源氏物語

行幸の試楽に、源氏、青海波を舞う

An Autumn Excursion

朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなり。 世の常ならず、おもしろかるべきたびのこ となりければ、御方々、物見たまはぬこと を口惜しがりたまふ。上も、藤壼の見たまはざらむを、あか ず思さるれば、試楽を御前にてせさせたまふ。  源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿 の頭中将、容貌用意人にはことなるを、立ち並びては、な ほ花のかたはらの深山木なり。入り方の日影さやかにさした るに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足 踏面持、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、これや 仏の御迦陵頻伽の声ならむと聞こゆ。おもしろくあはれなる に、帝涙をのごひたまひ、上達部親王たちも、みな泣きた

まひぬ。詠はてて、袖うち なほしたまへるに、待ちと りたる楽のにぎははしきに、 顔の色あひまさりて、常よ りも光ると見えたまふ。春- 宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、 「神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とのた まふを、若き女房などは、心うし、と耳とどめけり。  藤壼は、おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく 見えまし、と思すに、夢の心地なむしたまひける。宮は、や がて御宿直なりける。 「今日の試楽は、青海波に事みな尽き ぬな。いかが見たまひつる」と聞こえたまへば、あいなう、 御答へ聞こえにくくて、 「ことにはべりつ」とばかり聞こ えたまふ。 「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞のさま 手づかひなむ、家の子はことなる。この世に名を得たる舞の

男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋 を、えなむ見せぬ。試みの日かく尽くしつれば、紅葉の蔭や さうざうしくと思へど、見せたてまつらんの心にて、用意せ させつる」
など聞こえたまふ。 翌朝、源氏と藤壷、和歌を贈答する つとめて中将の君、 「いかに御覧じけむ。 世に知らぬ乱り心地ながらこそ。  もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の  袖うちふりし心知りきや あなかしこ」とある御返り、目もあやなりし御さま容貌に、 見たまひ忍ばれずやありけむ、 「から人の袖ふることは遠けれど立ちゐにつけてあは  れとは見き おほかたには」とあるを、限りなうめづらしう、かやうの方 さへたどたどしからず、他の朝廷まで思ほしやれる、御后言- 葉のかねても、とほほ笑まれて、持経のやうにひきひろげて

見ゐたまへり。 朱雀院の舞楽に、源氏妙技を尽くす 行幸には、親王たちなど、世に残る人なく 仕うまつりたまへり。春宮もおはします。 例の楽の船ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗 と尽くしたる舞ども、くさ多かり。楽の声、鼓の音、世をひ びかす。 一日の源氏の御夕影、ゆゆしう思されて、御誦経な ど所どころにせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれが りきこゆるに、春宮の女御は、「あながちなり」と憎みきこえ たまふ。垣代など、殿上人地下も、心ことなりと世人に思は れたる、有職のかぎりととのへさせたまへり。宰相二人、左- 衛門督、右衛門督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、 世になべてならぬをとりつつ、おのおの籠りゐてなむ習ひけ る。  木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、いひ知らず吹き立てた る物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえ

て吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中より、青海波のか かやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉 いたう散りすぎて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、 御前なる菊を折りて、左大将さしかへたまふ。日暮れかかる ほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り 顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々うつろひ、えならぬを かざして、今日はまたなき手を尽くしたる、入り綾のほど、そ ぞろ寒く、この世の事ともおぼえず。もの見知るまじき下人 などの、木のもと岩がくれ、山の木の葉に埋もれたるさへ、 すこしものの心知るは涙落しけり。  承香殿の御腹の四の皇子、まだ童にて、秋風楽舞ひたま へるなむ、さしつぎの見物なりける。これらにおもしろさの 尽きにければ、こと事に目も移らず、かへりてはことざまし にやありけむ。その夜、源氏の中将正三位したまふ。頭中将- 正下の加階したまふ。上達部は、みなさるべきかぎりよろこ

びしたまふも、この君にひかれたまへるなれば、人の目をも 驚かし、心をもよろこばせたまふ、昔の世ゆかしげなり。 源氏と葵の上との仲 紫の上、源氏を慕う 宮は、そのころまかでたまひぬれば、例の、 隙もやとうかがひ歩きたまふを事にて、大- 殿には騒がれたまふ。いとど、かの若草尋 ね取りたまひてしを、 「二条院には人迎へたまふなり」と人 の聞こえければ、いと心づきなしと思いたり。うちうちのあ りさまは知りたまはず、さも思さむはことわりなれど、心う つくしく、例の人のやうに恨みのたまはば、我もうらなくう ち語りて慰めきこえてんものを、思はずにのみとりないたま ふ心づきなさに、さもあるまじきすさびごとも出で来るぞか し。人の御ありさまの、かたほに、そのことのあかぬとおぼ ゆる疵もなし。人よりさきに見たてまつりそめてしかば、あ はれにやむごとなく思ひきこゆる心をも知りたまはぬほどこ そあらめ、つひには思しなほされなむと、おだしくかるがる

しからぬ御心のほども、おのづからと頼まるる方は、ことな りけり。  幼き人は、見ついたまふままに、いとよき心ざま容貌にて、 何心もなく睦れまとはしきこえたまふ。しばし殿の内の人に も誰と知らせじ、と思して、なほ離れたる対に、御しつらひ 二なくして、我も明け暮れ入りおはして、よろづの御事ども を教へきこえたまひ、手本書きて習はせなどしつつ、ただほ かなりける御むすめを迎へたまへらむやうにぞ思したる。政- 所家司などをはじめ、ことにわかちて、心もとなからず仕う まつらせたまふ。惟光よりほかの人は、おぼつかなくのみ思 ひきこえたり。かの父宮も、え知りきこえたまはざりけり。 姫君は、なほ時々思ひ出できこえたまふ時、尼君を恋ひきこ えたまふをり多かり。君のおはするほどは紛らはしたまふを、 夜などは、時々こそとまりたまへ、ここかしこの御いとまな くて、暮るれば出でたまふを、慕ひきこえたまふをりなどあ

るを、いとらうたく思ひきこえたまへり。二三日内裏にさぶ らひ、大殿にもおはするをりは、いといたく屈しなどしたま へば、心苦しうて、母なき子持たらむ心地して、歩きも静心 なくおぼえたまふ。僧都は、かくなむと聞きたまひて、あや しきものから、うれしとなむ思ほしける。かの御法事などし たまふにも、いかめしうとぶらひきこえたまへり。 源氏、三条宮に藤壷をとぶらう 藤壼のまかでたまへる三条宮に、御ありさ まもゆかしうて、参りたまへれば、命婦、 中納言の君、中務などやうの人々対面した り。けざやかにももてなしたまふかなと、やすからず思へど、 しづめて、おほかたの御物語聞こえたまふほどに、兵部卿- 宮参りたまへり。この君おはすと聞きたまひて、対面したま へり。いとよしあるさまして、色めかしうなよびたまへるを、 女にて見むはをかしかりぬべく、人知れず見たてまつりたま ふにも、かたがた睦ましくおぼえたまひて、こまやかに御物-

語など聞こえたまふ。宮も、この御さまの常よりもことにな つかしううちとけたまへるを、いとめでたし、と見たてまつ りたまひて、婿になどは思しよらで、女にて見ばや、と色め きたる御心には思ほす。暮れぬれば御簾の内に入りたまふを、 うらやましく、昔は上の御もてなしに、いとけ近く、人づて ならでものをも聞こえたまひしを、こよなう疎みたまへるも、 つらうおぼゆるぞわりなきや。 「しばしばもさぶらふべけ れど、事ぞとはべらぬほどは、おのづから怠りはべるを、さ るべきことなどは、仰せ言もはべらむこそうれしく」など、 すくすくしうて出でたまひぬ。命婦もたばかりきこえむ方な く、宮の御気色も、ありしよりは、いとどうきふしに思しお きて、心とけぬ御気色も、恥づかしくいとほしければ、何の しるしもなくて過ぎゆく。はかなの契りや、と思し乱るるこ と、かたみに尽きせず。 源氏、幼き紫の上をいとしみ相睦ぶ

少納言は、おぼえずをかしき世を見るかな、 これも故尼上の、この御ことを思して、御- 行ひにも祈りきこえたまひし、仏の御しる しにや、とおぼゆ。大殿、いとやむごとなくておはします、こ こかしこあまたかかづらひたまふをぞ、まことに、大人びた まはむほどは、むつかしきこともや、とおぼえける。されど、 かくとりわきたまへる御おぼえのほどは、いと頼もしげなり かし。御服、母方は三月こそはとて、晦日には脱がせたてま つりたまふを、また、親もなくて生ひ出でたまひしかば、ま ばゆき色にはあらで、紅、紫、山吹の、地のかぎり織れる御- 小袿などを着たまへるさま、いみじう今めかしく、をかしげ なり。  男君は、朝拝に参りたまふとて、さしのぞきたまへり。 「今日よりは、おとなしくなりたまへりや」とて、うち笑 みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛

をしすゑて、そそきゐたまへる、三尺の御厨子一よろひに、 品々しつらひすゑて、また小さき屋ども作り集めて奉りたま へるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。 「儺やらふと て、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ」 とて、いと大事と思いたり。 「げにいと心なき人のしわざ にもはべるなるかな。いまつくろはせはべらむ。今日は言忌 して、な泣いたまひそ」とて、出でたまふ気色ところせき を、人々端に出でて見たてまつれば、姫君も立ち出でて見た てまつりたまひて、雛の中の源氏の君つくろひ立てて、内裏 に参らせなどしたまふ。 「今年だにすこし 大人びさせたまへ。十 にあまりぬる人は、雛- 遊びは忌みはべるもの を、かく御男などまう

けたてまつりたまひては、あるべかしうしめやかにてこそ、 見えたてまつらせたまはめ。御髪まゐるほどをだに、ものう くせさせたまふ」
など、少納言聞こゆ。御遊びにのみ心入れ たまへれば、恥づかしと思はせたてまつらむ、とて言へば、 心の中に、我はさは男まうけてけり、この人々の男とてある は、みにくくこそあれ、我はかくをかしげに若き人をも持た りけるかな、と、今ぞ思ほし知りける。さはいへど、御年の 数添ふしるしなめりかし。かく幼き御けはひの、事にふれて しるければ、殿の内の人々も、あやしと思ひけれど、いとか う世づかぬ御添臥ならむとは思はざりけり。 源氏、左大臣邸に退出 翌日、藤壷へ参賀 内裏より、大殿にまかでたまへれば、例の うるはしうよそほしき御さまにて、心うつ くしき御気色もなく、苦しければ、 「今- 年よりだに、すこし世づきてあらためたまふ御心見えば、い かにうれしからむ」など聞こえたまへど、わざと人すゑてか

しづきたまふ、と聞きたまひしよりは、やむごとなく思し定 めたることにこそはと、心のみおかれて、いとどうとく恥づ かしく思さるべし。しひて見知らぬやうにもてなして、乱れ たる御けはひには、えしも心強からず、御答へなどうち聞こ えたまへるは、なほ人よりはいとことなり。四年ばかりがこ のかみにおはすれば、うちすぐし、恥づかしげに、さかりに ととのほりて見えたまふ。何ごとかはこの人のあかぬところ はものしたまふ、わが心のあまりけしからぬすさびに、かく 恨みられたてまつるぞかし、と思し知らる。同じ大臣と聞こ ゆる中にも、おぼえやむごとなくおはするが、宮腹にひとり いつきかしづきたまふ御心おごり、いとこよなくて、すこし もおろかなるをば、めざましと思ひきこえたまへるを、男君 は、などかいとさしも、と馴らはいたまふ、御心の隔てとも なるべし。  大臣も、かく頼もしげなき御心を、つらしと思ひきこえた

まひながら、見たてまつりたまふ時は、恨みも忘れて、かし づきいとなみきこえたまふ。つとめて、出でたまふところに、 さしのぞきたまひて、御装束したまふに、名高き御帯、御手 づから持たせて、渡りたまひて、御衣の後ひきつくろひなど、 御沓を取らぬばかりにしたまふ、いとあはれなり。 「こ れは、内宴などいふこともはべるなるを、さやうのをりにこ そ」など聞こえたまへば、 「それはまされるもはべり。こ れはただ目馴れぬさまなればなむ」とて、しひてささせたて まつりたまふ。げによろづにかしづき立てて見たてまつりた まふに、生けるかひあり、たまさかにても、かからん人を出 だし入れて見んにますことあらじ、と見えたまふ。  参座しにとても、あまた所も歩きたまはず。内裏、春宮、 一院ばかり、さては藤壼の三条宮にぞ参りたまへる。 「今日 はまたことにも見えたまふかな。ねびたまふままに、ゆゆし きまでなりまさりたまふ御ありさまかな」と、人々めできこ

ゆるを、宮、几帳の隙より、ほの見たまふにつけても、思ほ すことしげかりけり。 皇子の誕生と源氏・藤壷の苦悩 この御事の、十二月も過ぎにしが心もとな きに、この月はさりとも、と宮人も待ちき こえ、内裏にもさる御心まうけどもあり。 つれなくてたちぬ。御物の怪にや、と世人も聞こえ騒ぐを、 宮いとわびしう、このことにより、身のいたづらになりぬべ きこと、と思し嘆くに、御心地もいと苦しくてなやみたまふ。 中将の君は、いとど思ひあはせて、御修法など、さとはなく て所どころにせさせたまふ。世の中の定めなきにつけても、 かくはかなくてややみなむと、取り集 めて嘆きたまふに、二月十余日のほど に、男皇子生まれたまひぬれば、なご りなく、内裏にも宮人もよろこびきこ えたまふ。命長くも、と思ほすは心う

けれど、弘徽殿などの、うけはしげにのたまふと聞きしを、 空しく聞きなしたまはましかば人笑はれにや、と思しつより てなむ、やうやうすこしづつさはやいたまひける。  上の、いつしかとゆかしげに思しめしたること限りなし。 かの人知れぬ御心にも、いみじう心もとなくて、人間に参り たまひて、 「上のおぼつかながりきこえさせたまふを、ま づ見たてまつりて奏しはべらむ」と聞こえたまへど、 「む つかしげなるほどなれば」とて、見せたてまつりたまはぬも、 ことわりなり。さるは、いとあさましう、めづらかなるまで 写し取りたまへるさま、違ふべくもあらず。宮の、御心の鬼 にいと苦しく、人の見たてまつるも、あやしかりつるほどの あやまりを、まさに人の思ひ咎めじや、さらぬはかなきこと をだに、疵を求むる世に、いかなる名のつひに漏り出づべき にか、と思しつづくるに、身のみぞいと心うき。  命婦の君に、たまさかに逢ひたまひて、いみじき言どもを

尽くしたまへど、何のかひあるべきにもあらず。若宮の御事 を、わりなくおぼつかながりきこえたまへば、 「など、か うしもあながちにのたまはすらむ。いま、おのづから見たて まつらせたまひてむ」と聞こえながら、思へる気色かたみに ただならず。かたはらいたきことなれば、まほにもえのたま はで、 「いかならむ世に、人づてならで聞こえさせむ」と て、泣いたまふさまぞ心苦しき。 「いかさまに昔むすべる契りにてこの世にかかる中の   へだてぞ かかることこそ心得がたけれ」とのたまふ。命婦も、宮の思 ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなうもさし放 ちきこえず。 「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむこや世の人のま   どふてふ闇 あはれに心ゆるびなき御事どもかな」と、忍びて聞こえけり。

かくのみ言ひやる方なくて帰りたまふものから、人のもの言 ひもわづらはしきを、わりなきことにのたまはせ思して、命 婦をも、昔思いたりしやうにも、うちとけ睦びたまはず。人- 目立つまじく、なだらかにもてなしたまふものから、心づき なしと思す時もあるべきを、いとわびしく思ひの外になる心- 地すべし。 皇子参内 帝の寵愛と、源氏・藤壷の苦悩 四月に内裏へ参りたまふ。ほどよりは大き におよすけたまひて、やうやう起きかへり などしたまふ。あさましきまで、紛れどこ ろなき御顔つきを、思しよらぬことにしあれば、また並びな きどちは、げに通ひたまへるにこそは、と思ほしけり。いみ じう思ほしかしづくこと限りなし。源氏の君を限りなきもの に思しめしながら、世の人のゆるしきこゆまじかりしにより て、坊にも据ゑたてまつらずなりにしを、あかず口惜しう、 ただ人にてかたじけなき御ありさま容貌にねびもておはする

を御覧ずるままに、心苦しく思しめすを、かうやむごとなき 御腹に、同じ光にてさし出でたまへれば、瑕なき玉と思しか しづくに、宮はいかなるにつけても、胸の隙なく、やすから ずものを思ほす。  例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、抱き 出でたてまつらせたまひて、 「皇子たちあまたあれど、そこ をのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば思ひわた さるるにやあらむ、いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほ どは、みなかくのみあるわざにやあらむ」とて、いみじくう つくしと思ひきこえさせたまへり。中将の君、面の色かはる 心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あは れにも、かたがたうつろふ心地して、涙落ちぬべし。物語な どして、うち笑みたまへるが、いとゆゆしううつくしきに、 わが身ながらこれに似たらむは、いみじういたはしうおぼえ たまふぞあながちなるや。宮は、わりなくかたはらいたきに、

汗も流れてぞおはしける。中将は、なかなかなる心地の乱る やうなれば、まかでたまひぬ。 源氏・藤壷和歌に託して思いをかわす わが御方に臥したまひて、胸のやる方なき ほど過ぐして、大殿へと思す。御前の前栽 の、何となく青みわたれる中に、常夏のは なやかに咲き出でたるを、折らせたまひて、命婦の君のもと に、書きたまふこと多かるべし。 「よそへつつ見るに心は慰まで露けさまさるなでしこ   の花 花に咲かなんと思ひたまへしも、かひなき世にはべりけれ ば」とあり。さりぬべき隙にやありけむ、御覧ぜさせて、 「ただ塵ばかり、この花びらに」と聞こゆるを、わが御心 にも、ものいとあはれに思し知らるるほどにて、 袖ぬるる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやま   となでしこ

とばかり、ほのかに書きさしたるやうなるを、喜びながら奉 れる、例のことなれば、しるしあらじかし、とくづほれてな がめ臥したまへるに、胸うちさわぎて、いみじくうれしきに も涙落ちぬ。 源氏、紫の上との遊びに思いを慰める つくづくと臥したるにも、やる方なき心地 すれば、例の、慰めには、西の対にぞ渡り たまふ。しどけなくうちふくだみたまへる 鬢ぐき、あざれたる袿姿にて、笛をなつかしう吹きすさびつ つ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露にぬれたる心- 地して、添ひ臥したまへるさま、うつくしうらうたげなり。 愛敬こぼるるやうにて、おはしながらとくも渡りたまはぬ、 なまうらめしかりければ、例ならず背きたまへるなるべし、 端の方についゐて、 「こちや」とのたまへどおどろかず、 「入りぬる磯の」と口ずさみて、口おほひしたまへるさま、 いみじうざれてうつくし。 「あなにく。かかること口馴れ

たまひにけりな。みるめにあくは正なきことぞよ」
とて、人 召して、御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ。 「箏の 琴は、中の細緒のたへがたきこそところせけれ」とて、平調 におしくだして調べたまふ。掻き合はせばかり弾きて、さし やりたまへれば、え怨じはてず、いとうつくしう弾きたまふ。 ちひさき御ほどに、さしやりてゆしたまふ御手つき、いとう つくしければ、らうたしと思して、笛吹き鳴らしつつ教へた まふ。いとさとくて、かたき調子どもを、ただ一わたりに習 ひとりたまふ。おほかた、らうらうしうをかしき御心ばへを、 思ひしことかなふ、と思す。保曾呂倶世利といふものは、名 は憎けれど、おもしろう吹きすさびたまへるに、掻き合はせ まだ若けれど、拍子違はず上手めきたり。  大殿油まゐりて、絵どもなど御覧ずるに、出でたまふべし、 とありつれば、人々声づくりきこえて、 「雨降りはべりぬべ し」など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。絵も

見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪の いとめでたくこぼれかかりたるを、かき撫でて、 「ほかな るほどは恋しくやある」とのたまへば、うなづきたまふ。 「我も、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど、幼 くおはするほどは、心やすく思ひきこえて、まづくねくねし く怨むる人の心破らじと思ひて、むつかしければ、しばしか くもありくぞ。大人しく見なしてば、ほかへもさらに行くま じ。人の恨み負はじなど思ふも、世に長うありて、思ふさま に見えたてまつらんと思ふぞ」など、こまごまと語らひきこ えたまへば、さすがに恥づかしうて、ともかくも答へきこえ たまはず。やがて御膝によりかかりて、寝入りたまひぬれば、 いと心苦しうて、 「今宵は出でずなりぬ」とのたまへば、 みな立ちて、御膳などこなたにまゐらせたり。姫君起こした てまつりたまひて、 「出でずなりぬ」と聞こえたまへば、 慰みて起きたまへり。もろともに物などまゐる。いとはかな

げにすさびて、 「さらば寝たまひねかし」と、あやふげに思 ひたまひつれば、かかるを見棄てては、いみじき道なりとも、 おもむきがたくおぼえたまふ。 紫の上との風評につき、帝源氏を戒む かやうに、とどめられたまふをりをりなど も多かるを、おのづから漏り聞く人、大殿 に聞こえければ、 「誰ならむ。いとめざ ましきことにもあるかな。今までその人とも聞こえず、さや うにまつはし、戯れなどすらんは、あてやかに心にくき人に はあらじ。内裏わたりなどにて、はかなく見たまひけむ人を、 ものめかしたまひて、人や咎めむと隠したまふななり。心なげ にいはけて聞こゆるは」など、さぶらふ人々も聞こえあへり。  内裏にも、かかる人あり、と聞こしめして、 「いとほしく 大臣の思ひ嘆かるなることも、げに。ものげなかりしほどを、 おほなおほなかくものしたる心を、さばかりのことたどらぬ ほどにはあらじを、などかなさけなくはもてなすなるらむ」

とのたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御答へも聞こ えたまはねば、心ゆかぬなめり、といとほしく思しめす。 「さるは、すきずきしううち乱れて、この見ゆる女房にまれ、 またこなたかなたの人々など、なべてならず、なども見え聞 こえざめるを、いかなるものの隈に隠れ歩きて、かく人にも 恨みらるらむ」とのたまはす。 源氏、老女源典侍とたわむれる 帝の御年ねびさせたまひぬれど、かうやう の方え過ぐさせたまはず、采女女蔵人など をも、かたち心あるをば、ことにもてはや し思しめしたれば、よしある宮仕人多かるころなり。はかな きことをも言ひふれたまふには、もてはなるることもありが たきに、目馴るるにやあらむ、げにぞあやしうすいたまはざ めると、こころみに戯れ言を聞こえかかりなどするをりあれ ど、情なからぬほどにうち答へて、まことには乱れたまはぬ を、まめやかにさうざうしと思ひきこゆる人もあり。

 年いたう老いたる典侍、人も やむごとなく心ばせあり、あて におぼえ高くはありながら、い みじうあだめいたる心ざまにて、 そなたには重からぬあるを、か うさだ過ぐるまでなどさしも乱 るらむ、といぶかしくおぼえたまひければ、戯れ言いひふれ てこころみたまふに、似げなくも思はざりける。あさましと 思しながら、さすがにかかるもをかしうて、ものなどのたま ひてけれど、人の漏り聞かむも、古めかしきほどなれば、つ れなくもてなしたまへるを、女はいとつらしと思へり。  上の御梳櫛にさぶらひけるを、はてにければ、上は御袿の 人召して、出でさせたまひぬるほどに、また人もなくて、こ の内侍常よりもきよげに、様体頭つきなまめきて、装束あり さま、いとはなやかに好ましげに見ゆるを、さも旧りがたう

もと、心づきなく見たまふものから、いかが思ふらんと、さ すがに過ぐしがたくて、裳の裾を引きおどろかしたまへれば、 かはほりのえならずゑがきたるを、さし隠して見かへりたる まみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落ち入りて、 いみじうはづれそそけたり。似つかはしからぬ扇のさまかな、 と見たまひて、わが持たまへるに、さしかへて見たまへば、 赤き紙の、映るばかり色深きに、木高き森のかたを塗り隠し たり。片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、 「森の下草老いぬれば」など書きすさびたるを、言しもあれ、 うたての心ばへや、と笑まれながら、 「森こそ夏の、と見 ゆめる」とて、何くれとのたまふも、似げなく、人や見つけ ん、と苦しきを、女はさも思ひたらず。 君し来ば手なれの駒に刈り飼はむさかり過ぎたる下-   葉なりとも と言ふさま、こよなく色めきたり。

「笹分けば人や咎めむいつとなく駒なつくめる森の木  がくれ わづらはしさに」とて、立ちたまふを、ひかへて、 「まだ かかるものをこそ思ひはべらね。今さらなる身の恥になむ」 とて、泣くさまいといみじ。 「いま聞こえむ。思ひながら ぞや」とて、引き放ちて出でたまふを、せめておよびて、 「橋- 柱」と恨みかくるを、上は御袿はてて、御障子よりのぞかせ たまひけり。似つかはしからぬあはひかなと、いとをかしう 思されて、 「すき心なしと、常にもてなやむめるを、さはい へど、すぐさざりけるは」とて、笑はせたまへば、内侍は、 なままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑは、濡れ衣をだに着まほ しがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひきこえさせ ず。人々も、思ひの外なることかな、とあつかふめるを、頭- 中将聞きつけて、いたらぬ隈なき心にて、まだ思ひよらざり けるよ、と思ふに、尽きせぬ好み心も、見まほしうなりにけ

れば、語らひつきにけり。 源氏と典侍との逢瀬を、頭中将おどす この君も、人よりはいとことなるを、かの つれなき人の御慰めに、と思ひつれど、見 まほしきは限りありけるをとや。うたての 好みや。いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知りたまはず。見つ けきこえては、まづ恨みきこゆるを、齢のほどいとほしけれ ば、慰めむと思せど、かなはぬものうさに、いと久しくなり にけるを、タ立して、なごり涼しき宵のまぎれに、温明殿の わたりをたたずみ歩きたまへば、この内侍、琵琶をいとをか しう弾きゐたり。御前などにても、男方の御遊びにまじりな どして、ことにまさる人なき上手なれば、もの恨めしうおぼ えけるをりから、いとあはれに聞こゆ。 「瓜作りになりや しなまし」と、声はいとをかしうて謡ふぞ、すこし心づきな き。鄂州にありけむ昔の人も、かくやをかしかりけむと、耳 とまりて聞きたまふ。弾きやみて、いといたう思ひ乱れたる

けはいなり。君、東屋を忍びやかに謡ひて、寄りたまへるに、 「おし開いて来ませ」と、うち添へたるも、例に違ひたる 心地ぞする。 立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨そ    そきかな とうち嘆くを、われひとりしも聞きおふまじけれど、うとま しや、何ごとをかくまでは、とおぼゆ。 人妻はあなわづらはし東屋の真屋のあまりも馴れじ    とぞ思ふ とてうち過ぎなまほしけれど、あまりはしたなくや、と思ひ かへして、人に従へば、すこしはやりかなる戯れ言など言ひ かはして、これもめづらしき心地ぞしたまふ。  頭中将は、この君の、いたうまめだち過ぐして、常にもど きたまふがねたきを、つれなくて、うちうち忍びたまふ方々 多かめるを、いかで見あらはさむとのみ思ひわたるに、これ

を見つけたる心地、いとうれし。かかるをりに、すこしおど しきこえて、御心まどはして、 「懲りぬや」と言はむと思ひ て、たゆめきこゆ。  風冷やかにうち吹きて、やや更けゆくほどに、すこしまど ろむにやと見ゆる気色なれば、やをら入りくるに、君はとけ てしも寝たまはぬ心なればふと聞きつけて、この中将とは思 ひよらず、なほ忘れがたくすなる修理大夫にこそあらめと思 すに、おとなおとなしき人に、かく似げなきふるまひをして、 見つけられんことは恥づかしければ、 「あな、わづらはし。 出でなむよ。蜘珠のふるまひはしるかりつらむものを。心う くすかしたまひけるよ」とて、直衣ばかりを取りて、屏風の 後に入りたまひぬ。中将をかしきを念じて、引きたてたまへ る屏風のもとに寄りて、こぼこぼと畳み寄せて、おどろおど ろしく騒がすに、内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよ びたる人の、さきざきもかやうにて心動かすをりをりありけ

れば、ならひて、いみじく心あわたたしきにも、この君をい かにしきこえぬるかと、わびしさにふるふふるふ、つと控へ たり。誰と知られで出でなばやと思せど、しどけなき姿にて、 冠などうちゆがめて走らむ後手思ふに、いとをこなるべし と思しやすらふ。中将、いかで我と知られきこえじ、と思ひ て、ものも言はず、ただいみじう怒れる気色にもてなして、 太刀を引き抜けば、女、 「あが君、あが君」と向ひて手をす るに、ほとほど笑ひぬべし。好ましう若やぎてもてなしたる うはべこそさてもありけれ、五十七八の人の、うちとけても の思ひ騒げるけはひ、えならぬ二十の若人たちの御中にて物- 怖ぢしたるいとつきなし。かうあらぬさまにもてひがめて、 恐ろしげなる気色を見すれど、なかなかしるく見つけたまひ て、我と知りてことさらにするなりけりと、をこになりぬ。 その人なめり、と見たまふに、いとをかしければ、太刀抜き たる腕をとらへていといたうつみたまへれば、ねたきものか

ら、えたへで笑ひぬ。 「まことはうつし心かとよ。戯れに くしや。いでこの直衣着む」とのたまへど、つととらへてさ らにゆるしきこえず。 「さらばもろともにこそ」とて、中- 将の帯をひき解きて脱がせたまへば、脱がじとすまふを、と かくひきしろふほどに、綻びはほろほろと絶えぬ。中将、   「つつむめる名やもり出でん引きかはしかくほころぶる  中の衣に 上に取り着ば、しるからん」といふ。君、   かくれなきものと知る知る夏衣きたるをうすき心とぞ見 る と言ひかはして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、 みな出でたまひぬ。 源典侍とのことで、源氏、頭中将と応酬 君はいと口惜しく、見つけられぬること、 と思ひ臥したまへり。内侍は、あさましく おぼえければ、落ちとまれる御指貫帯など、

つとめてたてまつれり。 「うらみても言ふかひぞなきたちかさね引きてかへり   し波のなごりに 底もあらはに」とあり。面なのさまやと、見たまふも憎けれ ど、わりなしと思へりしもさすがにて、 あらだちし波にこころは騒がねど寄せけむ磯をいか  がうらみぬ とのみなむありける。帯は、中将のなりけり。わが御直衣よ りは色深し、と見たまふに、端袖もなかりけり。あやしの事 どもや、下り立ちて乱るる人は、むべをこがましきことは多 からむと、いとど御心をさめられたまふ。  中将、宿直所より、 「これまづとぢつけさせたまへ」とて、 おし包みておこせたるを、いかで取りつらむ、と心やまし。 この帯をえざらましかば、と思す。その色の紙につつみて、 中絶えばかごとやおふとあやふさにはなだの帯を取

 りてだに見ず
とて遣りたまふ。たち返り、 「君にかく引き取られぬる帯なればかくて絶えぬる中  とかこたむ え逃れさせたまはじ」とあり。  日たけて、おのおの殿上に参りたまへり。いと静かに、も の遠きさましておはするに、頭の君もいとをかしけれど、公- 事多く奏し下す日にて、いとうるはしくすくよかなるを見る も、かたみにほほ笑まる。人間にさし寄りて、 「もの隠しは 懲りぬらむかし」とて、いとねたげなる後目なり。 「など てかさしもあらむ。立ちながらかへりけむ人こそいとほしけ れ。まことは、うしや世の中よ」と言ひ合はせて、「とこの 山なる」と、かたみに口がたむ。  さてその後、ともすれば事のついでごとに、言ひむかふる くさはひなるを、いとど、ものむつかしき人ゆゑと、思し知

るべし。女は、なほいと艶に恨みかくるを、わびしと思ひあ りきたまふ。中将は、妹の君にも聞こえ出でず。たださるべ きをりのおどしぐさにせむ、とぞ思ひける。  やむごとなき御腹々の御子たちだに、上の御もてなしのこ よなきに、わづらはしがりて、いとことに避りきこえたまへ るを、この中将は、さらにおし消たれきこえじと、はかなき ことにつけても、思ひいどみきこえたまふ。この君ひとりぞ、 姫君の御ひとつ腹なりける。帝の皇子といふばかりこそあれ、 我も、同じ大臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、皇女腹 にて、またなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際とお ぼえたまはぬなるべし。人がらもあるべき限りととのひて、 何ごともあらまほしく、足らひてぞものしたまひける。この 御仲どものいどみこそ、あやしかりしか。されどうるさくて なむ。 藤壺、弘徽殿女御を超えて后に立つ

七月にぞ后ゐたまふめりし。源氏の君、宰- 相になりたまひぬ。帝おりゐさせたまはむ の御心づかひ近うなりて、この若宮を坊に、 と思ひきこえさせたまふに、御後見したまふべき人おはせず。 御母方の、みな親王たちにて、源氏の公事知りたまふ筋な らねば、母宮をだに動きなきさまにしおきたてまつりて、つ よりにと思すになむありける。弘徽殿、いとど御心動きたま ふ、ことわりなり。されど、 「春宮の御世、いと近うなりぬ れば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」とぞ聞こえさせ たまひける。げに、春宮の御母にて二十余年になりたまへる 女御をおきたてまつりては、引き越したてまつりたまひがた きことなりかしと、例の、安からず世人も聞こえけり。  参りたまふ夜の御供に、宰相の君も仕うまつりたまふ。同 じ宮と聞こゆる中にも、后腹の皇女、玉光りかかやきて、た ぐひなき御おぼえにさへものしたまへば、人もいとことに思

ひかしづききこえたり。まして、わりなき御心には、御輿の うちも思ひやられて、いとど及びなき心地したまふに、すず ろはしきまでなむ。   尽きもせぬ心のやみにくるるかな雲ゐに人を見るに   つけても とのみ、独りごたれつつ、ものいとあはれなり。 生いたつ皇子、源氏と相並んで美しく 皇子は、およすけたまふ月日に従ひて、い と見たてまつり分きがたげなるを、宮いと 苦しと思せど、思ひよる人なきなめりかし。 げにいかさまに作りかへてかは、劣らぬ御ありさまは、世に 出でものしたまはまし。月日の光の空に通ひたるやうにぞ、 世人も思へる。
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