源氏物語

風雨やまず京より紫の上の使者来る

Akashi

なほ雨風やまず、雷鳴り静まらで、日ごろ になりぬ。いとどものわびしきこと数知ら ず、来し方行く先悲しき御ありさまに、心 強うしもえ思しなさず、 「いかにせまし、かかりとて都に帰 らんことも、まだ世に赦されもなくては、人笑はれなること こそまさらめ。なほこれより深き山をもとめてや跡絶えなま し」と思すにも、 「浪風に騒がれてなど、人の言ひ伝へんこ と、後の世まで、いと軽々しき名をや流しはてん」と思し乱 る。御夢にも、ただ同じさまなる物のみ来つつ、まつはしき こゆと見たまふ。雲間もなくて明け暮るる日数にそへて、京 の方もいとどおぼつかなく、かくながら身をはふらかしつる にやと、心細う思せど、頭さし出づべくもあらぬ空の乱れに、

出で立ち参る人もなし。  二条院よりぞ、あながちに、あやしき姿にてそぼち参れる。 道交ひにてだに、人か何ぞとだに御覧じわくべくもあらず、 まづ追ひ払ひつべき賤の男の、睦ましうあはれに思さるるも、 我ながらかたじけなく、屈しにける心のほど思ひ知らる。御- 文に、 「あさましく小止みなきころのけしきに、いとど空 さへ閉づる心地して、ながめやる方なくなむ。   浦風やいかに吹くらむ思ひやる袖うちぬらし波間なきこ   ろ」 あはれに悲しきことども書き集めたまへり。ひき開くるより、 いとど汀まさりぬべく、かきくらす心地したまふ。 「京にも、この雨風、いとあやしき物のさとしなりとて、 仁王会など行はるべしとなむ聞こえはべりし。内裏に参り たまふ上達部なども、すべて道閉ぢて、政も絶えてなむは べる」など、はかばかしうもあらず、かたくなしう語りなせ

ど、京の方のことと思せば、いぶかしうて、御前に召し出で て問はせたまふ。 「ただ、例の、雨の小止みなく降りて、風 は時々吹き出でつつ、日ごろになりはべるを、例ならぬ事に 驚きはべるなり。いとかく地の底徹るばかりの氷降り、雷 の静まらぬことははべらざりき」など、いみじきさまに驚き 怖ぢてをる顔の、いとからきにも心細さぞまさりける。 暴風雨つのり、高潮襲来、廊屋に落雷する かくしつつ世は尽きぬべきにやと思さるる に、そのまたの日の暁より風いみじう吹き、 潮高う満ちて、浪の音荒きこと、巌も山も 残るまじきけしきなり。雷の鴫りひらめくさまさらに言はむ 方なくて、落ちかかりぬとおぼゆるに、あるかぎりさかしき 人なし。 「我はいかなる罪を犯してかく悲しき目を見るら む。父母にもあひ見ず、かなしき妻子の顔をも見で死ぬべき こと」と嘆く。君は御心を静めて、何ばかりの過ちにてかこ の渚に命をばきはめん、と強う思しなせど、いともの騒がし

ければ、いろいろ の幣帛捧げさせた まひて、 「住吉 の神、近き境を鎮 め護りたまふ。ま ことに迹を垂れたまふ神ならば助けたまへ」と、多くの大願 を立てたまふ。おのおのみづからの命をばさるものにて、か かる御身のまたなき例に沈みたまひぬべきことのいみじう悲 しきに、心を起こして、少しものおぼゆるかぎりは、身に代 へてこの御身ひとつを救ひたてまつらむととよみて、もろ声 に仏神を念じたてまつる。 「帝王の深き宮に養はれたまひ て、いろいろの楽しみに驕りたまひしかど、深き御うつくし み、大八洲にあまねく、沈める輩をこそ多く浮かべたまひし か。今何の報いにか、ここら横さまなる浪風にはおぼほれた まはむ。天地ことわりたまへ。罪なくて罪に当り、官位をと

られ、家を離れ、境を去りて、明け暮れやすき空なく嘆きた まふに、かく悲しき目をさへ見、命尽きなんとするは、前の 世の報いか、この世の犯しか、神仏明らかにましまさば、 この愁へやすめたまへ」
と、御社の方に向きてさまざまの願 を立てたまふ。また海の中の龍王、よろづの神たちに願を立 てさせたまふに、いよいよ鳴りとどろきて、おはしますにつ づきたる廊に落ちかかりぬ。炎燃えあがりて廊は焼けぬ。心- 魂なくて、あるかぎりまどふ。背後の方なる大炊殿と思し き屋に移したてまつりて、上下となく立ちこみて、いとらう がはしく、泣きとよむ声雷にもおとらず。空は墨をすりた るやうにて日も碁れにけり。 風雨静まる源氏、夢に父桐壺院を見る やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光 も見ゆるに、この御座所のいとめづらかな るも、いとかたじけなくて、寝殿に返し移 したてまつらむとするに、 「焼け残りたる方もうとましげ

に、そこらの人の踏みとどろかしまどへるに、御簾などもみ な吹き散らしてけり」
「夜を明かしてこそは」と、たどり あへるに、君は御念誦したまひて、思しめぐらすに、いと心 あわたたし。月さし出でて、潮の近く満ち来ける跡もあらは に、なごりなほ寄せかへる浪荒きを、柴の戸おし開けてなが めおはします。近き世界に、ものの心を知り、来し方行く先 のことうちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。 あやしき海人どもなどの、貴き人おはする所とて、集まり参 りて、聞きも知りたまはぬことどもをさへづりあへるも、い とめづらかなれど、え追ひも払はず。 「この風いましばし 止まざらましかば、潮上りて残る所なからまし。神の助けお ろかならざりけり」と言ふを聞きたまふも、いと心細しと言 へばおろかなり。   海にます神のたすけにかからずは潮のやほあひにさ  すらへなまし

終日にいりもみつる雷の騒ぎに、さこそいへ、いたう困じた まひにければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。かたじけ なき御座所なれば、ただ寄りゐたまへるに、故院ただおはし まししさまながら立ちたまひて、 「などかくあやしき所に はものするぞ」とて、御手を取りて引き立てたまふ。 「住吉の 神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りね」との たまはす。いとうれしくて、 「かしこき御影に別れたてま つりにしこなた、さまざま悲しき事のみ多くはべれば、今は この渚に身をや棄てはべりなまし」と聞こえたまへば、 「い とあるまじきこと。これはただいささかなる物の報いなり。 我は位に在りし時、過つことなかりしかど、おのづから犯し ありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世をかへり みざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、たへがたくて、 海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかるついでに 内裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」とて、立

ち去りたまひぬ。  飽かず悲しくて、御供に参りなんと泣き入りたまひて、見- 上げたまへれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢 の心地もせず、御けはひとまれる心地して、空の雲あはれに たなびけり。年ごろ夢の中にも見たてまつらで、恋しうおぼ つかなき御さまを、ほのかなれど、さだかに見たてまつりつ るのみ面影におぼえたまひて、我かく悲しびをきはめ、命尽 きなんとしつるを、助けに翔りたまへるとあはれに思すに、 よくぞかかる騒ぎもありけると、なごり頼もしう、うれしう おぼえたまふこと限りなし。胸つと塞がりて、なかなかなる 御心まどひに、現の悲しき事もうち忘れ、夢にも御答へをい ますこし聞こえずなりぬることと、いぶせさに、またや見え たまふと、ことさらに寝入りたまへど、さらに御目もあはで、 暁方になりにけり。 入道に迎えられ、明石の浦に移る

渚に小さやかなる舟寄せて、人二三人ばか り、この旅の御宿をさして来。何人なら むと問へば、 「明石の浦より、前の守新- 発意の、御舟よそひて参れるなり。源少納言さぶらひたまは ば、対面して事の心とり申さん」と言ふ。良清驚きて、 「入- 道はかの国の得意にて、年ごろあひ語らひはべれど、私にい ささかあひ恨むる事はべりて、ことなる消息をだに通はさで、 久しうなりはべりぬるを、浪のまぎれに、いかなることかあ らむ」とおぼめく。君の、御夢なども思しあはすることもあ りて、 「はや会へ」とのたまへば、舟に行きて会ひたり。 さばかりはげしかりつる浪風に、いつの間にか舟出しつらむ と、心えがたく思へり。   「去ぬる朔日の夢に、さまことなる物の告げ知らする ことはべりしかば、信じがたきことと思うたまへしかど、『十- 三日にあらたなるしるし見せむ。舟よそひ設けて、必ず、雨-

風止まばこの浦にを寄せよ』と、かねて示すことのはべりし かば、こころみに舟のよそひを設けて待ちはべりしに、いか めしき雨風、雷のおどろかしはべりつれば、他の朝廷にも、 夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを、用ゐさせた まはぬまでも、このいましめの日を過ぐさず、このよしを告 げ申しはべらんとて、舟出だしはべりつるに、あやしき風細 う吹きて、この浦に着きはべること、まことに神のしるべ違 はずなん。ここにも、もし知ろしめすことやはべりつらんと てなむ。いと憚り多くはべれど、このよし申したまへ」
と 言ふ。  良清しのびやかに伝へ申す。君思しまはすに、夢現さまざ ま静かならず、さとしのやうなる事どもを、来し方行く末思 しあはせて、 「世の人の聞き伝へん後のそしりも安からざる べきを憚りて、まことの神の助けにもあらむを、背くものな らば、またこれよりまさりて、人笑はれなる目をや見む。現

の人の心だになほ苦し。はかなき事をもつつみて、我より齢 まさり、もしは位高く、時世の寄せいま一きはまさる人には、 靡き従ひて、その心むけをたどるべきものなりけり。退きて 咎なしとこそ、昔のさかしき人も言ひおきけれ、げにかく命 をきはめ、世にまたなき目の限りを見尽くしつ。さらに後の あとの名をはぶくとても、たけきこともあらじ。夢の中にも 父帝の御教へありつれば、また何ごとか疑はむ」
と思して、 御返りのたまふ。   「知らぬ世界に、めづらしき愁への限り見つれど、都の 方よりとて、言問ひおこする人もなし。ただ行く方なき空の 月日の光ばかりを、古里の友とながめはべるに、うれしき釣- 舟をなむ。かの浦に静やかに隠ろふべき隈はべりなんや」と のたまふ。限りなくよろこび、かしこまり申す。 「ともあ れかくもあれ、夜の明けはてぬさきに御舟に奉れ」とて、例 の親しきかぎり四五人ばかりして奉りぬ。例の風出で来て、

飛ぶやうに明石に着きたまひぬ。ただ這ひ渡るほどに、片時 の間と言へど、なほあやしきまで見ゆる風の心なり。 入道の住まいの風情、都に劣らず 浜のさま、げにいと心ことなり。人しげう 見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。入道 の領じ占めたる所どころ、海のつらにも山- 隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行ひを して後の世のことを思ひすましつべき山水のつらに、いかめ しき堂を立てて三昧を行ひ、この世の設けに、秋の田の実を 刈り収め残りの齢積むべき稲の倉町どもなど、をりをり所に つけたる見どころありてしあつめたり。高潮に怖ぢて、この ごろ、むすめなどは岡辺の宿に移して住ませければ、この浜 の館に心やすくおはします。  舟より御車に奉り移るほど、日やうやうさし上りて、ほの かに見たてまつるより、老忘れ齢のぶる心地して、笑みさか えて、まづ住吉の神をかつがつ拝みたてまつる。月日の光を

手に得たてまつりたる心地して、営み仕うまつることことわ りなり。所のさまをばさらにもいはず、作りなしたる心ばへ、 木立立石前栽などのありさま、えもいはぬ入江の水など、 絵にかかば、心のいたり少なからん絵師は描き及ぶまじと見 ゆ。月ごろの御住まひよりは、こよなく明らかに、なつかし き御しつらひなどえならずして、住まひけるさまなど、げに 都のやむごとなき所どころに異ならず、艶にまばゆきさまは、 まさりざまにぞ見ゆる。 紫の上へ消息を送る 源氏の心なごむ すこし御心静まりては、京の御文ども聞こ えたまふ。参れりし使は、今は、 「いみ じき道に出で立ちて悲しき目をみる」と泣 き沈みて、あの須磨にとまりたるを、召して、身にあまれる 物ども多く賜ひて遣はす。睦ましき御祈祷の師ども、さるべ き所どころには、このほどの御ありさま、くはしく言ひ遣は すべし。入道の宮ばかりには、めづらかにて蘇るさまなど聞

こえたまふ。二条院のあはれなりしほどの御返りは、書きも やりたまはず、うち置きうち置きおし拭ひつつ聞こえたまふ 御気色、なほことなり。   「かへすがへすいみじき目の限りを見尽くしはてつるあ りさまなれば、今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど、 『鏡を見ても』とのたまひし面影の離るる世なきを、かくお ぼつかなながらや、とここら悲しきさまざまの愁はしさはさ しおかれて、   はるかにも思ひやるかな知らざりし浦よりをちに浦づた   ひして 夢の中なる心地のみして、覚めはてぬほど、いかにひが言多 からむ」と、げにそこはかとなく書き乱りたまへるしもぞ、 いと見まほしき側目なるを、いとこよなき御心ざしのほど、 と人々見たてまつる。おのおの、古里に、心細げなる言伝て すべかめり。小止みなかりし空のけしき、なごりなく澄みわ

たりて、あさりする海人どもほこらしげなり。須磨はいと心- 細く、海人の岩屋もまれなりしを、人しげき厭ひはしたまひ しかど、ここは、また、さまことにあはれなること多くて、 よろづに思し慰まる。 明石の入道の人柄とその思惑 明石の入道、行ひ勤めたるさま、いみじう 思ひすましたるを、ただこのむすめ一人を もてわづらひたるけしき、いとかたはらい たきまで、時々もらし愁へ聞こゆ。御心地にもをかしと聞き おきたまひし人なれば、かくおぼえなくてめぐりおはしたる も、さるべき契りあるにやと思しなから、なほかう身を沈め たるほどは、行ひよりほかの事は思はじ、都の人も、ただな るよりは、言ひしに違ふと思さむも心恥づかしう思さるれば、 気色だちたまふことなし。事にふれて、心ばせありさまなべ てならずもありけるかなと、ゆかしう思されぬにしもあらず。  ここにはかしこまりて、みづからもをさをさ参らず、もの

隔たりたる下の屋にさぶらふ。さるは明け暮れ見たてまつら まほしう、飽かず思ひきこえて、いかで思ふ心をかなへむ、 と仏神をいよいよ念じたてまつる。年は六十ばかりになりた れど、いときよげに、あらまほしう、行ひさらぼひて、人の ほどのあてはかなればにやあらむ、うちひがみほれぼれしき ことはあれど、古昔のことをも見知りて、ものきたなからず、 よしづきたる事もまじれれば、昔物語などせさせて聞きたま ふに、すこしつれづれの紛れなり。年ごろ公私御暇なく て、さしも聞きおきたまはぬ世の古事どもくづし出でて、か かる所をも人をも、見ざらましかばさうざうしくやとまで、 興ありと思すこともまじる。  かうは馴れきこゆれど、いと気高う心恥づかしき御ありさ まに、さこそ言ひしか、つつましうなりて、わが思ふことは 心のままにもえうち出で聞こえぬを、心もとなう口惜しと、 母君と言ひあはせて嘆く。正身は、おしなべての人だにめや

すきは見えぬ世界に、世にはかかる人もおはしけりと見たて まつりしにつけて、身のほど知られて、いとはるかにぞ思ひ きこえける。親たちのかく思ひあつかふを聞くにも、似げな きことかな、と思ふに、ただなるよりはものあはれなり。 初夏の月夜源氏、琴を弾き入道と語る 四月になりぬ。更衣の御装束、御帳の帷子 など、よしあるさまにしいづ。よろづに仕 うまつり営むを、いとほしうすずろなりと 思せど、人ざまのあくまで思ひあがりたるさまのあてなるに、 思しゆるして見たまふ。  京よりも、うちしきりたる御とぶらひども、たゆみなく多 かり。のどやかなる夕月夜に、海の上曇りなく見えわたれる も、住み馴れたまひし古里の池水に、思ひまがへられたまふ に、言はむ方なく恋しきこと、いづ方となく行く方なき心地 したまひて、ただ目の前に見やらるるは、淡路島なりけり。 「あはとはるかに」などのたまひて、

あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄め   る夜の月 久しう手ふれたまはぬ琴を、袋より取り出でたまひて、はか なく掻き鳴らしたまへる御さまを、見たてまつる人もやすか らずあはれに悲しう思ひあへり。  広陵といふ手をあるかぎり弾き澄ましたまへるに、かの 岡辺の家も、松の響き波の音にあひて、心ばせある若人は身 にしみて思ふべかめり。何とも聞きわくまじきこのもかのも のしはふる人どもも、すずろはしくて浜風をひき歩く。入道 もえたへで、供養法たゆみて急ぎ参れり。 「さらに、背きにし世の中もとり返し思ひ出でぬべくは べり。後の世に頼ひはべる所のありさまも、思うたまへやら るる夜のさまかな」と、泣く泣くめできこゆ。わか御心にも、 をりをりの御遊び、その人かの人の琴笛、もしは声の出でし さま、時々につけて、世にめでられたまひしありさま、帝よ

りはじめたてまつりて、もてかしづきあがめたてまつりたま ひしを、人の上もわか御身のありさまも、思し出でられて、 夢の心地したまふままに、掻き鳴らしたまへる声も、心すご く聞こゆ。ふる人は涙もとどめあへず、岡辺に琵琶箏の琴 取りにやりて、入道、琵琶の法師になりて、いとをかしうめ づらしき手一つ二つ弾き出でたり。箏の御琴参りたれば、す こし弾きたまふも、さまざまいみじうのみ思ひきこえたり。 いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものな るを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかな か、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂 れる蔭どもなまめかしきに、水鶏のうちたたきたるは、誰が 門さして、とあはれにおぼゆ。  音もいと二なう出づる琴どもを、いとなつかしう弾き鳴ら したるも、御心とまりて、 「これは、女のなつかしきさま にてしどけなう弾きたるこそをかしけれ」と、おほかたにの

たまふを、入道はあいなくうち笑みて、 「遊ばすよりなつ かしきさまなるは、いづこのかはべらん。なにがし、延喜の 御手より弾き伝へたること三代になんなりはべりぬるを、か うつたなき身にて、この世のことは棄て忘れはべりぬるを、 ものの切にいぶせきをりをりは、掻き鳴らしはべりしを、あ やしうまねぶ者のはべるこそ、自然にかの前大王の御手に通 ひてはべれ。山伏のひが耳に松風を聞きわたしはべるにやあ らん。いかで、これ忍びて聞こしめさせてしがな」と聞こゆ るままに、うちわななきて涙落すべかめり。  君、 「琴を琴とも聞きたまふまじかりけるあたりに。ねた きわざかな」とて、押しやりたまふに、 「あやしう昔より 箏は女なん弾きとる物なりける。嵯峨の御伝へにて、女五の 宮さる世の中の上手にものしたまひけるを、その御筋にて、 とり立てて伝ふる人なし。すべてただ今世に名を取れる人々、 かきなでの心やりばかりにのみあるを、ここにかう弾きこめ

たまへりける、いと興ありけることかな。いかでかは聞くべ き」
とのたまふ。 「聞こしめさむには何の憚りかはべらん。 御前に召しても。商人の中にてだにこそ、古ごと聞きはやす 人ははべりけれ。琵琶なむ、まことの音を弾きしづむる人い にしへも難うはべりしを、をさをさとどこほることなう、な つかしき手など筋ことになん。いかでたどるにかはべらん。 荒き浪の声にまじるは、悲しくも思うたまへられながら、か き集むるもの嘆かしさ、紛るるをりをりもはべり」など、す きゐたれば、をかしと思して、箏の琴とりかへて賜はせたり。 げにいとすぐして掻い弾きたり。  今の世に聞こえぬ筋弾きつけて、手づかひいといたう唐め き、揺の音深う澄ました り。伊勢の海ならねど、 清き渚に貝や拾はむなど、 声よき人にうたはせて、

我も時々拍子とりて、声うち添へたまふを、琴弾きさしつつ めできこゆ。御くだものなどめづらしきさまにて参らせ、人- 人に酒強ひそしなどして、おのづからもの忘れしぬべき夜の さまなり。 入道、娘への期待を源氏に打ち明ける いたく更けゆくままに、浜風涼しうて、月 も入り方になるままに澄みまさり、静かな るほどに、御物語残りなく聞こえて、この 浦に住みはじめしほどの心づかひ、後の世を勤むるさまかき くづし聞こえて、このむすめのありさま、問はず語りに聞こ ゆ。をかしきものの、さすがにあはれと聞きたまふ節もあり。 「いととり申しがたきことなれど、わが君、かうおぼえな き世界に、仮にても移ろひおはしましたるは、もし、年ごろ 老法師の祈り申しはべる神仏の憐びおはしまして、しばしの ほど御心をも悩ましたてまつるにやとなん思うたまふる。そ のゆゑは、住吉の神を頼みはじめたてまつりて、この十八年

になりはべりぬ。女の童のいときなうはべりしより、思ふ心 はべりて、年ごとの春秋ごとに必ずかの御社に参ることなむ はべる。昼夜の六時の勤めに、みづからの蓮の上の願ひをば さるものにて、ただこの人を高き本意かなへたまへとなん念 じはべる。前の世の契りつたなくてこそかく口惜しき山がつ となりはべりけめ、親、大臣の位をたもちたまへりき。みづ からかく田舎の民となりにてはべり。次々さのみ劣りまから ば、何の身にかなりはべらんと、悲しく思ひはべるを、これ は生まれし時より頼むところなんはべる。いかにして都の貴 き人に奉らんと思ふ心深きにより、ほどほどにつけて、あま たの人のそねみを負ひ、身のためからき目をみるをりをりも 多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。『命の限りは せばき衣にもはぐくみはべりなむ。かくながら見捨てはべり なば、浪の中にもまじり失せね』となん掟てはべる」
など、 すべてまねぶべくもあらぬ事どもを、うち泣きうち泣き聞こ

ゆ。君もものをさまざま思しつづくるをりからは、うち涙ぐ みつつ聞こしめす。 「横さまの罪に当りて、思ひかけぬ世界に漂ふも、何の 罪にかとおぼつかなく思ひつるを、今宵の御物語に聞きあは すれば、げに浅からぬ前の世の契りにこそはとあはれになむ。 などかは、かくさだかに思ひ知りたまひけることを、今まで は告げたまはざりつらむ。都離れし時より、世の常なきもあ ぢきなう、行ひよりほかの事なくて月日を経るに、心もみな くづほれにけり。かかる人ものしたまふとはほの聞きながら、 いたづら人をば、ゆゆしきものにこそ思ひ棄てたまふらめ、 と思ひ屈しつるを、さらば導きたまふべきにこそあなれ。心- 細き独り寝の慰めにも」などのたまふを、限りなくうれしと 思へり。    「ひとり寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのう   らさびしさを

まして年月思ひたまへわたるいぶせさを、推しはからせたま へ」
と聞こゆるけはひ、うちわななきたれど、さすがにゆゑ なからず。  「されど浦なれたまへらむ人は」とて、   旅ごろもうらがなしさにあかしかね草の枕は夢もむ   すばず と、うち乱れたまへる御さまは、いとぞ愛敬づき、いふよし なき御けはひなる。  数知らぬ事ども聞こえ尽くしたれど、うるさしや。ひが事 どもに書きなしたれば、いとどをこにかたくなしき入道の心 ばへも、あらはれぬべかめり。 源氏、入道の娘に文を遣わす 娘の思案 思ふことかつがつかなひぬる心地して、涼 しう思ひゐたるに、またの日の昼つ方、岡- 辺に御文遣はす。心恥づかしきさまなめる も、なかなかかかるものの隈にぞ思ひの外なることも籠るべ かめると、心づかひしたまひて、高麗の胡桃色の紙に、えな

らずひきつくろひて、   「をちこちも知らぬ雲ゐにながめわびかすめし宿の梢   をぞとふ 思ふには」とばかりやありけん。入道も、人知れず待ちきこ ゆとて、かの家に来ゐたりけるもしるければ、御使いとまば ゆきまで酔はす。御返りいと久し。  内に入りてそそのかせど、むすめはさらに聞かず。いと恥 づかしげなる御文のさまに、さし出でむ手つきも恥づかしう つつましう、人の御ほどわが身のほど思ふにこよなくて、心- 地あしとて寄り臥しぬ。言ひわびて入道ぞ書く。 「いとか しこきは、田舎びてはべる袂に、つつみあまりぬるにや。さ らに見たまへも及びはべらぬかしこさになん。さるは、   ながむらん同じ雲ゐをながむるは思ひもおなじ思ひなる   らむ となん見たまふる。いとすきずきしや」と聞こえたり。陸奥-

国紙に、いたう古めきたれど、書きざまよしばみたり。げに もすきたるかなと、めざましう見たまふ。御使に、なべてな らぬ玉裳などかづけたり。  またの日、 「宣旨書きは見知らずなん」とて、   「いぶせくも心にものをなやむかなやよやいかにと問   ふ人もなみ 言ひがたみ」と、この度は、いといたうなよびたる薄様に、 いとうつくしげに書きたまへり。若き人のめでざらむも、い とあまり埋れいたからむ。めでたしとは見れど、なずらひな らぬ身のほどの、いみじうかひなければ、なかなか世にある ものと尋ね知りたまふにつけて、涙ぐまれて、さらに、例の、 動なきを、せめて言はれて、浅からずしめたる紫の紙に、墨 つき濃く薄く紛らはして、   思ふらん心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きか   なやまむ

手のさま書きたるさまなど、やむごとなき人にいたうおとる まじう上衆めきたり。  京のことおぼえて、をかしと見たまへど、うちしきりて遣 はさむも、人目つつましければ、二三日隔てつつ、つれづれ なる夕暮れ、もしはものあはれなる曙などやうに紛らはして、 をりをり人も同じ心に見知りぬべきほど推しはかりて、書き かはしたまふに、似げなからず。心深う思ひあがりたる気色 も、見ではやまじと思すものから、良清が領じて言ひし気色 もめざましう、年ごろ心つけてあらむを、目の前に思ひ違へ んもいとほしう思しめぐらされて、人進み参らばさる方にて も紛らはしてんと思せど、女はた、なかなかやむごとなき際 の人よりもいたう思ひあがりて、ねたげにもてなしきこえた れば、心くらべにてぞ過ぎける。  京のことを、かく関隔たりては、いよいよおぼつかなく思 ひきこえたまひて、いかにせまし、戯れにくくもあるかな、

忍びてや迎へたてまつりてましと、思し弱るをりをりあれど、 さりともかくてやは年を重ねんと、今さらに人わろきことを ばと、思ししづめたり。 朱雀帝、桐壺院の幻を見て御目を病む その年、朝廷に物のさとししきりて、もの 騒がしきこと多かり。三月十三日、雷鳴り ひらめき雨風騒がしき夜、帝の御夢に、院 の帝、御前の御階の下に立たせたまひて、御気色いとあしう て睨みきこえさせたまふを、かしこまりておはします。聞こ えさせたまふことども多かり。源氏の御ことなりけんかし。 いと恐ろしう、いとほしと思して、后に聞こえさせたまひけ れば、 「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなる事 はさぞはべる。軽々しきやうに、思し驚くまじきこと」と聞 こえたまふ。  睨みたまひしに目見あはせたまふと見しけにや、御目わづ らひたまひて、たへ難う悩みたまふ。御つつしみ、内裏にも

宮にも限りなくせさせたまふ。  太政大臣亡せたまひぬ。ことわりの御齢なれど、次々に おのづから騒がしき事あるに、大宮もそこはかとなうわづら ひたまひて、ほど経れば弱りたまふやうなる、内裏に思し嘆 くことさまざまなり。 「なほこの源氏の君、まことに犯しな きにてかく沈むならば、必ずこの報いありなんとなむおぼえ はべる。今はなほもとの位をも賜ひてむ」とたびたび思しの たまふを、 「世のもどき軽々しきやうなるべし。罪に怖ぢ て都を去りし人を、三年をだに過ぐさず赦されむことは、世 の人もいかが言ひ伝へはべらん」など、后かたく諫めたまふ に思し憚るほどに、月日重なりて、御悩みどもさまざまに重 りまさらせたまふ。 入道の娘や親たち、思案にくれる 明石には、例の、秋は浜風の異なるに、独 り寝もまめやかにものわびしうて、入道に もをりをり語らはせたまふ。 「とかく紛

らはして、こち参らせよ」
とのたまひて、渡りたまはむこと をばあるまじう思したるを、正身はたさらに思ひ立つべくも あらず。「いと口惜しき際の田舎人こそ、仮に下りたる人 のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふわざをもす なれ、人数にも思されざらんものゆゑ、我はいみじきもの思 ひをや添へん。かく及びなき心を思へる親たちも、世ごもり て過ぐす年月こそ、あいな頼みに行く末心にくく思ふらめ、 なかなかなる心をや尽くさむ」と思ひて、「ただこの浦にお はせんほど、かかる御文ばかりを聞こえかはさむこそおろか ならね。年ごろ音にのみ聞きて、いつかはさる人の御ありさ まをほのかにも見たてまつらんなど思ひかけざりし御住まひ にて、まほならねど、ほのかにも見たてまつり、世になきも のと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き、明け暮れの御 ありさまおぼつかなからで、かくまで世にあるものと思した づぬるなどこそ、かかる海人の中に朽ちぬる身にあまること

なれ」など思ふに、いよいよ恥づかしうて、つゆもけ近きこ とは思ひ寄らず。  親たちは、ここらの年ごろの祈りのかなふべきを思ひなが ら、ゆくりかに見せたてまつりて思し数まへざらん時、いか なる嘆きをかせんと思ひやるに、ゆゆしくて、めでたき人と 聞こゆとも、つらういみじうもあるべきかな、目に見えぬ仏- 神を頼みたてまつりて、人の御心をも宿世をも知らでなど、 うち返し思ひ乱れたり。君は、 「このごろの波の音にかの物 の音を聞かばや。さらずはかひなくこそ」など常はのたまふ。 八月十三夜源氏、入道の娘を訪う 忍びてよろしき日みて、母君のとかく思ひ わづらふを聞きいれず、弟子どもなどにだ に知らせず、心ひとつに立ちゐ、輝くばか りしつらひて、十三日の月のはなやかにさし出でたるに、た だ 「あたら夜の」と聞こえたり。君はすきのさまやと思せど、 御直衣奉りひきつくろひて夜ふかして出でたまふ。御車は

二なく作りたれど、ところせしとて御馬にて出でたまふ。惟- 光などばかりをさぶらはせたまふ。やや遠く入る所なりけり。 道のほども四方の浦々見わたしたまひて、思ふどち見まほし き入江の月影にも、まづ恋しき人の御ことを思ひ出で聞こえ たまふに、やがて馬引き過ぎて赴きぬべく思す。   秋の夜のつきげの駒よわが恋ふる雲ゐをかけれ時の   まも見ん とうち独りごたれたまふ。  造れるさま木深く、いたき所まさりて見どころある住まひ なり。海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住み たるさま、ここにゐて思ひのこすことはあらじと思しやら るるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声松風に響き あひてもの悲しう、巌に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさ まなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのあり さまなど御覧ず。むすめ住ませたる方は、心ことに磨きて、

月入れたる真木の戸口けしきばかりおし開けたり。  うちやすらひ何かとのたまふにも、かうまでは見えたてま つらじと深う思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、 「こよなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、 かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、 いとかくやつれたるにあなづらはしきにや」と、ねたうさま ざまに思しなやめり。 「情なうおし立たむも、事のさまに違 へり。心くらべに負けんこそ人わろけれ」など、乱れ恨みた まふさま、げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。近 き几帳の紐に、箏の琴のひき鳴らされたるも、けはひしどけ なく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしけ れば、 「この聞きならしたる琴をさへや」など、よろづに のたまふ。   むつごとを語りあはせむ人もがなうき世の夢もなか   ばさむやと

明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわき   て語らむ ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり。何- 心もなくうちとけてゐたりけるを、かうものおぼえぬに、い とわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけ るにかいと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。さ れどさのみもいかでかあらむ。人ざまいとあてにそびえて、 心恥づかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契りを 思すにも、浅からずあはれなり。御心ざしの近まさりするな るべし、常は厭はしき夜の 長さも、とく明けぬる心地 すれば、人に知られじと思 すも、心あわたたしうて、 こまかに語らひおきて出で たまひぬ。

御文いと忍びてぞ今日はある。あいなき御心の鬼なりや。 ここにも、かかる事いかで漏らさじとつつみて、御使ことご としうももてなさぬを、胸いたく思へり。かくて後は、忍びつ つ時々おはす。ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言 ひさがなき海人の子もや立ちまじらんと思し憚るほどを、さ ればよと思ひ嘆きたるを、げに、いかならむと、入道も極楽 の願ひをば忘れて、ただこの御気色を待つことにはす。今さ らに心を乱るも、いといとほしげなり。 都の紫の上に、明石の君の事をほのめかす 二条の君の、風の伝てにも漏り聞きたまは むことは、戯れにても心の隔てありけると 思ひうとまれたてまつらんは、心苦しう恥 づかしう思さるるも、あながちなる御心ざしのほどなりかし。 かかる方のことをば、さすがに心とどめて恨みたまへりしを りをり、などてあやなきすさび事につけても、さ思はれたて まつりけむなど、とり返さまほしう、人のありさまを見たま

ふにつけても、恋しさの慰む方なければ、例よりも御文こま やかに書きたまひて、奥に、 「まことや、我ながら心より 外なるなほざりごとにて、疎まれたてまつりしふしぶしを、 思ひ出づるさへ胸いたきに、またあやしうものはかなき夢を こそ見はべりしか。かう聞こゆる問はず語りに、隔てなき心 のほどは思しあはせよ。誓ひしことも」など書きて、 「何 ごとにつけても、   しほしほとまづぞ泣かるるかりそめのみるめはあまのす   さびなれども」 とある御返り、何心なくらうたげに書きて、 「忍びかね たる御夢語につけても、思ひあはせらるること多かるを、   うらなくも思ひけるかな契りしを松より浪は越えじもの   ぞと」 おいらかなるものから、ただならずかすめたまへるを、いと あはれにうち置きがたく見たまひて、なごり久しう、忍びの

旅寝もしたまはず。 源氏、紫の上を思う 明石の君の嘆き 女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も 投げつべき心地する。行く末短げなる親ば かりを頼もしきものにて、何時の世に人な みなみになるべき身とは思はざりしかど、ただそこはかとな くて過ぐしつる年月は、何ごとをか心をも悩ましけむ、かう いみじうもの思はしき世にこそありけれと、かねて推しはか り思ひしよりもよろづに悲しけれど、なだらかにもてなして、 憎からぬさまに見えたてまつる。あはれとは月日にそへて思 しませど、やむごとなき方のおぼつかなくて、年月を過ぐし たまふが、ただならずうち思ひおこせたまふらむが、いと心 苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ。絵をさまざま 描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りごと聞くべきさ まにしなしたまへり。見む人の心にしみぬべき物のさまなり。 いかでか空に通ふ御心ならむ、二条の君も、ものあはれに慰

む方なくおぼえたまふをりをり、同じやうに絵を描き集めた まひつつ、やがてわが御ありさま、日記のやうに書きたまへ り。いかなるべき御さまどもにかあらむ。 赦免の宣旨下る 明石の君懐妊する 年かはりぬ。内裏に御薬のことありて、世 の中さまざまにののしる。当帝の御子は、 右大臣のむすめ、承香殿女御の御腹に男御- 子生まれたまへる、二つになりたまへば、いといはけなし。 春宮にこそは譲りきこえたまはめ、朝廷の御後見をし、世を まつりごつべき人を思しめぐらすに、この源氏のかく沈みた まふこといとあたらしうあるまじき事なれば、つひに后の御- 諫を背きて、赦されたまふべき定め出で来ぬ。去年より、后 も御物の怪悩みたまひ、さまざまの物のさとししきり、騒が しきを、いみじき御つつしみどもをしたまふしるしにや、よ ろしうおはしましける御目の悩みさへこのごろ重くならせた まひて、もの心細く思されければ、七月二十余日のほどに、

また重ねて京へ帰りたまふべき宣旨くだる。  つひの事と思ひしかど、世の常なきにつけても、いかにな りはつべきにかと嘆きたまふを、かうにはかなれば、うれし きにそへても、またこの浦を今はと思ひ離れむことを思し嘆 くに、入道、さるべきことと思ひながら、うち聞くより胸ふ たがりておぼゆれど、思ひのごと栄えたまはばこそは、わが 思ひのかなふにはあらめなど、思ひなほす。  そのころは夜離れなく語らひたまふ。六月ばかりより心苦 しきけしきありて悩みけり。かく別れたまふべきほどなれば、 あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれにおぼして、 あやしうもの思ふべき身にもありけるかなと思し乱る。女は さらにもいはず思ひ沈みたり。いとことわりなりや。思ひの 外に悲しき道に出で立ちたまひしかど、つひには行きめぐり 来なむと、かつは思し慰めき。このたびはうれしき方の御出- 立の、またやは帰りみるべきと思すに、あはれなり。

さぶらふ人々、ほどほどにつけてはよろこび思ふ。京より も御迎へに人々参り、心地よげなるを、主の入道涙にくれて、 月も立ちぬ。ほどさへあはれなる空のけしきに、なぞや心づ から今も昔もすずろなることにて身をはふらかすらむと、さ まざまに思し乱れたるを、心知れる人々は、 「あな憎。例の 御癖ぞ」と、見たてまつりむつかるめり。 「月ごろは、つ ゆ人に気色見せず、時々這ひ紛れなどしたまへるつれなさを、 このごろあやにくに、なかなかの、人の心づくしに」と、つ きしろふ。少納言、しるべして聞こえ出でしはじめの事など ささめきあへるを、ただならず思へり。 源氏、明石の君と琴を弾き別れを惜しむ 明後日ばかりになりて、例のやうにいたく もふかさで渡りたまへり。さやかにもまだ 見たまはぬ容貌など、いとよしよししう気 高きさまして、めざましうもありけるかなと、見棄てがたく 口惜しうおぼさる。さるべきさまにして迎へむと思しなりぬ。

さやうにぞ語らひ慰めたまふ。男の御容貌ありさま、はたさ らにも言はず、年ごろの御行ひにいたく面痩せたまへるしも、 言ふ方なくめでたき御ありさまにて、心苦しげなる気色にう ち涙ぐみつつ、あはれ深く契りたまへるは、ただかばかりを 幸ひにても、などかやまざらむとまでぞ見ゆめれど、めでた きにしも、わか身のほどを思ふも尽きせず。波の声、秋の風 にはなほ響きことなり。塩焼く煙かすかにたなびきて、とり 集めたる所のさまなり。   このたびは立ちわかるとも藻塩やくけぶりは同じか   たになびかむ とのたまへば、    かきつめてあまのたく藻の思ひにも今はかひなきう   らみだにせじ あはれにうち泣きて、言少ななるものから、さるべきふしの 御答へなど浅からず聞こゆ。この常にゆかしがりたまふ物の

音などさらに聞かせたてまつらざりつるを、いみじう恨みた まふ。 「さらば、形見にも忍ぶばかりの一ことをだに」と のたまひて、京より持ておはしたりし琴の御琴取りに遣はし て、心ことなる調べをほのかに掻き鳴らしたまへる、深き夜 の、澄めるはたとへん方なし。入道、えたへで箏の琴取りて さし入れたり。みづからもいとど涙さへそそのかされて、と どむべき方なきに、さそはるるなるべし、忍びやかに調べた るほどいと上衆めきたり。入道の宮の御琴の音をただ今のま たなきものに思ひきこえたるは、今めかしう、あなめでたと、 聞く人の心ゆきて、容貌さへ思ひやらるることは、げにいと 限りなき御琴の音なり。これは、あくまで弾き澄まし、心に くくねたき音ぞまされる。この御心にだにはじめてあはれに なつかしう、まだ耳馴れたまはぬ手など心やましきほどに弾 きさしつつ、飽かず思さるるにも、月ごろ、など強ひても聞 きならさざりつらむ、と悔しう思さる。心の限り行く先の契

りをのみしたまふ。 「琴はまた掻き合はするまでの形見に」 とのたまふ。女、    なほざりに頼めおくめる一ことをつきせぬ音にやかけて   しのばん 言ふともなき口ずさびを恨みたまひて、    「逢ふまでのかたみに契る中の緒のしらべはことに変   らざらなむ この音違はぬさきに必ずあひ見む」と頼めたまふめり。され ど、ただ別れむほどのわりなさを思ひむせたるも、いとこと わりなり。 源氏、明石の浦を去る 明石一族の悲しみ 立ちたまふ暁は、夜深く出でたまひて、御- 迎への人々も騒がしければ、心も空なれど、 人間をはからひて、 うちすててたつも悲しき浦波のなごりいかにと思ひ やるかな

御返り、   年へつる苫屋も荒れてうき波のかへるかたにや身を   たぐへまし とうち思ひけるままなるを見たまふに、忍びたまへど、ほろ ほろとこぼれぬ。心知らぬ人々は、なほかかる御住まひなれ ど、年ごろといふばかり馴れたまへるを、今はと思すはさも あることぞかし、など見たてまつる。良清などは、おろかな らず思すなむめりかしと、憎くぞ思ふ。  うれしきにも、げに今日を限りにこの渚を別るることなど あはれがりて、口々しほたれ言ひあへることどもあめり。さ れど何かはとてなむ。  入道、今日の御設け、いと厳しう仕うまつれり。人々、下 の品まで、旅の装束めづらしきさまなり。いつの間にかしあ へけむと見えたり。御よそひは言ふべくもあらず、御衣櫃あ また荷さぶらはす。まことの都のつとにしつべき御贈物ど

も、ゆゑづきて、思ひ寄らぬ隈なし。今日奉るべき狩の御- 装束に、   寄る波にたちかさねたる旅ごろもしほどけしとや人   のいとはむ とあるを御覧じつけて、騒がしけれど、   かたみにぞかふべかりける逢ふことの日数へだてん   中のころもを とて、 「心ざしあるを」とて、奉りかふ。御身に馴れたる どもを遣はす。げに今ひとへ忍ばれたまふべきことを添ふる 形見なめり。えならぬ御衣に匂ひの移りたるを、いかが人の 心にもしめざらむ。入道、 「今はと世を離れはべりにし身な れども、今日の御送りに仕うまつらぬこと」など申して、か ひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。   「世をうみにここらしほじむ身となりてなほこの岸を   えこそ離れね

心の闇はいとどまどひぬべくはべれば、境までだに」
と聞こ えて、 「すきずきしきさまなれど、思し出でさせたまふを りはべらば」など、御気色たまはる。いみじうものをあはれ と思して、所どころうち赤みたまへる御まみのわたりなど、 言はむ方なく見えたまふ。 「思ひ棄てがたき筋もあめれば。 いまいととく見なほしたまひてむ。ただこの住み処こそ見棄 てがたけれ。いかがすべき」とて、   都出でし春のなげきにおとらめや年ふる浦をわかれ   ぬる秋 とて、おし拭ひたまへるに、いとどものおぼえず、しほたれ まさる。起居もあさましうよろぼふ。  正身の心地たとふべき方なくて、かうしも人に見えじと思 ひしづむれど、身のうきをもとにて、わりなきことなれど、 うち棄てたまへる恨みのやる方なきに、面影そひて忘れがた きに、たけきこととはただ涙に沈めり。母君も慰めわびて、

「何にかく心づくしなることを 思ひそめけむ。すべてひがひがし き人に従ひける心の怠りぞ」と言 ふ。 「あなかまや。思し棄つま じきこともものしたまふめれば、 さりとも思すところあらむ。思ひ慰めて、御湯などをだに参 れ。あなゆゆしや」とて、片隅に寄りゐたり。乳母、母君な ど、ひがめる心を言ひあはせつつ、「いつしか、いかで思ふ さまにて見たてまつらむと、年月を頼み過ぐし、今や思ひか なふとこそ頼みきこえつれ、心苦しきことをも、もののはじ めにみるかな」と嘆くを見るにも、いとほしければ、いとど ほけられて、昼は日一日寝をのみ寝暮らし、夜はすくよかに 起きゐて、 「数珠の行く方も知らずなりにけり」とて、手をお しすりて仰ぎゐたり。弟子どもにあはめられて、月夜に出で て行道するものは、遣水に倒れ入りにけり。よしある岩の片

そばに、腰もつきそこなひて、病み臥したるほどになん、す こしもの紛れける。 源氏帰京して、権大納言に昇進する 君は難波の方に渡りて御祓したまひて、住- 吉にも、たひらかにて、いろいろの願はた し申すべきよし、御使して申させたまふ。 にはかに、ところせうて、みづからはこの度え詣でたまはず。 ことなる御逍遥などなくて、急ぎ入りたまひぬ。  二条院におはしましつきて、都の人も、御供の人も、夢の心- 地して行きあひ、よろこび泣きもゆゆしきまでたち騒ぎたり。 女君もかひなきものに思し棄てつる命、うれしう思さるらむ かし。いとうつくしげにねびととのほりて、御もの思ひのほ どに、ところせかりし御髪のすこしへがれたるしもいみじう めでたきを、今はかくて見るべきぞかしと、御心落ちゐるに つけては、またかの飽かず別れし人の思へりしさま心苦しう 思しやらる。なほ世とともに、かかる方にて御心の暇ぞなき

や。その人のことどもなど聞こえ出でたまへり。思し出でた る御気色浅からず見ゆるを、ただならずや見たてまつりたま ふらん。わざとならず、 「身をば思はず」などほのめかし たまふぞ、をかしうらうたく思ひきこえたまふ。かつ見るに だに飽かぬ御さまを、いかで隔てつる年月ぞ、とあさましき まで思ほすに、とり返し世の中もいと恨めしうなん。  ほどもなく、もとの御位あらたまりて、数より外の権大納- 言になりたまふ。次々の人も、さるべきかぎりは、もとの官- 還し賜はり世にゆるさるるほど、枯れたりし木の春にあへる 心地して、いとめでたげなり。 源氏参内して、しめやかに帝と物語する 召しありて、内裏に参りたまふ。御前にさ ぶらひたまふに、ねびまさりて、いかでさ るものむつかしき住まひに年経たまひつら む、と見たてまつる。女房などの、院の御時よりさぶらひて、 老いしらへるどもは、悲しくて、今さらに泣き騒ぎめできこ

ゆ。上も、恥づかしうさへ思しめされて、御よそひなど、こ とにひきつくろひて出でおはします。御心地例ならで、日ご ろ経させたまひければ、いたうおとろへさせたまへるを、昨- 日今日ぞすこしよろしう思されける。御物語しめやかにあり て、夜に入りぬ。十五夜の月おもしろう静かなるに、昔のこ とかきつくし思し出でられて、しほたれさせたまふ。もの心- 細く思さるるなるべし。 「遊びなどもせず、昔聞きし物の 音なども聞かで久しうなりにけるかな」とのたまはするに、   わたつ海にしづみうらぶれ蛭の子の脚立たざりし年   はへにけり と聞こえたまへば、いとあはれに心恥づかしう思されて、   宮柱めぐりあひける時しあれば別れし春のうらみの   こすな いとなまめかしき御ありさまなり。  院の御ために、八講行はるべきこと、まづ急かせたまふ。

春宮を見たてまつりたまふに、こよなくおよすけさせたまひ て、めづらしう思しよろこびたるを、限りなくあはれと見た てまつりたまふ。御才もこよなくまさらせたまひて、世をた もたせたまはむに憚りあるまじく、賢く見えさせたまふ。入- 道の宮にも、御心すこし静めて、御対面のほどにも、あはれ なる事どもあらむかし。 源氏、明石へ文を送る 五節と歌の贈答 まことや、かの明石には、返る波につけて 御文遣はす。ひき隠してこまやかに書きた まふめり。 「波のよるよるいかに。   嘆きつつあかしのうらに朝ぎりのたつやと人を思ひやる   かな」  かの帥のむすめの五節、あいなく人知れぬもの思ひさめぬ る心地して、まくなぎつくらせてさし置かせけり。   須磨の浦に心をよせし舟人のやがて朽たせる袖を見  せばや

手などこよなくまさりにけりと、見おほせたまひて、遣はす。   かへりてはかごとやせまし寄せたりしなごりに袖の   ひがたかりしを 飽かずをかしと思ししなごりなれば、おどろかされたまひて いとど思し出づれど、このごろはさやうの御ふるまひさらに つつみたまふめり。花散里などにも、ただ御消息などばかり にて、おぼつかなく、なかなか恨めしげなり。
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