源氏物語

源氏、瘧病にわずらい、北山の聖を訪れる

Lavender

瘧病にわづらひたまひて、よろづにまじな ひ、加持などまゐらせたまヘど、しるしな くて、あまたたびおこりたまひければ、あ る人、 「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ 人はべる。去年の夏も世におこりて、人々まじなひわづらひ しを、やがてとどむるたぐひあまたはべりき。ししこらかし つる時はうたてはべるを、疾くこそこころみさせたまはめ」 など聞こゆれば、召しに遣はしたるに、 「老いかがまりて室 の外にもまかでず」と申したれば、 「いかがはせむ。いと 忍びてものせん」とのたまひて、御供に睦ましき四五人ばか りして、まだ暁におはす。  やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花、

さかりはみな過ぎにけり。山の桜はまださかりにて、入りも ておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、か かるありさまもならひたまはず、ところせき御身にて、めづ らしう思されけり。寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深 き岩の中にぞ、聖入りゐたりける。登りたまひて、誰とも知 らせたまはず、いといたうやつれたまヘれど、しるき御さま なれば、 「あなかしこや。一日召しはべりしにやおはします らむ。今はこの世のことを思ひたまへねば、験方の行ひも、 棄て忘れてはべるを、いかで、かうおはしましつらむ」と、 驚き騒ぎ、うち笑みつつ見たてまつる。いとたふとき大徳な りけり。さるべきもの作りて、すかせたてまつり、加持など まゐるほど、日高くさしあがりぬ。 源氏、なにがし僧都の坊に少女の姿を見る すこし立ち出でつつ見わたしたまヘば、高 き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに 見おろさるる。ただこのつづら折の下に、

同じ小柴なれど、うるはしくしわたして、きよげなる屋廊な どつづけて、木立いとよしあるは、 「何人の住むにか」と 問ひたまヘば、御供なる人、 「これなん、なにがし僧都の、 この二年籠りはべる方にはべるなる」 「心恥づかしき人住 むなる所にこそあなれ。あやしうも、あまりやつしけるかな。 聞きもこそすれ」などのたまふ。きよげなる童などあまた出 で来て、閼伽奉り、花折りなどするもあらはに見ゆ。 「か しこに女こそありけれ」 「僧都は、よもさやうにはすゑたま はじを」「いかなる人ならむ」と口々言ふ。下りてのぞくも あり。 「をかしげなる女子ども、若き人、童べなん見ゆる」 と言ふ。 ある供人、明石の入道父娘のことを語る 君は行ひしたまひつつ、日たくるままに、 いかならんと思したるを、 「とかう紛らは させたまひて、思し入れぬなんよくはべ る」と聞こゆれば、後の山に立ち出でて、京の方を見たまふ。

はるかに霞みわたりて、四方の梢そこはかとなうけぶりわた れるほど、 「絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む 人、心に思ひ残すことはあらじかし」とのたまヘば、 「こ れはいと浅くはべり。外の国などにはべる海山のありさまな どを御覧ぜさせてはべらば、いかに御絵いみじうまさらせた まはむ」 「富士の山、なにがしの嶽」など語りきこゆるもあ り。また西国のおもしろき浦々、磯のうへを言ひつづくるも ありて、よろづに紛らはしきこゆ。 「近き所には、播磨の明石の浦こそなほことにはべれ。 何のいたり深き隈はなけれど、ただ海のおもてを見わたした るほどなん、あやしく他所に似ず、ゆほびかなる所にはべる。 かの国の前の守、新発意のむすめかしづきたる家、いといた しかし。大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世の ひがものにて、交らひもせず、近衛中将を棄てて、申し賜 はれりける司なれど、かの国の人にもすこしあなづられて、

『何の面目にてか、また都にもかヘらん』と言ひて、頭髪もお ろしはべりにけるを、すこし奥まりたる山住みもせで、さる 海づらに出でゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かの 国の内に、さも人の籠りゐぬべき所どころはありながら、深 き里は人離れ心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、 かつは心をやれる住まひになんはべる。先つころ、まかり下 りてはべりしついでに、ありさま見たまヘに寄りてはべりし かば、京にてこそところえぬやうなりけれ、そこら遥かにい かめしう占めて造れるさま、さはいヘど、国の司にてしおき けることなれば、残りの齢ゆたかに経べき心がまヘも、二な くしたりけり。後の世の勤めもいとよくして、なかなか法師 まさりしたる人になんはべりける」
と申せば、 「さてその むすめは」と問ひたまふ。 「けしうはあらず、容貌心ばせ などはべるなり。代々の国の司など、用意ことにして、さる 心ばヘ見すなれど、さらに承け引かず。『わが身のかくいた

づらに沈めるだにあるを。この人ひとりにこそあれ。思ふさ まことなり。もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひ おきつる宿世違はば、海に入りね』と、常に遺言しおきては べるなる」
と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。人々、 「海龍王の后になるべきいつきむすめななり」「心高さ苦し や」とて笑ふ。  かく言ふは播磨守の子の、蔵人より今年冠得たるなりけ り。 「いとすきたる者なれば、かの入道の遺言破りつべき 心はあらんかし」 「さてたたずみ寄るならむ」と言ひあヘり。 「いで、さいふとも、田舎びたらむ。幼くよりさる所に 生ひ出でて、古めいたる親にのみ従ひたらむは」「母こそゆ ゑあるべけれ。よき若人、童など、都のやむごとなき所どこ ろより、類にふれて、尋ねとりて、まばゆくこそもてなすな れ」 「情なき人なりてゆかば、さて心やすくてしも、えおき たらじをや」など言ふもあり。君、 「何心ありて、海の底ま

で深う思ひ入るらむ。底のみるめもものむつかしう」
などの たまひて、ただならず思したり。かやうにても、なべてなら ず、もてひがみたること好みたまふ御心なれば、御耳とどま らむをや、と見たてまつる。   「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそ はあめれ。はや帰らせたまひなん」とあるを、大徳、 「御物の 怪など加はれるさまにおはしましけるを、今宵はなほ静かに 加持などまゐりて、出でさせたまヘ」と申す。 「さもあるこ と」と皆人申す。君も、かかる旅寝もならひたまはねば、さ すがにをかしくて、 「さらば暁に」とのたまふ。 源氏、紫の上を見いだして恋慕する 人なくて、つれづれなれば、タ暮のいたう 霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のほどに 立ち出でたまふ。人々は帰したまひて、惟- 光朝臣とのぞきたまヘば、ただこの西面にしも、持仏すゑた てまつりて行ふ、尼なりけり。簾すこし上げて、花奉るめり。

中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげ に読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、い と白うあてに、痩せたれど、頬つきふくらかに、まみのほ ど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりも こよなう今めかしきものかな、とあはれに見たまふ。  きよげなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。 中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎 えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似る べうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌な り。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤 くすりなして立てり。 「何ごとぞや。童べと腹立ちたまヘるか」とて、尼君の 見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめりと 見たまふ。 「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠の中に籠め たりつるものを」とて、いと口惜しと思ヘり。このゐたる

大人、 「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこ そ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかし うやうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」とて立 ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納- 言の乳母とこそ人言ふめるは、この子の後見なるべし。  尼君、 「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。 おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、 雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂 く」とて、 「こちや」と言ヘば、ついゐたり。  頬つきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いは けなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。ね びゆかむさまゆかしき人かな、 と目とまりたまふ。さるは、 限りなう心を尽くしきこゆる 人に、いとよう似たてまつれ

るが、まもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる。  尼君、髪をかき撫でつつ、 「梳ることをうるさがりたまヘ ど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、あは れにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人も あるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れたまひしほど、 いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただ今おのれ見 棄てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」とて、い みじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地にも、さす がにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれ かかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。    おひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消え   んそらなき またゐたる大人、 「げに」とうち泣きて、 初草のおひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えんとす  らむ

と聞こゆるほどに、僧都あなたより来て、 「こなたはあら はにやはべらむ。今日しも端におはしましけるかな。この上 の聖の方に、源氏の中将の、瘧病まじなひにものしたまひけ るを、ただ今なむ聞きつけはべる。いみじう忍びたまひけれ ば、知りはべらで、ここにはべりながら、御とぶらひにもま でざりける」とのたまヘば、 「あないみじや。いとあやし きさまを人や見つらむ」とて、簾下ろしつ。  「この世にの のしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまは んや。世を棄てたる法師の心地にも、いみじう世の愁ヘ忘れ、 齢のぶる人の御ありさまなり。いで御消息聞こえん」とて立 つ音すれば、帰りたまひぬ。  あはれなる人を見つるかな、かかれば、このすき者どもは、 かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなり けり、たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外なることを 見るよと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児

かな、何人ならむ、かの人の御かはりに、明け暮れの慰めに も見ばや、と思ふ心深うつきぬ。 源氏、招かれて僧都の坊を訪れる うち臥したまヘるに、僧都の御弟子、惟光 を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君も やがて聞きたまふ。 「過きりおはしまし けるよし、ただ今なむ人申すに、驚きながら、さぶらふべき を、なにがしこの寺に籠りはべりとはしろしめしながら忍び させたまへるを、愁はしく思ひたまヘてなん。草の御むしろ も、この坊にこそまうけはべるべけれ。いと本意なきこと」 と申したまへり。 「去ぬる十余日のほどより、瘧病にわづ らひはべるを、たび重なりてたヘがたくはべれば、人の教ヘ のままに、にはかに尋ね入りはべりつれど、かやうなる人の、 しるしあらはさぬ時、はしたなかるべきも、ただなるよりは いとほしう思ひたまへつつみてなむ、いたう忍びはべりつる。 いまそなたにも」とのたまへり。

 すなはち僧都参りたまへり。法師なれど、いと心恥づかし く、人がらもやむごとなく世に思はれたまへる人なれば、か るがるしき御ありさまを、はしたなう思す。かく籠れるほど の御物語など聞こえたまひて、 「同じ柴の庵なれど、すこ し涼しき水の流れも御覧ぜさせん」と、せちに聞こえたまへ ば、かのまだ見ぬ人々に、ことごとしう言ひ聞かせつるを、 つつましう思せど、あはれなりつるありさまもいぶかしくて おはしぬ。  げに、いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなした まへり。月もなきころなれば、遣水に篝火ともし、燈籠など もまゐりたり。南面いときよげにしつらひたまへり。そらだ きものいと心にくくかをり出で、名香の香など匂ひ満ちたる に、君の御追風いとことなれば、内の人々も心づかひすべか めり。 源氏、紫の上の素姓を聞き僧都に所望する

僧都、世の常なき御物語、後の世のことな ど聞こえ知らせたまふ。わが罪のほど恐ろ しう、あぢきなきことに心をしめて、生け るかぎりこれを思ひなやむべきなめり、まして後の世のいみ じかるべき、思しつづけて、かうやうなる住まひもせまほし うおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、 「ここにものしたまふは誰にか。尋ねきこえまほしき夢を 見たまへしかな。今日なむ思ひあはせつる」と聞こえたまへ ば、うち笑ひて、 「うちつけなる御夢語りにぞはべるなる。 尋ねさせたまひても、御心劣りせさせたまひぬべし。故按察- 大納言は、世になくて久しくなりはべりぬれば、えしろしめ さじかし。その北の方なむ、なにがしが妹にはべる。かの按- 察隠れて後、世を背きてはべるが、このごろわづらふ事はべ るにより、かく京にもまかでねば、頼もし所に籠りてものし はべるなり」と聞こえたまふ。

  「かの大納言の御むすめ、ものしたまふと聞きたまへし は。すきずきしき方にはあらで、まめやかに聞こゆるなり」 と、推しあてにのたまへば、 「むすめただ一人はべりし。亡 せてこの十余年にやなりはべりぬらん。故大納言、内裏に奉 らむなど、かしこういつきはべりしを、その本意のごとくも ものしはべらで、過ぎはべりにしかば、ただこの尼君ひとり もてあつかひはべりしほどに、いかなる人のしわざにか、兵- 部卿宮なむ、忍びて語らひつきたまへりけるを、もとの北の 方、やむごとなくなどして、安からぬこと多くて、明け暮れ ものを思ひてなん、亡くなりはべりにし。もの思ひに病づく ものと、目に近く見たまへし」など申したまふ。  さらば、その子なりけり、と思しあはせつ。親王の御筋に て、かの人にも通ひきこえたるにやと、いとどあはれに、見 まほし。人のほどもあてにをかしう、なかなかのさかしら心 なく、うち語らひて心のままに教へ生ほし立てて見ばや、と

思す。   「いとあはれにものしたまふことかな。それはとどめた まふ形見もなきか」と、幼かりつる行く方の、なほたしかに 知らまほしくて、問ひたまへば、 「亡くなりはべりしほど にこそはべりしか。それも女にてぞ。それにつけてもの思ひ のもよほしになむ、齢の末に思ひたまへ嘆きはべるめる」と 聞こえたまふ。さればよ、と思さる。   「あやしきことなれど、幼き御後見に思すべく聞こえた まひてんや。思ふ心ありて、行きかかづらふ方もはべりなが ら、世に心のしまぬにやあらん、独り住みにてのみなむ。ま だ似げなきほどと、常の人に思しなずらへて、はしたなくや」 などのたまへば、 「いとうれしかるべき仰せ言なるを、ま だむげにいはけなきほどにはべるめれば、戯れにても御覧じ がたくや。そもそも女人は、人にもてなされて大人にもなり たまふものなれば、くはしくはえとり申さず。かの祖母に語

らひはべりて聞こえさせむ」
と、すくよかに言ひて、ものご はきさましたまへれば、若き御心に恥づかしくて、えよくも 聞こえたまはず。 「阿弥陀仏ものしたまふ堂に、する事は べるころになむ。初夜いまだ勤めはべらず。過ぐしてさぶら はむ」とて、上りたまひぬ。 源氏、尼君に意中を訴え、拒まれる 君は心地もいとなやましきに、雨すこしう ちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝 のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこ しねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろ なる人も、所がらものあはれなり。まして思しめぐらすこと 多くて、まどろませたまはず。初夜といひしかども、夜もい たう更けにけり。内にも人の寝ぬけはひしるくて、いと忍び たれど、数珠の脇息にひき鳴らさるる音ほの聞こえ、なつか しううちそよめくおとなひ、あてはかなり、と聞きたまひて、 ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中をすこし

ひき開けて、扇を鳴らしたまへば、おぼえなき心地すべかめ れど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あなり。す こし退きて、 「あやし。ひが耳にや」とたどるを聞きたまひ て、 「仏の御しるべは、暗きに入りても、さらに違ふまじ かなるものを」とのたまふ御声の、いと若うあてなるに、う ち出でむ声づかひも、恥づかしけれど、 「いかなる方の御 しるべにか。おぼつかなく」と聞こゆ。 「げに、うちつけ なり、とおぼめきたまはむもことわりなれど、   はつ草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわ   かぬ と聞こえたまひてむや」とのたまふ。 「さらにかやうの御 消息うけたまはり分くべき人もものしたまはぬさまは、しろ しめしたりげなるを、誰にかは」と聞こゆ。「おのづから、 さるやうありて聞こゆるならん、と思ひなしたまへかし」と のたまへば、入りて聞こゆ。 「あな、今めかし。この君や 世づいたるほどにおはする、とぞ思すらん、さるにては、か の若草を、いかで聞いたまへることぞ」とさまざまあやしき に、心乱れて、久しうなれば、情なしとて、    「枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山の苔にくらべざら   なむ ひがたうはべるものを」と聞こえたまふ。   「かうやうの伝なる御消息は、まださらに、聞こえ知ら ず、ならはぬことになむ。かたじけなくとも、かかるついで にまめまめしう聞こえさすべきことなむ」と聞こえたまへれ ば、尼君、 「ひが事聞きたまへるならむ。いと恥づかしき御 けはひに、何ごとをかは答へきこえむ」とのたまへば、 「はし たなうもこそ思せ」と人々聞こゆ。 「げに、若やかなる人 こそうたてもあらめ。まめやかにのたまふ、 かたじけなし」 とて、ゐざり寄りたまへり。   「うちつけに、あさはかなりと御覧ぜられぬべきついで

なれど、心にはさもおぼえはべらねば、仏はおのづから」
と て、おとなおとなしう、恥づかしげなるにつつまれて、とみ にもえうち出でたまはず。 「げに思ひたまへ寄りがたきつ いでに、かくまでのたまはせ、聞こえさするも、浅くはいか が」とのたまふ。 「あはれにうけたまはる御ありさまを、 かの過ぎたまひにけむ御かはりに思しないてむや。言ふかひ なきほどの齢にて、睦ましかるべき人にも立ちおくれはべり にければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ重ねはべ れ。同じさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへ、 といと聞こえまほしきを、かかるをりはべりがたくてなむ、 思されんところをも憚らず、うち出ではべりぬる」と聞こえ たまへば、 「いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながら も、聞こしめしひがめたることなどやはべらん、とつつまし うなむ。あやしき身ひとつを、頼もし人にする人なむはべれ ど、いとまだ言ふかひなきほどにて、御覧じゆるさるる方も

はべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりけ る」
とのたまふ。 「みなおぼつかなからずうけたまはるも のを、ところせう思し憚らで、思ひたまへ寄るさまことなる 心のほどを御覧ぜよ」と聞こえたまへど、いと似げなきこと をさも知らでのたまふ、と思して、心とけたる御答へもなし。 僧都おはしぬれば、 「よし、かう聞こえそめはべりぬれば、 いと頼もしうなむ」とて、おし立てたまひつ。 翌朝、源氏再び僧都と対座和歌の贈答 暁方になりにければ、法華三味おこなふ 堂の懺法の声、山おろしにつきて聞こえく る、いと尊く、滝の音に響きあひたり。    吹き迷ふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音   かな    「さしぐみに袖ぬらしける山水にすめる心は騒ぎやは   する 耳馴れはべりにけりや」と聞こえたまふ。

 明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥ども、そこはか となう囀りあひたり。名も知らぬ木草の花どもも、いろいろ に散りまじり、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも めづらしく見たまふに、なやましさも紛れはてぬ。  聖、動きもえせねど、とかうして護身まゐらせたまふ。か れたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、 陀羅尼読みたり。 僧都らと惜別 源氏、尼君と和歌を贈答 御迎への人々参りて、おこたりたまへるよ ろこび聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。 僧都、世に見えぬさまの御くだもの、何く れと、谷の底まで掘り出で、いとなみきこえたまふ。 「今- 年ばかりの誓ひ深うはべりて、御送りにもえ参りはべるまじ きこと。なかなかにも思ひたまへらるべきかな」など聞こえ たまひて、大御酒まゐりたまふ。 「山水に心とまりはべり ぬれど、内裏よりおぼつかながらせたまへるもかしこければ

なむ。いまこの花のをり過ぐさず参り来む。  宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来ても見るべく」
とのたまふ御もてなし、声づかひさへ目もあやなるに、    優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつ   らね と聞こえたまへば、ほほ笑みて、 「時ありて一たび開くな るは、かたかなるものを」とのたまふ。聖、御土器賜はりて、   奥山の松のとぼそをまれにあけてまだ見ぬ花のかほを   見るかな とうち泣きて見たてまつる。聖、御まもりに、独鈷奉る。見 たまひて、僧都、聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子 の数珠の玉の装束したる、やがてその国より入れたる箱の唐 めいたるを、透きたる袋に入れて、 五葉の枝につけて、紺瑠璃の壼ども に、御薬ども入れて、藤桜などにつ

けて、所につけたる御贈物ども捧げたてまつりたまふ。君、 聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、 さまざまに取りに遣はしたりければ、そのわたりの山がつま で、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。  内に僧都入りたまひて、かの聞こえたまひしこと、まねび 聞こえたまへど、 「ともかくも、ただ今は聞こえむ方なし。 もし御心ざしあらば、いま四五年を過ぐしてこそは、ともか くも」とのたまへば、 「さなむ」と同じさまにのみあるを、 本意なし、と思す。御消息、僧都のもとなる小さき童して、    夕まぐれほのかに花の色を見てけさは霞の立ちぞわ   づらふ 御返し、    まことにや花のあたりは立ちうきとかすむる空のけ   しきをも見む とよしある手のいとあてなるを、うち棄て書いたまへり。 源氏、君達らと帰還 紫の上、源氏を慕う

御車に奉るほど、大殿より、 「いづちとも なくておはしましにけること」とて、御迎 への人々、君たちなどあまた参りたまへり。 頭中将、左中弁、さらぬ君たちも慕ひきこえて、 「かう やうの御供には、仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、 あさましくおくらさせたまへること」と恨みきこえて、 「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、たちかへり はべらむは、あかぬわざかな」とのたまふ。岩隠れの苔の上 に並みゐて、土器まゐる。落ち来る水のさまなど、ゆゑある 滝のもとなり。  頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。弁の 君、扇はかなううち鳴らして、 「豊浦の寺の西なるや」とうた ふ。人よりはことなる君たちを、源氏の君いといたううちな やみて、岩に寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御あり さまにぞ、何ごとにも目移るまじかりける。例の、篳篥吹く

随身、笙の笛持たせたるすき者などあり。僧都、琴をみづか ら持てまゐりて、 「これ、ただ御手ひとつあそばして、同 じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」と、せちに聞こえた まへば、 「乱り心地いとたへがたきものを」と聞こえたまへ ど、けにくからず掻き鳴らして、みな立ちたまひぬ。  あかず口惜しと、言ふかひなき法師童べも、涙を落しあへ り。まして内には、年老いたる尼君たちなど、まださらにか かる人の御ありさまを見ざりつれば、 「この世のものともお ぼえたまはず」と聞こえあへり。僧都も、 「あはれ、何の契 りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本の末の世 に、生まれたまへらむ、と見るに、いとなむ悲しき」とて、 目おし拭ひたまふ。  この若君、幼心地に、めでたき人かなと見たまひて、 「宮 の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」などのたまふ。 「さらば、かの人の御子になりておはしませよ」と聞こゆ

れば、うちうなづきて、いとようありなむ、と思したり。雛- 遊びにも、絵描いたまふにも、源氏の君と作り出でて、きよ らなる衣着せ、かしづきたまふ。 源氏、葵の上と不和 紫の上を思う 君はまづ内裏に参りたまひて、日ごろの御 物語など聞こえたまふ。いといたう衰へに けりとて、ゆゆしと思しめしたり。聖の尊 かりけることなど問はせたまふ。詳しう奏したまへば、 「阿- 闍梨などにもなるべきものにこそあなれ。行ひの労は積もり て、おほやけにしろしめされざりけること」と、らうたがり のたまはせけり。  大殿参りあひたまひて、 「御迎へにもと思ひたまへつれ ど、忍びたる御歩きに、いかがと、思ひ憚りてなむ。のどや かに一二日うち休みたまへ」とて、 「やがて御送り仕うま つらむ」と申したまへば、さしも思さねど、ひかされてまか でたまふ。わが御車に乗せたてまつりたまうて、みづからは

ひき入りて奉れり。もてかしづききこえたまへる御心ばへの あはれなるをぞ、さすがに心苦しく思しける。 殿にも、おはしますらむと心づかひしたまひて、久しく見 たまはぬほど、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづをとと のへたまへり。女君、例の、はひ隠れてとみにも出でたまは ぬを、大臣せちに聞こえたまひて、からうじて渡りたまへり。 ただ絵に描きたるものの姫君のやうに、しすゑられて、うち みじろきたまふこともかたく、うるはしうてものしたまへ ば、思ふこともうちかすめ、山路の物語をも聞こえむ、言ふ かひありて、をかしう答へたまはばこそあはれならめ、世に は心もとけず、うとく恥づかしきものに思して、年の重なる に添へて、御心の隔てもまさるを、いと苦しく、思はずに、 「時々は世の常なる御気色を見ばや。たへがたうわづらひ はべりしをも、いかがとだに問ひたまはぬこそ、めづらしか らぬことなれど、なほうらめしう」と聞こえたまふ。からう

じて、 「問はぬはつらきものにやあらん」と、後目に見おこ せたまへるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる 御容貌なり。 「まれまれは、あさましの御言や。問はぬな どいふ際は、ことにこそはべるなれ。心うくものたまひなす かな。世とともにはしたなき御もてなしを、もし思しなほる をりもやと、とざまかうざまに試みきこゆるほど、いとど思 ほしうとむなめりかし。よしや、命だに」とて、夜の御座に 入りたまひぬ。女君、ふとも入りたまはず。聞こえわづらひ たまひて、うち嘆きて臥したまへるも、なま心づきなきにや あらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世を思し乱るること 多かり。  この若草の生ひ出でむほどのなほゆかしきを、似げないほ どと思へりしもことわりぞかし、言ひよりがたきことにもあ るかな、いかにかまへて、ただ心やすく迎へ取りて、明け暮 れの慰めに見ん、兵部卿宮は、いとあてになまめいたまへ

れど、にほひやかになどもあらぬを、いかでかの一族におぼ えたまふらむ、ひとつ后腹なればにや、など思す。ゆかりい と睦ましきに、いかでか、と深うおぼゆ。 翌日、源氏北山の人々に消息を遣わす またの日、御文奉れたまへり。僧都にもほ のめかしたまふべし。尼上には、    もて離れたりし御気色のつつま   しさに、思ひたまふるさまをも、えあらはしはてはべ   らずなりにしをなむ。かばかり聞こゆるにても、おし   なべたらぬ心ざしのほどを御覧じ知らば、いかにうれ   しう。 などあり。中に小さくひき結びて、    「面影は身をも離れず山ざくら心のかぎりとめて来   しかど 夜の間の風もうしろめたくなむ」とあり。御手などはさるも のにて、ただはかなうおしつつみたまへるさまも、さだ過ぎ

たる御目どもには、目もあやに好ましう見ゆ。あなかたはら いたや、いかが聞こえん、と思しわづらふ。    ゆくての御ことは、なほざりにも思ひたまへなされ   しを、ふりはへさせたまへるに、聞こえさせむ方なくな   む。まだ難波津をだにはかばかしうつづけはべらざめれ   ば、かひなくなむ。さても、   嵐吹く尾上の桜散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ   いとどうしろめたう。 とあり。僧都の御返りも同じさまなれば、口惜しくて、二三- 日ありて、惟光をぞ奉れたまふ。 「少納言の乳母といふ人 あべし。尋ねて、くはしう語らへ」などのたまひ知らす。 さもかからぬ隈なき御心かな、さばかりいはけなげなりし けはひをと、まほならねども、見しほどを思ひやるもをか し。 わざとかう御文あるを、僧都もかしこまり聞こえたまふ。

少納言に消息してあひたり。くはしく、思しのたまふさま、 おほかたの御ありさまなど語る。言葉多かる人にて、つきづ きしう言ひつづくれど、いとわりなき御ほどを、いかに思す にかと、ゆゆしうなむ誰も誰も思しける。御文にも、いとね むごろに書いたまひて、例の、中に 「かの御放ち書きなむ、 なほ見たまへまほしき」とて、    あさか山あさくも人を思はぬになど山の井のかけは   なるらむ 御返し、    汲みそめてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影   を見るべき  惟光も同じことを聞こゆ。  「このわづらひたまふこと よろしくは、このごろ過ぐして、京の殿に渡りたまひてなむ、 聞こえさすべき」とあるを、心もとなう思す。 藤壷、宮中を退出 源氏、藤壷と逢う

藤壼の宮、なやみたまふことありて、まか でたまへり。上のおぼつかながり嘆ききこ えたまふ御気色も、いといとほしう見たて まつりながら、かかるをりだにと、心もあくがれまどひて、 いづくにもいづくにも参うでたまはず、内裏にても里にても、 昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば、王命婦を責め歩 きたまふ。いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつ るほどさへ、現とはおぼえぬぞわびしきや。宮もあさましか りしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さて だにやみなむ、と深う思したるに、いとうくて、いみじき御- 気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちと けず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似 させたまはぬを、などかなのめなることだにうちまじりたま はざりけむ、と、つらうさへぞ思さるる。  何ごとをかは聞こえつくしたまはむ。くらぶの山に宿も取

らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなか なかなり。    見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるる   わが身ともがな とむせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、    世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢   になしても 思し乱れたるさまも、いとことわりにかたじけなし。命婦の 君ぞ、御直衣などは、かき集めもて来たる。 源氏・藤壷の苦悩 藤壷懐妊、宮中に帰参 殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひ つ。御文なども、例の御覧じ入れぬよしの みあれば、常のことながらも、つらう、い みじう思しほれて、内裏へも参らで、二三日籠りおはすれば、 また、いかなるにかと、御心動かせたまふべかめるも、恐ろ しうのみおぼえたまふ。

 宮も、なほいと心うき身なりけり、と思し嘆くに、なやま しさもまさりたまひて、とく参りたまふべき御使しきれど、 思しも立たず。まことに御心地例のやうにもおはしまさぬは、 いかなるにかと、人知れず思すこともありければ、心うく、 いかならむとのみ思し乱る。暑きほどはいとど起きも上がり たまはず。三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人々 見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世のほど心うし。 人は思ひよらぬことなれば、この月まで奏せさせたまはざり けること、と驚ききこゆ。わか御心ひとつには、しるう思し分 くこともありけり。御湯殿などにも親しう仕うまつりて、何 ごとの御気色をもしるく見たてまつり知れる、御乳母子の弁、 命婦などぞ、あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあ らねば、なほのがれがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさま しと思ふ。内裏には御物の怪のまぎれにて、とみに気色なう おはしましけるやうにぞ奏しけむかし。見る人もさのみ思ひ

けり。いとどあはれに限りなう思されて、御使などのひまな きもそら恐ろしう、ものを思すこと隙なし。  中将の君も、おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて、 合はする者を召して問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ 筋のことを合はせけり。 「その中に違ひ目ありて、つつし ませたまふべきことなむはべる」と言ふに、わづらはしくお ぼえて、 「みづからの夢にはあらず、人の御ことを語るなり。 この夢合ふまで、また人にまねぶな」とのたまひて、心の中 には、いかなることならむと思しわたるに、この女宮の御こ と聞きたまひて、もしさるやうもや、と思しあはせたまふに、 いとどしくいみじき言の葉尽くし聞こえたまへど、命婦も思 ふに、いとむくつけう、わづらはしさまさりて、さらにたば かるべき方なし。はかなき一行の御返りのたまさかなりしも、 絶えはてにたり。  七月になりてぞ参りたまひける。めづらしうあはれにて、

いとどしき御思ひのほど限りなし。すこしふくらかになりた まひて、うちなやみ面痩せたまへる、はた、げに似るものな くめでたし。例の明け暮れこなたにのみおはしまして、御遊 びもやうやうをかしき空なれば、源氏の君もいとまなく召し まつはしつつ、御琴笛など、さまざまに仕うまつらせたま ふ。いみじうつつみたまへど、忍びがたき気色の漏り出づる をりをり、宮もさすがなる事どもを、多く思しつづけけり。 尼君ら帰京源氏訪れて紫の上の声を聞く かの山寺の人は、よろしくなりて出でたま ひにけり。京の御住み処尋ねて、時々の御 消息などあり。同じさまにのみあるもこと わりなるうちに、この月ごろは、ありしにまさるもの思ひに、 ことごとなくて過ぎゆく。  秋の末つ方、いともの心細くて嘆きたまふ。月のをかしき 夜、忍びたる所に、からうじて思ひたちたまへるを、時雨め いてうちそそく。おはする所は六条京極わたりにて、内裏よ

りなれば、すこしほど遠き心地するに、荒れたる家の、木立 いとものふりて、木暗く見えたるあり。例の御供に離れぬ惟- 光なむ、 「故按察大納言の家にはべりて、もののたより にとぶらひてはべりしかば、かの尼上、いたう弱りたまひに たれば、何ごともおぼえず、となむ申してはべりし」と聞こ ゆれば、 「あはれのことや。とぶらふべかりけるを。など かさなむとものせざりし。入りて消息せよ」とのたまへば、 人入れて案内せさす。わざとかう立ち寄りたまへること、と 言はせたれば、入りて、 「かく御とぶらひになむおはしま したる」と言ふに、おどろきて、 「いとかたはらいたきこ とかな。この日ごろ、むげにいと頼もしげなくならせたまひ にたれば、御対面などもあるまじ」と言へども、帰したてま つらむはかしこしとて、南の廂ひきつくろひて入れたてま つる。   「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。

ゆくりなう、もの深き御座所になむ」
と聞こゆ。げにかかる 所は、例に違ひて思さる、 「常に思ひたまへたちながら、 かひなきさまにのみもてなさせたまふに、つつまれはべりて なむ。なやませたまふこと重くともうけたまはらざりけるお ぼつかなさ」など聞こえたまふ。 「乱り心地は、いつとも なくのみはべるが、限りのさまになりはべりて、いとかたじ けなく立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと。 のたまはすることの筋、たまさかにも思しめしかはらぬやう はべらば、かくわりなき齢過ぎはべりて、かならずかずまへ させたまへ。いみじう心細げに見たまへおくなん、願ひはべ る道のほだしに、思ひたまへられぬべき」など聞こえたまへ り。  いと近ければ、心細げなる御声絶え絶え聞こえて、 「い とかたじけなきわざにもはべるかな。この君だに、かしこま りも聞こえたまつべきほどならましかば」とのたまふ。あは

れに聞きたまひて、 「何か、浅う思ひたまへむことゆゑ、 かうすきずきしきさまを見えたてまつらむ。いかなる契りに か、見たてまつりそめしより、あはれに思ひきこゆるも、あ やしきまで、この世の事にはおぼえはべらぬ」などのたまひ て、 「かひなき心地のみしはべるを、かのいはけなうもの したまふ御一声、いかで」とのたまへば、 「いでや、よろ づもの思し知らぬさまに、大殿籠り入りて」など聞こゆるを りしも、あなたより来る音して、 「上こそ。この寺にありし 源氏の君こそおはしたなれ。など見たまはぬ」とのたまふを、 人々いとかたはらいたしと思ひて、 「あなかま」と聞こゆ。 「いさ、見しかば心地のあしさ慰みき、とのたまひしかばぞ かし」と、かしこきこと聞こえたりと思してのたまふ。いと をかしと聞いたまへど、人々の苦しと思ひたれば、聞かぬや うにて、まめやかなる御とぶらひを聞こえおきたまひて帰り たまひぬ。げに言ふかひなのけはひや、さりとも、いとよう

教へてむ、と思す。 翌日、源氏尼君に消息 紫の上への執心 またの日もいとまめやかにとぶらひきこえ たまふ。例の小さくて、    「いはけなき鶴の一声聞きしより葦-   間になづむ舟ぞえならぬ 同じ人にや」と、ことさら幼く書きなしたまへるも、いみじ うをかしげなれば、やがて御手本に、と人々聞こゆ。少納言 ぞ聞こえたる。 「訪はせたまへるは、今日をも過ぐしが たげなるさまにて、山寺にまかり渡るほどにて。かう訪はせ たまへるかしこまりは、この世ならでも聞こえさせむ」とあ り。いとあはれと思す。  秋の夕は、まして、 心のいとまなく思し乱るる人の御あ たりに心をかけて、あながちなる、ゆかりもたづねまほしき 心もまさりたまふなるべし。「消えんそらなき」とありし 夕、思し出でられて、恋しくも、また、見ば劣りやせむ、と

さすがに危し。    手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺   の若草 尼君の死去源氏、紫の上をいたわり弔う 十月に朱雀院の行幸あるべし。舞人など、 やむごとなき家の子ども、上達部殿上人ど もなども、その方につきづきしきは、みな 選らせたまへれば、親王たち大臣よりはじめて、とりどりの 才ども習ひたまふ。いとまなし。  山里人にも、久しくおとづれたまはざりけるを、思し出で て、ふりはへ遣はしたりければ、僧都の返りごとのみあり。 「たちぬる月の二十日のほどになむ、つひにむなしく見 たまへなして、世間の道理なれど、悲しび思ひたまふる」な どあるを見たまふに、世の中のはかなさもあはれに、うしろ めたげに思へりし人もいかならむ、幼きほどに恋ひやすらむ、 故御息所に後れたてまつりしなど、はかばかしからねど思ひ

出でて、浅からずとぶらひたまへり。少納言、ゆゑなからず 御返りなど聞こえたり。 源氏、紫の上の邸を訪れ、一夜を過す 忌みなど過ぎて、京の殿になど聞きたまへ ば、ほど経て、みづからのどかなる夜おは したり。いとすごげに荒れたる所の、人少 ななるに、いかに幼き人おそろしからむと見ゆ。例の所に入 れたてまつりて、少納言、御ありさまなど、うち泣きつつ聞 こえつづくるに、あいなう御袖もただならず。   「宮に渡したてまつらむとはべるめるを、 故姫君のい と情なく、うきものに思ひきこえたまへりしに、いとむげに 児ならぬ齢の、またはかばかしう人のおもむけをも見知りた まはず、中空なる御ほどにて、あまたものしたまふなる中の、 あなづらはしき人にてや交りたまはんなど、過ぎたまひぬる も、世とともに思し嘆きつること、しるきこと多くはべるに、 かくかたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどりきこ

えさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべきをりふしには べりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、 御年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくは べる」
と聞こゆ。 「何か、かうくり返し聞こえ知らする心 のほどを、つつみたまふらむ。その言ふかひなき御心のあり さまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、 心ながら思ひ知られける。なほ人づてならで、聞こえ知らせ ばや。   あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへ   る波かは めざましからむ」とのたまへば、 「げにこそいとかしこ けれ」とて、   「寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかんほど   ぞ浮きたる わりなきこと」と聞こゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆる されたまふ。 「なぞ越えざらん」と、うち誦じたまへるを、 身にしみて若き人々思へり。  君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御遊 びがたきどもの、 「直衣着たる人のおはする。宮のおはしま すなめり」と聞こゆれば、起き出でたまひて、 「少納言よ。 直衣着たりつらむは、いづら。宮のおはするか」とて、寄り おはしたる御声、いとらうたし。 「宮にはあらねど、また 思し放つべうもあらず。こち」とのたまふを、恥づかしかり し人と、さすがに聞きなして、あしう言ひてけり、と思して、 乳母にさし寄りて、 「いざかし、ねぶたきに」とのたまへば、 「いまさらに、など忍びたまふらむ。この膝のうへに大殿- 籠れよ。いますこし寄りたまへ」とのたまへば、乳母の、 「さればこそ。かう世づかぬ御ほどにてなむ」とて、押し寄 せたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、手をさし入 れて探りたまへれば、なよよかなる御衣に、髪はつやつやと

かかりて、末のふさやかに探りつけられたる、いとうつくし う思ひやらる。手をとらへたまへれば、うたて、例ならぬ人 の、かく近づきたまへるは、恐ろしうて、 「寝なむといふも のを」とて強ひて引き入りたまふにつきて、すべり入りて、 「今は、まろぞ思ふべき人。なうとみたまひそ」とのたま ふ。 「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。 聞こえさせ知らせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじ ものを」とて、苦しげに思ひたれば、 「さりとも、かかる 御ほどをいかがはあらん。なほ、ただ世に知らぬ心ざしのほ どを見はてたまへ」とのたまふ。 霰降り荒れて、すごき夜のさまなり。 「いかで、かう人 少なに、心細うて過ぐしたまふらむ」とうち泣いたまひて、 いと見捨てがたきほどなれば、 「御格子まゐりね。もの恐 ろしき夜のさまなめるを、宿直人にてはべらむ。人々近うさ ぶらはれよかし」とて、いと馴れ顔に御帳の内に入りたまへ

ば、あやしう思ひの外にも、とあきれて、誰も誰もゐたり。 乳母は、うしろめたうわりなしと思へど、荒らましう聞こえ 騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり。若君は、いと恐ろ しう、いかならんとわななかれて、いとうつくしき御肌つき も、そぞろ寒げに思したるを、らうたくおぼえて、単衣ばか りを押しくくみて、わが御心地も、かつは、うたておぼえた まへど、あはれにうち語らひたまひて、 「いざたまへよ。 をかしき絵など多く、雛遊び などする所に」と、心につく べきことをのたまふけはひの、 いとなつかしきを、幼き心地 にも、いといたう怖ぢず、さ すかにむつかしう、寝も入ら ずおぼえて、身じろき臥した まへり。

 夜ひと夜風吹き荒るるに、 「げにかうおはせざらましか ば、いかに心細からまし。同じくはよろしきほどにおはしま さましかば」とささめきあへり。乳母は、うしろめたさに、 いと近うさぶらふ。風すこし吹きやみたるに、夜深う出でた まふも、事あり顔なりや。 「いとあはれに見たてまつる御 ありさまを、今はまして片時の間もおぼつかなかるべし。明 け暮れながめはべる所に渡したてまつらむ。かくてのみはい かが。もの怖ぢしたまはざりけり」とのたまへば、 「宮も 御迎へになど聞こえのたまふめれど、この御四十九日過ぐし てや、など思うたまふる」と聞こゆれば、 「頼もしき筋な がらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ疎うお ぼえたまはめ。今より見たてまつれど、浅からぬ心ざしはま さりぬべくなむ」とて、かい撫でつつ、かへりみがちにて出 でたまひぬ。 源氏、帰途に忍び所の門をたたかす

いみじう霧りわたれる空もただならぬに、 霜はいと白うおきて、まことの懸想もをか しかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。 いと忍びて通ひたまふ所の、道なりけるを思し出でて、門う ち叩かせたまへど、聞きつくる人なし。かひなくて、御供に 声ある人して、うたはせたまふ。   あさぼらけ霧立つそらのまよひにも行き過ぎがたき妹が  門かな と二返りばかりうたひたるに、よしある下仕を出だして、   立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草のとざしにさはり  しもせじ と言ひかけて入りぬ。また人も出で来ねば、帰るも情なけれ ど、明けゆく空もはしたなくて、殿へおはしぬ。  をかしかりつる人のなごり恋しく、ひとり笑みしつつ臥し たまへり。日高う大殿籠り起きて、文やりたまふに、書くべ

き言葉も例ならねば、筆うち置きつつすさびゐたまへり。を かしき絵などをやりたまふ。 父兵部卿宮紫の上を訪ね、あわれむ かしこには、今日しも、宮渡りたまへり。 年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うも の古りたる所の、いとど人少なにさびしけ れば、見わたしたまひて、 「かかる所には、いかでか、しば しも幼き人の過ぐしたまはむ。なほかしこに渡したてまつり てむ。何のところせきほどにもあらず。乳母は、曹司などし てさぶらひなむ。君は、若き人々あれば、もろともに遊びて、 いとようものしたまひなむ」などのたまふ。  近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、い みじう艶に染みかへらせたまへれば、 「をかしの御匂ひや。 御衣はいと萎えて」と心苦しげに思いたり。 「年ごろも、 あつしくさだすぎたまへる人に添ひたまへるよ。かしこに渡 りて見ならしたまへなどものせしを、あやしう疎みたまひて、

人も心おくめりしを、かかるをりにしもものしたまはむも、 心苦しう」
などのたまへば、 「何かは。心細くとも、し ばしはかくておはしましなむ。すこしものの心思し知りなむ に渡らせたまはむこそ、よくははべるべけれ」と聞こゆ。 「夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものも聞こしめ さず」とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてに うつくしく、なかなか見えたまふ。 「何か、さしも思す。今 は世に亡き人の御ことはかひなし。おのれあれば」など語ら ひきこえたまひて、暮るれば帰らせたまふを、いと心細しと 思いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、 「いとかう思ひ な入りたまひそ。今日明日渡したてまつらむ」など、かへす がへすこしらへおきて、出でたまひぬ。なごりも慰めがたう 泣きゐたまへり。  行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、ただ年ご ろたち離るるをりなうまつはしならひて、今は亡き人となり

たまひにける、と思すがいみじきに、幼き御心地なれど、胸 つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、昼はさても紛 らはしたまふを、タ暮となれば、いみじく屈したまへば、か くてはいかでか過ごしたまはむ、と慰めわびて、乳母も泣き あへり。 源氏、惟光を遣わし、父宮の意図を知る 君の御もとよりは、惟光を奉れたまへり。 「参り来べきを、内裏より召しあればなむ。 心苦しう見たてまつりしも、静心なく」と て、宿直人奉れたまへり。 「あぢきなうもあるかな。戯れ にても、もののはじめにこの御ことよ。宮聞こしめしつけば、 さぶらふ人々のおろかなるにぞさいなまむ。あなかしこ。 もののついでに、いはけなくうち出できこえさせたまふな」 など言ふも、それをば何とも思したらぬぞあさましきや。少- 納言は、惟光にあはれなる物語どもして、 「あり経て後 や、さるべき御宿世、のがれきこえたまはぬやうもあらむ。

ただ今は、かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを、 あやしう思しのたまはするも、いかなる御心にか、思ひよる 方なう乱れはべる。今日も宮渡らせたまひて、『うしろやす く仕うまつれ、心幼くもてなしきこゆな』と、のたまはせつ るも、いとわづらはしう、ただなるよりは、かかる御すき事 も思ひ出でられはべりつる」
など言ひて、この人も事あり顔 にや思はむ、など、あいなければ、いたう嘆かしげにも言ひ なさず。大夫も、いかなることにかあらむ、と心得がたう思 ふ。  参りてありさまなど聞こえければ、あはれに思しやらるれ ど、さて通ひたまはむも、さすがにすずろなる心地して、か るがるしう、もてひがめたると、人もや漏り聞かむなど、つ つましければ、ただ迎へてむと思す。御文はたびたび奉れた まふ。暮るれば、例の大夫をぞ奉れたまふ。 「さはる事ど ものありて、え参り来ぬを、おろかにや」などあり。 「宮

より、明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、心あ わたたしくてなむ。年ごろの蓬生をかれなむも、さすがに心- 細く、さぶらふ人々も思ひ乱れて」
と、言少なに言ひて、を さをさあへしらはず、物縫ひいとなむけはひなどしるければ、 参りぬ。 葵の上と不和、紫の上を邸から連れ出す 君は大殿におはしけるに、例の女君、とみ にも対面したまはず。ものむつかしくおぼ えたまひて、あづまをすが掻きて、 「常陸 には田をこそつくれ」といふ歌を、声はいとなまめきて、す さびゐたまへり。参りたれば、召し寄せてありさま問ひたま ふ。しかじかなど聞こゆれば、口惜しう思して、かの宮に渡 りなば、わざと迎へ出でむも、すきずきしかるべし、幼き人 を盗み出でたりと、もどき負ひなむ、その前に、しばし人に も口がためて、渡してむ、と思して、 「暁、かしこにもの せむ。車の装束さながら、随身一人二人仰せおきたれ」との

たまふ。うけたまはりて立ちぬ。  君、いかにせまし、聞こえありて、すきがましきやうなる べきこと、人のほどだにものを思ひ知り、女の心かはしける 事と、推しはかられぬべくは、世の常なり、父宮の尋ね出で たまへらむも、はしたなうすずろなるべきを、と思し乱るれ ど、さてはづしてむはいと口惜しかべければ、まだ夜深う出 でたまふ。女君、例のしぶしぶに、心もとけずものしたまふ。 「かしこにいとせちに見るべき事のはべるを、思ひたまへ 出でてなん。立ちかへり参り来なむ」とて、出でたまへば、 さぶらふ人々も知らざりけり。わが御方にて、御直衣などは 奉る。惟光ばかりを馬に乗せておはしぬ。  門うち叩かせたまへば、心も知らぬものの開けたるに、御 車をやをら引き入れさせて、大夫妻戸を鳴らしてしはぶけば、 少納言聞き知りて、出で来たり。 「ここに、おはします」 と言へば、 「幼き人は御殿籠りてなむ。などか、いと夜深

うは出でさせたまへる」
と、もののたよりと思ひて言ふ。 「宮へ渡らせたまふべかなるを、その前に聞こえおかむと てなむ」とのたまへば、 「何ごとにかはべらむ。いかに はかばかしき御答へ聞こえさせたまはむ」とて、うち笑ひて ゐたり。  君入りたまへば、いとかたはらいたく、 「うちとけて、 あやしきふる人どものはべるに」と聞こえさす。 「まだお どろいたまはじな。いで御目さましきこえむ。かかる朝霧を 知らでは寝るものか」とて入りたまへば、 「や」ともえ聞こ えず。  君は、何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふに、 おどろきて、宮の御迎へにおはしたる、と寝おびれて思した り。御髪掻きつくろひなどしたまひて、 「いざたまへ。宮 の御使にて参り来つるぞ」とのたまふに、あらざりけり、と あきれて、おそろしと思ひたれば、 「あな心う。まろも同

じ人ぞ」
とて、かき抱きて出でたまへば、大夫少納言など、 「こはいかに」と聞こゆ。 「ここには、常にもえ参らぬがおぼつかなければ、心や すき所にと聞こえしを、心うく渡りたまへるなれば、まして 聞こえがたかべければ。人ひとり参られよかし」とのたまへ ば、心あわたたしくて、 「今日はいと便なくなむはべる べき。宮の渡らせたまはんには、いかさまにか聞こえやらん。 おのづから、ほど経てさるべきにおはしまさば、ともかうも はべりなむを、いと思ひやりなきほどのことにはべれば、さ ぶらふ人々苦しうはべるべし」と聞こゆれば、 「よし、後 にも人は参りなむ」とて、御車寄せさせたまへば、あさまし う、いかさまに、と思ひあへり。若君も、あやしと思して泣 いたまふ。少納言、とどめきこえむ方なければ、昨夜縫ひし 御衣どもひきさげて、みづからもよろしき衣着かへて乗り ぬ。 紫の上を二条院に迎える紫の上の心慰む

二条院は近ければ、まだ明うもならぬほど におはして、西の対に御車寄せて下りたま ふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて下 ろしたまふ。少納言、 「なほいと夢の心地しはべるを、いか にしはべるべきことにか」とやすらへば、 「そは心ななり。 御みづから渡したてまつりつれば、帰りなむとあらば、送り せむかし」とのたまふに、わらひて下りぬ。にはかに、あさ ましう、胸も静かならず。宮の思しのたまはむこと、いかに なりはてたまふべき御ありさまにか、とてもかくても、頼も しき人々に後れたまへるがいみじさ、と思ふに、涙のとまら ぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり。  こなたは住みたまはぬ対なれば、御帳などもなかりけり。 惟光召して、御帳御屏風など、あたりあたりしたてさせたま ふ。御几帳の帷子引き下ろし、御座などただひきつくろふば かりにてあれば、東の対に、御宿直物召しに遣わして、大殿-

籠りぬ。若君は、いとむくつけく、いかにすることならむ、 とふるはれたまへど、さすがに声たててもえ泣きたまはず。 「少納言がもとに寝む」とのたまふ声いと若し。 「いまは、 さは大殿籠るまじきぞよ」と、教へきこえたまへば、いとわ びしくて泣き臥したまへり。乳母はうちも臥されず、ものも おぼえず、起きゐたり。  明けゆくままに見わたせば、殿の造りざま、しつらひざ ま、さらにもいはず、庭の砂子も玉を重ねたらむやうに見え て、かかやく心地するに、はしたなく思ひゐたれど、こなた には女などもさぶらはざりけり。けうとき客人などの参るを りふしの方なりければ、男どもぞ御廉の外にありける。かく 人迎へたまへり、と聞く人、 「誰ならむ。おぼろけにはあら じ」とささめく。  御手水御粥など、こなたにまゐる。日高う寝起きたまひて、 「人なくてあしかめるを、さるべき人々、タづけてこそは 迎へさせたまはめ」とのたまひて、対に童べ召しに遣わす。 「小さきかぎり、ことさらに参れ」とありければ、いとをか しげにて、四人参りたり。君は御衣にまとはれて臥したまへ るを、せめて起こして、 「かう心うくなおはせそ。すずろ なる人は、かうはありなむや。女は、心やはらかなるなむよ き」など、今より教へきこえたまふ。御容貌は、さし離れて 見しよりも、きよらにて、なつかしううち語らひつつ、をか しき絵遊び物ども取りに遣わして、見せたてまつり、御心に つく事どもをしたまふ。やうやう起きゐて見たまふに、鈍- 色のこまやかなるが、うち萎えたるどもを着て、何心なくう ち笑みなどしてゐたまへるが、いとうつくしきに、我もうち 笑まれて見たまふ。  東の対に渡りたまへるに、たち出でて、庭の木立、池の 方などのぞきたまへば、霜枯れの前栽絵にかけるやうにおも しろくて、見も知らぬ四位五位こきまぜに、隙なう出で入り

つつ、げにをかしき所かな、と思す。御屏風どもなど、いと をかしき絵を見つつ、慰めておはするもはかなしや。 紫の上に手習いを教え、ともに遊ぶ 君は二三日内裏へも参りたまはで、この人 をなつけ語らひきこえたまふ。やがて本に と思すにや、手習絵などさまざまにかき つつ見せたてまつりたまふ。いみじうをかしげにかき集めた まへり。「武蔵野といへばかこたれぬ」と紫の紙に書いたま へる、墨つきのいとことなるを取りて見ゐたまへり。すこし 小さくて、 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草   のゆかりを とあり。 「いで君も書いたまへ」とあれば、 「まだようは 書かず」とて、見上げたまへるが、何心なくうつくしげなれ ば、うちほほ笑みて、 「よからねど、むげに書かぬこそわ ろけれ。教へきこえむかし」とのたまへば、うちそばみて書

いたまふ手つき、筆とりたまへるさまの幼げなるも、らうた うのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す。 「書きそこなひ つ」と恥ぢて隠したまふを、せめて見たまへば、 かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆ   かりなるらん と、いと若けれど、生ひ先見えて、ふくよかに書いたまへり。 故尼君のにぞ似たりける。今めかしき手本習はば、いとよう 書いたまひてむ、と見たまふ。雛など、わざと屋ども作りつ づけて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひのまぎらは しなり。 父兵部卿宮と、邸に残る女房たちの困惑 かのとまりにし人々、宮渡りたまひて尋ね きこえたまひけるに、聞こえやる方なくて ぞわびあへりける。 「しばし人に知らせじ」 と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、せちに口がため やりたり。ただ、 「行く方も知らず、少納言が率て隠しきこえ

たる」
とのみ聞こえさするに、宮も言ふかひなう思して、故 尼君もかしこに渡りたまはむことを、いとものしと思したり しことなれば、乳母のいとさし過ぐしたる心ばせのあまり、 おいらかに、渡さむを便なしなどは言はで、心にまかせて、 率てはふらかしつるなめり、と泣く泣く帰りたまひぬ。 「も し聞き出でたてまつらば告げよ」とのたまふもわづらはしく。 僧都の御もとにも尋ねきこえたまへど、あとはかなくて、あ たらしかりし御容貌など恋しくかなし、と思す。北の方も、 母君を憎しと思ひきこえたまひける心もうせて、わが心にま かせつべう思しけるに違ひぬるは、口惜しうおぼしけり。 紫の上、無心に源氏と馴れむつぶ やうやう人参り集りぬ。御遊びがたきの童 べ児ども、いとめづらかに今めかしき御あ りさまどもなれば、思ふことなくて遊びあ へり。君は、男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮など ばかりぞ、尼君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたま

へど、宮をばことに思ひ出できこえたまはず。もとより見な らひきこえたまはでならひたまへれば、今はただこの後の親 を、いみじう睦びまつはしきこえたまふ。ものよりおはすれ ば、まづ出でむかひて、あはれにうち語らひ、御懐に入り ゐて、いささかうとく恥づかしとも思ひたらず。さる方に、 いみじうらうたきわざなりけり。  さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わ が心地もすこし違ふふしも出で来やと、心おかれ、人も恨み がちに、思ひのほかのこと、おのづから出で来るを、いとを かしきもてあそびなり。むすめなどはた、かばかりになれば、 心やすくうちふるまひ、隔てなきさまに臥し起きなどは、え しもすまじきを、これは、いとさま変りたるかしづきぐさな り、と思ほいためり。
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