぬと聞こしめすとも、後の事思しいとなむな。避らぬ 別れに御心動かしたまふな」
と言ひ放つものから、 「煙と もならむ夕まで、若君の御ことをなむ、六時の勤めにもなほ 心きたなくうちまぜはべりぬべき」とて、これにぞうちひそ みぬる。 明石の浦を出立 大堰の邸に移り住む 御車は、あまたつづけむもところせく、か たへづつ分けむもわづらはしとて、御供の 人々もあながちに隠ろへ忍ぶれば、舟にて 忍びやかに、と定めたり。辰の刻に舟出したまふ。昔の人もあ はれと言ひける浦の朝霧、隔たりゆくままにいともの悲しく て、入道は、心澄みはつまじくあくがれながめゐたり。ここ ら年を経て、いまさらに帰るも、なほ思ひ尽きせず、尼君は

泣きたまふ。 かの岸に心よりにしあま舟のそむきしかたにこぎか へるかな 御方、 いくかへりゆきかふ秋をすぐしつつうき木にのりて われかへるらん  思ふ方の風にて、限りける日違へず入りたまひぬ。人に見- 咎められじの心もあれば、道のほども軽らかにしなしたり。 家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれ ば、所かへたる心地もせず。昔のこと思ひ出でられて、あは れなること多かり。造りそへたる廊など、ゆゑあるさまに、 水の流れもをかしうしなしたり。まだこまやかなるにはあら ねども、住みつかばさてもありぬべし。親しき家司に仰せた まひて、御設けのことせさせたまひけり。渡りたまはむこと は、とかう思したばかるほどに日ごろ経ぬ。なかなかもの思

ひつづけられて、捨てし家ゐも恋しうつれづれなれば、かの 御形見の琴を掻き鳴らす。をりのいみじう忍びがたければ、 人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響 きあひたり。尼君もの悲しげにて寄り臥したまへるに、起き あがりて、 身をかへてひとりかへれる山ざとに聞きしににたる 松風ぞふく 御方、 ふる里に見しよのともを恋ひわびてさへづることを たれかわくらん 源氏、大堰訪問の口実を作る 紫の上不満 かやうにものはかなくて明かし暮らすに、 大臣、なかなか静心なく思さるれば、人目 をもえ憚りあへたまはで渡りたまふを、女- 君は、かくなむとたしかに知らせたてまつりたまはざりける を、例の、聞きもやあはせたまふとて消息聞こえたまふ。

「桂に見るべきことはべるを、いさや、心にもあらでほど 経にけり。とぶらはむと言ひし人さへ、かのわたり近く来ゐ て待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも、飾なき 仏の御とぶらひすべければ、二三日ははべりなん」と聞こえ たまふ。桂の院といふ所、にはかに造らせたまふと聞くは、 そこに据ゑたまへるにやと思すに、心づきなければ、 「斧の柄さへあらためたまはむほどや、待ち遠に」と、心ゆか ぬ御気色なり。 「例のくらべ苦しき御心。いにしへのあり さまなごりなし、と世人も言ふなるものを」何やかやと御心 とりたまふほどに、日たけぬ。 源氏、大堰を訪れ、明石の君と再会する 忍びやかに、御前疎きはまぜで、御心づか ひして渡りたまひぬ。黄昏時におはし着き たり。狩の御衣にやつれたまへりしだに、 世に知らぬ心地せしを、まして、さる御心してひきつくろひ たまへる御直衣姿、世になくなまめかしう、まばゆき心地す

れば、思ひむせべる心の闇も晴るるやうなり。めづらしうあ はれにて、若君を見たまふも、いかが浅く思されん。今まで 隔てける年月だに、あさましく悔しきまで思ほす。大殿腹 の君を、うつくしげなり、と世人もて騒ぐは、なほ時世によ れば、人の見なすなりけり。かくこそは、すぐれたる人の山- 口はしるかりけれと、うち笑みたる顔の何心なきが、愛敬づ きにほひたるを、いみじうらうたしと思す。乳母の、下りし ほどはおとろへたりし容貌、ねびまさりて、月ごろの御物語 など馴れ聞こゆるを、あはれに、さる塩屋のかたはらに過ぐ しつらむことを思しのたまふ。 「ここにも、いと里離れて、 渡らむことも難きを、なほかの本意ある所に移ろひたまへ」 とのたまへど、 「いとうひうひしきほど過ぐして」と聞こ ゆるもことわりなり。夜一夜、よろづに契り語らひ明かした まふ。 源氏、造園などを指図し、尼君をねぎらう

繕ふべき所、所の預り、いま加へたる家司 などに仰せらる。桂の院に渡りたまふべし とありければ、近き御庄の人々、参り集ま りたりけるも、みな尋ね参りたり。前栽どもの折れ臥したる など繕はせたまふ。 「ここかしこの立て石どもも、みな転 び失せたるを、情ありてしなさば、をかしかりぬべき所かな。 かかる所をわざとつくろふもあいなきわざなり。さても過ぐ しはてねば、立つ時ものうく心とまる、苦しかりき」など、 来し方のことものたまひ出でて、泣きみ笑ひみうちとけのた まへる、いとめでたし。尼君、のぞきて見たてまつるに、老 も忘れ、もの思ひもはるる心地してうち笑みぬ。  東の渡殿の下より出づる水の心ばへ繕はせたまふとて、 いとなまめかしき袿姿うちとけたまへるを、いとめでたうう れしと見たてまつるに、閼伽の具などのあるを見たまふに思 し出でて、 「尼君はこなたにか。いとしどけなき姿なりけ

りや」
とて、御直衣召 し出でて奉る。几帳の もとに寄りたまひて、 「罪軽く生ほしたて たまへる人のゆゑは、御行ひのほどあはれにこそ思ひなしき こゆれ。いといたく思ひ澄ましたまへりし御住み処を捨てて、 うき世に帰りたまへる心ざし浅からず。またかしこには、 いかにとまりて思ひおこせたまふらむと、さまざまになむ」 といとなつかしうのたまふ。 「棄てはべりし世を、いまさ らにたち帰り、思ひたまへ乱るるを、推しはからせたまひけ れば、命長さのしるしも思ひたまへ知られぬる」とうち泣き て、 「荒磯蔭に心苦しう思ひきこえさせはべりし二葉の松 も、今は頼もしき御生ひ先、と祝ひきこえさするを、浅き根 ざしゆゑやいかが、とかたがた心尽くされはべる」など聞こ ゆるけはひよしなからねば、昔物語に、親王の住みたまひけ

るありさまなど語らせたまふに、繕はれたる水の音なひかご とがましう聞こゆ。 すみなれし人はかへりてたどれども清水はやどのあ るじ顔なる わざとはなくて言ひ消つさま、みやびかによしと聞きたまふ。 「いさらゐははやくのことも忘れじをもとのあるじや 面がはりせる あはれ」とうちながめて立ちたまふ姿にほひ、世に知らずと のみ思ひきこゆ。 源氏明石の君と唱和 姫君の将来を考える 御寺に渡りたまうて、月ごとの十四五日、 晦日の日行はるべき普賢講、阿弥陀釈迦の 念仏の三昧をばさるものにて、またまた加 へ行はせたまふべき事など、定めおかせたまふ。堂の飾、仏 の御具などめぐらし仰せらる。月の明かきに帰りたまふ。 ありし夜のこと、思し出でらるるをり過ぐさず、かの琴の

御琴さし出でたり。そこはかとなくものあはれなるに、え忍 びたまはで掻き鳴らしたまふ。まだ調べも変らず、ひき返し、 そのをり今の心地したまふ。 契りしにかはらぬことのしらべにて絶えぬこころの ほどは知りきや 女、 かはらじと契りしことをたのみにて松のひびきに音 をそへしかな と聞こえかはしたるも、似げなからぬこそは、身に余りたる ありさまなめれ。こよなうねびまさりにける容貌けはひ、思 ほし棄つまじう、若君、はた、尽きもせずまぼられたまふ。 「いかにせまし。隠ろへたるさまにて生ひ出でむが、心苦し う口惜しきを、二条院に渡して、心のゆく限りもてなさば、 後のおぼえも罪免れなむかし」と思ほせど、また思はむこと いとほしくて、えうち出でたまはで、涙ぐみて見たまふ。幼

き心地に、すこし恥ぢらひたりしが、やうやううちとけて、 もの言ひ笑ひなどして睦れたまふを見るままに、にほひまさ りてうつくし。抱きておはするさま、見るかひありて、宿世 こよなしと見えたり。 源氏、大堰を去る その堂々たる風貌 またの日は京へ帰らせたまふべければ、す こし大殿籠り過ぐして、やがてこれより出 でたまふべきを、桂の院に人々多く参り集 ひて、ここにも殿上人あまた参りたり。御装束などしたまひ て、 「いとはしたなきわざかな。かく見あらはさるべき隈 にもあらぬを」とて、騒がしきに引かれて出でたまふ。心苦 しければ、さりげなく紛らはして立ちとまりたまへる戸口に、 乳母若君抱きてさし出でたり。あはれなる御気色にかき撫で たまひて、 「見ではいと苦しかりぬべきこそいとうちつけ なれ。いかがすべき。いと里遠しや」とのたまへば、 「遙 かに思ひたまへ絶えたりつる年ごろよりも、今からの御もて

なしのおぼつかなうはべらむは心づくしに」
など聞こゆ。若- 君手をさし出でて、立ちたまへるを慕ひたまへば、突いゐた まひて、 「あやしう、もの思ひ絶えぬ身にこそありけれ。 しばしにても苦しや。いづら。などもろともに出でては惜し みたまはぬ。さらばこそ人心地もせめ」とのたまへば、うち 笑ひて、女君にかくなむと聞こゆ。なかなかもの思ひ乱れて 臥したれば、とみにしも動かれず。あまり上衆めかしと思し たり。人々もかたはらいたがれば、しぶしぶにゐざり出でて、 几帳にはた隠れたるかたはら目、いみじうなまめいてよしあ り。たをやぎたるけはひ、皇女たちと言はむにも足りぬべし。 帷子ひきやりて、こまやかに語らひたまふとて、とばかりか へり見たまへるに、さこそしづめつれ、見送りきこゆ。言は む方なきさかりの御容貌なり。いたうそびやぎたまへりしが、 すこしなりあふほどになりたまひにける御姿など、かくてこ そものものしかりけれと、御指貫の裾まで、なまめかしう

愛敬のこぼれ出づるぞ、あながちなる見なしなるべき。  かの解けたりし蔵人も、還りなりにけり。靫負の尉にて、 今年冠得てけり。昔に改め、心地よげにて御佩刀取りに寄 り来たり。人影を見つけて、 「来し方のもの忘れしはべ らねど、かしこければえこそ。浦風おぼえはべりつる暁の寝- 覚にも、おどろかしきこえさすべきよすがだになくて」と気- 色ばむを、 「八重たつ山は、さらに島がくれにも劣らざり けるを、松も昔の、とたどられつるに、忘れぬ人もものした まひけるに頼もし」など言ふ。 「こよなしや。我も思ひなき にしもあらざりしを」など、あさましうおぼゆれど、 「い まことさらに」とうちけざやぎて参りぬ。 源氏、桂の院に赴き饗応する 帝歌を賜う いとよそほしくさし歩みたまふほど、かし がましう追ひ払ひて、御車の後に頭中将- 兵衛督乗せたまふ。 「いと軽々しき隠れ 処見あらはされぬるこそねたう」と、いたうからがりたまふ。

「よべの月に、口惜しう御供に後れはべりにけると思ひ たまへられしかば、今朝、霧を分けて参りはべりつる。山の 錦はまだしうはべりけり。野辺の色こそ盛りにはべりけれ。 なにがしの朝臣の、小鷹にかかづらひて立ち後れはべりぬる、 いかがなりぬらむ」など言ふ。今日は、なほ桂殿にとて、そ なたざまにおはしましぬ。にはかなる御饗応と騒ぎて、鵜飼 ども召したるに、海人のさへづり思し出でらる。野にとまり ぬる君達、小鳥しるしばかりひきつけさせたる荻の枝など苞 にして参れり。大御酒あまたたび順流れて、川のわたりあや ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。おのおの絶- 句など作りわたして、月はなやかにさし出づるほどに、大御- 遊びはじまりて、いと今めかし。弾き物、琵琶和琴ばかり、 笛ども、上手のかぎりして、をりにあひたる調子吹きたつる ほど、川風吹きあはせておもしろきに、月高くさし上がり、 よろづのこと澄める夜の、やや更くるほどに、殿上人四五人

ばかり連れて参れり。上にさぶらひけるを、御遊びありける ついでに、 「今日は六日の御物忌あく日にて、必ず参りたま ふべきを、いかなれば」と仰せられければ、ここにかうとま らせたまひにけるよし聞こしめして、御消息あるなりけり。 御使は蔵人弁なりけり。 「月のすむ川のをちなる里なればかつらのかげはのど けかるらむ うらやましう」とあり。かしこまりきこえさせたまふ。上の 御遊びよりも、なほ所がらのすごさ添へたる物の音をめでて、 また酔ひ加はりぬ。ここには設けの物もさぶらはざりければ、 大堰に、 「わざとならぬ設け の物や」と、言ひ遣はしたり。 とりあへたるに従ひて参らせ たり。衣櫃二荷にてあるを、 御使の弁はとく帰り参れば、

女の装束かづけたまふ。 久かたのひかりに近き名のみしてあさゆふ霧も晴れ ぬ山里 行幸待ちきこえたまふ心ばへなるべし。 「中に生ひたる」 とうち誦じたまふついでに、かの淡路島を思し出でて、躬恒 が、 「所がらか」とおぼめきけむことなどのたまひ出でたる に、ものあはれなる酔泣きどもあるべし。 めぐり来て手にとるばかりさやけきや淡路の島のあ はと見し月 頭中将、 うき雲にしばしまがひし月かげのすみはつるよぞのどけ かるべき 左大弁、すこし大人びて、故院の御時にも睦ましう仕うまつ り馴れし人なりけり、 雲のうへのすみかをすててよはの月いづれの谷に

かげかくしけむ
心々にあまたあめれど、うるさくてなむ。け近ううち静まり たる御物語すこしうち乱れて、千年も見聞かまほしき御あり さまなれば、斧の柄も朽ちぬべけれど、今日さへは、とて急 ぎ帰りたまふ。物ども品々にかづけて、霧の絶え間に立ちま じりたるも、前栽の花に見えまがひたる色あひなど、ことに めでたし。近衛府の名高き舎人、物の節どもなどさぶらふに、 さうざうしければ、 「その駒」など乱れ遊びて、脱ぎかけた まふ色々、秋の錦を風の吹きおほふかと見ゆ。ののしりて帰 らせたまふ響き、大堰には物隔てて聞きて、なごりさびしう ながめたまふ。御消息をだにせで、と大臣も御心にかかれり。 源氏帰邸 姫君の引き取りを紫の上に相談 殿におはして、とばかりうち休みたまふ。 山里の御物語など聞こえたまふ。 「暇- 聞こえしほど過ぎつれば、いと苦しうこそ。 このすき者どもの尋ね来て、いといたう強ひとどめしにひか

されて。今朝はいと悩まし」
とて、大殿籠れり。例の、心と けず見えたまへど、見知らぬやうにて、 「なずらひならぬ ほどを思しくらぶるも、わるきわざなめり。我は我と思ひな したまへ」と教へきこえたまふ。暮れかかるほどに、内裏へ 参りたまふに、ひきそばめて急ぎ書きたまふは、かしこへな めり。側目こまやかに見ゆ。うちささめきて遣はすを、御達 など憎みきこゆ。  その夜は内裏にもさぶらひたまふべけれど、とけざりつる 御気色とりに、夜更けぬれどまかでたまひぬ。ありつる御返 り持て参れり。えひき隠したまはで御覧ず。ことに憎かるべ き節も見えねば、 「これ破り隠したまへ。むつかしや。か かるものの散らむも、今はつきなきほどになりにけり」とて、 御脇息に寄りゐたまひて、御心の中には、いとあはれに恋し う思しやらるれば、灯をうちながめて、ことにものものたま はず。文は広ごりながらあれど、女君見たまはぬやうなるを、

「せめて見隠したまふ御眼尻こそわづらはしけれ」とてう ち笑みたまへる、御愛敬ところせきまでこぼれぬべし。さし 寄りたまひて、 「まことは、らうたげなるものを見しかば、 契り浅くも見えぬを、さりとてものめかさむほども憚り多か るに、思ひなむわづらひぬる。同じ心に思ひめぐらして、御- 心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。ここにてはぐくみたま ひてんや。蛙の子が齢にもなりにけるを。罪なきさまなるも、 思ひ棄てがたうこそ。いはけなげなる下つかたも、紛らはさ むなど思ふを、めざましと思さずはひき結ひたまへかし」 と聞こえたまふ。 「思はずにのみとりなしたまふ御心の 隔てを、せめて見知らずうらなくやは、とてこそ。いはけな からん御心には、いとようかなひぬべくなん。いかにうつく しきほどに」とて、すこしうち笑みたまひぬ。児をわりなう らうたきものにしたまふ御心なれば、得て抱きかしづかばや、 と思す。

 いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。渡りたまふこ といとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ちいでて、月に二- 度ばかりの御契りなめり。年の渡りには、たちまさりぬべか めるを、及びなきことと思へども、なほいかがもの思はしか らぬ。
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