源氏物語

源氏、空蝉を断念せず、小君を責む

The Shell of the Locust

寝られたまはぬままには、 「我はかく人 に憎まれても習はぬを、今宵なむ初めてう しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくてな がらふまじうこそ思ひなりぬれ」などのたまヘば、涙をさヘ こぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く 小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさま通ひたるも、 思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄ら むも人わろかるべく、まめやかにめざましと思し明かしつつ、 例のやうにものたまひまつはさず、夜深う出でたまヘば、こ の子は、いといとほしくさうざうしと思ふ。  女もなみなみならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶 えてなし。思し懲りにけると思ふにも、やがてつれなくてや

みたまひなましかば、うからまし。しひていとほしき御ふる まひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉 ぢめてんと思ふものから、ただならずながめがちなり。  君は心づきなしと思しながら、かくてはえやむまじう御心 にかかり、人わろく思ほしわびて、小君に、「いとつらうもう れたうもおぼゆるに、しひて思ひかヘせど、心にしも従はず 苦しきを、さりぬべきをりみて対面すべくたばかれ」と、の たまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のた まひまつはすは、うれしうおぼえけり。 源氏、空蝉と軒端荻の碁打つ姿をのぞく 幼き心地に、いかならんをりと待ちわたる に、紀伊守国に下りなどして、女どちのどや かなる夕闇の道たどたどしげなるまぎれに、 わが車にて率てたてまつる。この子も幼きをいかならむと思 せど、さのみもえ思しのどむまじかりければ、さりげなき姿 にて、門など鎖さぬさきにと、急ぎおはす。人見ぬ方より引

き入れて、下ろしたてまつる。童なれば、宿直人などもこと に見入れ追従せず心やすし。  東の妻戸に立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子 叩きののしりて入りぬ。御達、 「あらはなり」と言ふなり。 「なぞ、かう暑きにこの格子は下ろされたる」と問ヘば、 「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言 ふ。さて向ひゐたらむを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて、 簾のはさまに入りたまひぬ。この入りつる格子はまだ鎖さね ば、隙見ゆるに寄りて、西ざ まに見通したまヘば、この際 に立てたる屏風も端の方おし 畳まれたるに、紛るべき几帳 なども、暑ければにや、うち かけて、いとよく見入れらる。  灯近うともしたり。母屋の

中柱にそばめる人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、 濃き綾の単襲なめり、何にかあらむ上に着て、頭つき細や かに小さき人のものげなき姿ぞしたる、顔などは、さし向ひ たらむ人などにもわざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩 せ痩せにて、いたうひき隠しためり。いま一人は東向きに て、残る所なく見ゆ。白き羅の単襲、二藍の小袿だつもの ないがしろに着なして、紅の腰ひき結ヘる際まで胸あらはに、 ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげにつぶつぶと 肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、 まみ、口つきいと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はい とふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげ に、すべていとねぢけたる所なく、をかしげなる人と見えた り。むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。 心地ぞなほ静かなる気を添ヘばやと、ふと見ゆる。かどなき にはあるまじ。碁打ちはてて結さすわたり、心とげに見えて

きはきはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、 「待ちたまヘや。そこは持にこそあらめ、このわたりの劫を こそ」など言ヘど、 「いで、この度は負けにけり。隅の 所、いでいで」と、指をかがめて、 「十、二十、三十、四十」 など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。 少し品おくれたり。  たとしヘなく口覆ひてさやかにも見せねど、目をしつとつ けたまヘれば、おのづから側目に見ゆ。目少しはれたる心地 して、鼻などもあざやかなる所なうねびれて、にほはしき所 も見えず。言ひ立つればわろきによれる容貌を、いといたう もてつけて、このまされる人よりは心あらむと目とどめつべ きさましたり。  にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりか にうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さ る方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、

まめならぬ御心はこれもえ思し放つまじかりけり。  見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろ ひそばめたる表面をのみこそ見たまヘ、かくうちとけたる人 のありさまかいま見などはまだしたまはざりつることなれば、 何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはま ほしきに、小君出でくる心地すれば、やをら出でたまひぬ。 源氏、空蝉の寝所に忍び、軒端荻と契る 渡殿の戸口に寄りゐたまヘり、いとかたじ けなしと思ひて、 「例ならぬ人はべりて え近うも寄りはべらず」 「さて今宵も やかヘしてんとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」 とのたまへば、 「などてか。あなたに帰りはべりなば、た ばかりはべりなん」と聞こゆ。さもなびかしつべき気色にこ そはあらめ。童なれど、物の心ばヘ、人の気色見つべくしづ まれるを、と思すなりけり。  碁打ちはてつるにやあらむ、うちそよめく心地して人々あ

かるるけはひなどすなり。 「若君はいづくにおはしますな らむ。この御格子は鎖してん」とて、鳴らすなり。 「しづ まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」と、のたまふ。この 子も、妹の御心は撓むところなくまめだちたれば、言ひあは せむ方なくて、人少なならんをりに入れたてまつらんと思ふ なりけり。 「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見 せさせよ」と、のたまヘど、 「いかでかさははべらん。格- 子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。さかし、されどもと、 をかしく思せど、見つとは知らせじ、いとほし、と思して、 夜更くることの心もとなさをのたまふ。  こたみは妻戸を叩きて入る。みな人々しづまり寝にけり。 「この障子口にまろは寝たらむ。風吹き通せ」とて、畳 ひろげて臥す。御達東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放 ちつる童べもそなたに入りて臥しぬれば、とばかりそら寝し て、灯明き方に屏風をひろげて、影ほのかなるに、やをら入

れたてまつる。いかにぞ、をこがましきこともこそ、と思す に、いとつつましけれど、導くままに母屋の几帳の帷子引き 上げて、いとやをら入りたまふとすれど、みなしづまれる夜 の御衣のけはひ、やはらかなるしも、いとしるかりけり。  女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやし く、夢のやうなることを、心に離るるをりなきころにて、心 とけたるいだに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがち なれば、春ならぬ木のめもいとなく嘆かしきに、碁打ちつる 君、今宵はこなたにと、今めかしくうち語らひて、寝にけり。 若き人は何心なういとようまどろみたるべし。かかるけはひ のいとかうばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、ひとヘう ちかけたる几帳の隙間に、暗けれど、うちみじろき寄るけは ひいとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれ ず、やをら起き出でて、生絹なる単衣をひとつ着て、すべり 出でにけり。

 君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心安く思す。床 の下に、二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまヘ るに、ありしけはひよりはものものしくおぼゆれど、思ほし も寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変りて、や うやう見あらはしたまひて、あさましく、心やましけれど、 人違ヘとたどりて見えんもをこがましく、あやしと思ふべし。 本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひ なう、をこにこそ思はめ、と思す。かのをかしかりつる灯影 ならばいかがはせむに、思しなるも、わろき御心浅さなめり かし。やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あ きれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。世の 中をまだ思ひ知らぬほどよりは、ざればみたる方にて、あえ かにも思ひまどはず。我とも知らせじと思せど、いかにして かかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事に もあらねど、あのつらき人のあながちに名をつつむも、さす

がにいとほしければ、たびたびの御方違ヘにことつけたまひ しさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべ けれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれ ど、えしも思ひ分かず。憎しとはなけれど、御心とまるべき ゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思 す。いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ、かく しふねき人はありがたきものを、と思すにしも、あやにくに 紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人のなま心なく若やか なるけはひもあはれなれば、さすがに情々しく契りおかせた まふ。 「人知りたることよりも、かやうなるはあはれも添 ふこととなむ、昔の人も言ひける。あひ思ひたまヘよ。つつ むことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじく なんありける。また、さるべき人々もゆるされじかしと、かね て胸痛くなん。忘れで待ちたまヘよ」など、なほなほしく語 らひたまふ。 「人の思ひはべらんことの恥づかしきにな

ん、え聞こえさすまじき」
と、うらもなく言ふ。 「なべて 人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝ヘて聞こえん。 気色なくもてなしたまヘ」など言ひおきて、かの脱ぎすべし たると見ゆる薄衣をとりて出でたまひぬ。 源氏、老女に見咎められ、危ない目をみる 小君近う臥したるを起こしたまヘば、うし ろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろき ぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御- 達の声にて、 「あれは誰そ」と、おどろおどろしく問ふ。わづ らはしくて、 「まろぞ」と答ふ。 「夜半に、こはなぞと歩 かせたまふ」と、さかしがりて、外ざまヘ来。いと憎くて、 「あらず。ここもとヘ出づるぞ」とて、君を押し出でたて まつるに、暁近き月隈なくさし出でて、ふと人の影見えけれ ば、 「またおはするは誰そ」と問ふ。 「民部のおもとな めり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」と言ふ。丈高き 人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩き

けると思ひて、 「いま、ただ今立ち並びたまひなむ」と言ふ言 ふ、我もこの戸より出でて来。わびしけれど、えはた押しか ヘさで、渡殿の口にかい添ひて、隠れ立ちたまヘれば、この おもとさしよりて、 「おもとは、今宵は上にやさぶらひた まひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下に はべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨晩参う上りし かど、なほえ堪ふまじくなむ」と憂ふ。答ヘも聞かで、 「あ な腹々。今聞こえん」とて過ぎぬるに、からうじて出でたま ふ。なほかかる歩きはかろがろしくあやふかりけりと、いよ いよ思し懲りぬべし。 源氏、空蝉ともに歌に思いを託す 小君、御車のしりにて、二条院におはしま しぬ。ありさまのたまひて、 「幼かりけ り」とあはめたまひて、かの人の心をつま はじきをしつつ、恨みたまふ。いとほしうてものもえ聞こえ ず、 「いと深う憎みたまふべかめれば、身もうく思ひはて

ぬ。などかよそにても、なつかしき答ヘばかりはしたまふま じき。伊予介に劣りける身こそ」
など、心づきなしと思ひて のたまふ。ありつる小袿を、さすがに御衣の下にひき入れて、 大殿籠れり。小君を御前に臥せて、よろづに怨み、かつは語 らひたまふ。 「あこはらうたけれど、つらきゆかりにこそ、 え思ひはつまじけれ」と、まめやかにのたまふを、いとわび しと思ひたり。  しばしうち休みたまヘど、寝られたまはず。御硯いそぎ召 して、さしはヘたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書 きすさびたまふ。 空蝉の身をかへてける  木のもとになほ人がらのな   つかしきかな と書きたまヘるを、懐にひき入 れて持たり。かの人もいかに思

ふらんといとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御こと つけもなし。かの薄衣は小袿のいとなつかしき人香に染める を、身近く馴らして見ゐたまヘり。  小君、かしこにいきたれば、姉君待ちつけていみじくのた まふ。 「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思 ひけむこと避りどころなきに、いとなむわりなき。いとかう 心幼きを、かつはいかに思ほすらん」とて、恥づかしめたま ふ。左右に苦しう思ヘど、かの御手習取り出でたり。さす がに取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに伊勢をのあまの しほなれてやなど、思ふもただならず、いとよろづに思ひ乱 れたり。西の君も、もの恥づかしき心地して、渡りたまひに けり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめて ゐたり。小君の渡り歩くにつけても胸のみふたがれど、御消- 息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、ざれたる心にも のあはれなるべし。つれなき人もさこそしづむれど、いとあ

さはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、 取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ 方に、   空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖   かな
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