源氏物語

源氏のあやにくな本性--語り手の前口上

The Broom Tree

光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消た れたまふ咎多かなるに、いとど、かかるす き事どもを末の世にも聞きつたへて、かろ びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、 語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといたく 世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきこ とはなくて、交野の少将には、笑はれたまひけむかし。  まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひ ようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。忍ぶの乱 れやと疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴 れたるうちつけのすきずきしさなどは好ましからぬ御本性に て、まれにはあながちにひき違へ、心づくしなることを御心

に思しとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふるまひ もうちまじりける。 五月雨の夜の宿直に、女の品定めはじまる 長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌さしつ づきて、いとど長居さぶらひたまふを、大 殿にはおぼつかなくうらめしく思したれど、 よろづの御よそひ、何くれとめづらしきさまに調じ出でたま ひつつ、御むすこの君たち、ただこの御宿直所に宮仕をつと めたまふ。宮腹の中将は、中に親しく馴れきこえたまひて、 遊び戯れをも人よりは心やすくなれなれしくふるまひたり。 右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいとも のうくして、すきがましきあだ人なり。  里にても、わが方のしつらひまばゆくして、君の出で入り したまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼学問をも遊びを ももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもま つはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおか

ず、心の中に思ふことも隠しあへずなん、睦れきこえたまひ ける。  つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に、殿上に もをさをさ人少なに、御宿直所も例よりはのどやかなる心地 するに、大殿油近くて、書どもなど見たまふ。近き御廚子な るいろいろの紙なる文どもを別き出でて、中将わりなくゆか しがれば、 「さりぬべきすこしは見せむ、かたはなるべき もこそ」と、ゆるしたまはねば、 「その、うちとけてかた はらいたしと思されんこそゆかしけれ。おしなべたるおほか たのは、数ならねど、ほどほどにつ けて、書きかはしつつも見はべりな ん。おのがじしうらめしきをりをり、 待ち顔ならむ夕暮などのこそ、見ど ころはあらめ」と怨ずれば、やむごと なくせちに隠したまふべきなどは、

かやうにおほぞうなる御廚子などにうち置き、散らしたまふ べくもあらず、深くとり置きたまふべかめれば、二の町の心 やすきなるべし、片はしづつ見るに、 「よくさまざまなる物 どもこそはべりけれ」とて、心あてに、「それか」「かれか」 など問ふなかに、言ひあつるもあり、もて離れたることをも 思ひ寄せて疑ふもをかしと思せど、言少なにて、とかく紛ら はしつつとり隠したまひつ。 「そこにこそ多くつどへたまふらめ。すこし見ばや。さ てなん、この廚子も快く開くべき」とのたまへば、 「御覧じ どころあらむこそかたくはべらめ」など聞こえたまふついで に、 「女の、これはしもと難つくまじきはかたくもあるか なと、やうやうなむ見たまへ知る。ただうはべばかりの情に 手走り書き、をりふしの答へ心得てうちしなどばかりは、随- 分によろしきも多かりと見たまふれど、そも、まことにその 方を取り出でん選びに、かならず漏るまじきはいとかたしや。

わが心得たることばかりを、おのがじし心をやりて、人をば おとしめなど、かたはらいたきこと多かり。親など立ち添ひ もてあがめて、生ひ先篭れる窓の内なるほどは、ただ片かど を聞きつたへて、心を動かすこともあめり。容貌をかしくう ちおほどき若やかにて、紛るることなきほど、はかなきすさ びをも人まねに心を入るることもあるに、おのづから一つゆ ゑづけて、し出づることもあり。見る人後れたる方をば言ひ 隠し、さてありぬべき方をばつくろひてまねび出だすに、そ れしかあらじと、そらにいかがは推しはかり思ひくたさむ。 まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうはなくなんあるべ き」
と、うめきたる気色も恥づかしげなれば、いとなべては あらねど、我も思しあはすることやあらむ、うちほほ笑みて、 「その片かどもなき人はあらむや」とのたまへば、 「い とさばかりならむあたりには、誰かはすかされ寄りはべらむ。 取る方なく口惜しき際と、優なりとおぼゆばかりすぐれたる

とは、数ひとしくこそはべらめ。人の品たかく生まれぬれば、 人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひ こよなかるべし、中の品になん、人の心々おのがじしの立て たるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。 下のきざみといふ際になれば、ことに耳立たずかし」
とて、 いとくまなげなる気色なるも、ゆかしくて、 「その品々や いかに。いづれを三つの品におきてか分くべき。もとの品た かく生まれながら、身は沈み、位みじかくて人げなき、また 直人の上達部などまでなり上り、我は顔にて家の内を飾り、 人に劣らじと思へる、そのけぢめをばいかが分くべき」と問 ひたまふほどに、左馬頭、藤式部丞御物忌に篭らむとて 参れり。世のすき者にて、ものよく言ひとほれるを、中将待 ちとりて、この品々をわきまへ定めあらそふ。いと聞きにく きこと多かり。 左馬頭の弁--女の三階級について

「なり上れども、もとよりさるべき筋な らぬは、世人の思へることもさは言へどな ほことなり。また、もとはやむごとなき筋 なれど、世に経るたづき少なく、時世にうつろひて、おぼえ 衰へぬれば、心は心として事足らず、わろびたることども出 でくるわざなめれば、とりどりにことわりて、中の品にぞお くべき。受領といひて、人の国のことにかかづらひ営みて、 品定まりたる中にも、またきざみきざみありて、中の品のけ しうはあらぬ選り出でつべきころほひなり。なまなまの上達- 部よりも、非参議の四位どもの、世のおぼえ口惜しからず、 もとの根ざしいやしからぬ、やすらかに身をもてなしふるま ひたる、いとかわらかなりや。家の内に足らぬことなど、は たなかめるままに、省かずまばゆきまでもてかしづけるむす めなどの、おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし。宮- 仕に出で立ちて、思ひがけぬ幸ひ取り出づる例ども多かりか

し」
など言へば、 「すべてにぎははしきによるべきなむな り」とて、笑ひたまふを、 「他人の言はむやうに心得ず仰 せらる」と、中将憎む。 左馬頭の弁--中流の女のおもしろさ 「もとの品、時世のおぼえうち合ひ、や むごとなきあたりの、内々のもてなしけは ひ後れたらむはさらにも言はず、何をして かく生ひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。うち合ひて すぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえ て、めづらかなることと心も驚くまじ。なにがしが及ぶべき ほどならねば、上が上はうちおきはべりぬ。さて世にありと 人に知られず、さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひの外に らうたげならん人の閉ぢられたらんこそ限りなくめづらしく はおぼえめ、いかで、はたかかりけむと、思ふより違へるこ となん、あやしく心とまるわざなる。父の年老いものむつか しげにふとりすぎ、兄の顔にくげに、思ひやりことなることな

き閨の内に、いといたく思ひあがり、はかなくし出でたるこ とわざもゆゑなからず見えたらむ、片かどにても、いかが思 ひの外にをかしからざらむ。すぐれて瑕なき方の選びにこそ 及ばざらめ、さる方にて捨てがたきものをば」
とて、式部を 見やれば、わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたま ふにやとや心得らむ、ものも言はず。 「いでや、上の品と思 ふにだにかたげなる世を」と、君は思すべし。白き御衣ども のなよよかなるに、直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて、 紐などもうち捨てて、添ひ臥したまへる、御灯影いとめでた く、女にて見たてまつらまほし。この御ためには上が上を選 り出でても、なほあくまじく見えたまふ。 左馬頭の弁--理想の妻は少ないこと さまざまの人の上どもを語りあはせつつ、 「おほかたの世につけてみるには咎なき も、わがものとうち頼むべきを選らんに、 多かる中にもえなん思ひ定むまじかりける。男の朝廷に仕う

まつり、はかばかしき世のかためとなるべきも、まことの器 ものとなるべきを取り出ださむにはかたかるべしかし。され ど、かしこしとても、一人二人世の中をまつりごちしるべき ならねば、上は下に助けられ、下は上になびきて、事ひろき にゆづらふらん。狭き家の内のあるじとすべき人ひとりを思 ひめぐらすに、足らはであしかるべき大事どもなむかたがた 多かる。とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさて もありぬべき人の少なきを、すきずきしき心のすさびにて、 人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど、ひとへに 思ひ定むべきよるべとすばかりに、同じくはわが力いりをし、 直しひきつくろふべきところなく、心にかなふやうにもやと 選りそめつる人の定まりがたきなるべし。かならずしもわが 思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひ とまる人はものまめやかなりと見え、さてたもたるる女のた めも、心にくく推しはからるるなり。

 されど、なにか、世のありさまを見たまへ集むるままに、 心におよばず、いとゆかしきこともなしや。君達の上なき御- 選びには、まして、いかばかりの人かはたぐひたまはん。容- 貌きたなげなく、若やかなるほどの、おのがじしは、塵もつ かじと身をもてなし、文を書けど、おほどかに言選りをし、 墨つきほのかに、こころもとなく思はせつつ、またさやかに も見てしがなと、すべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり 言ひ寄れど、息の下にひき入れ、言ずくななるが、いとよく もて隠すなりけり。なよびかに女しと見れば、あまり情にひ きこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難と すべし。  事が中に、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあは れ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめ る方なくてもよかるべしと見えたるに、またまめまめしき筋 を立てて、耳はさみがちに、美相なき家刀自の、ひとへにう

ちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、 おほやけわたくしの人のたたずまひ、よきあしきことの、目 にも耳にもとまるありさまを、うとき人にわざとうちまねば んやは、近くて見ん人の聞きわき思ひ知るべからむに、語り もあはせばやと、うちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしは、あ やなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまることなど 多かるを、何にかは、聞かせむと思へば、うち背かれて、人- 知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、あはれとも、うちひとりごた るるに、何ごとぞなど、あはつかにさし仰ぎゐたらむは、い かがは口惜しからぬ。  ただひたぶるに児めきて柔かならむ人を、とかくひきつく ろひては、などか見ざらん。こころもとなくとも、直しどこ ろある心地すべし。げに、さし向ひて見むほどは、さても、 らうたき方に罪ゆるし見るべきを、立ち離れて、さるべきこ とをも言ひやり、をりふしにし出でむわざの、あだ事にもま

め事にも、わが心と思ひ得ることなく、深きいたりなからむ は、いと口惜しく、頼もしげなき咎やなほ苦しからむ。常は すこしそばそばしく、心づきなき人の、をりふしにつけて出 でばえするやうもありかし」
など、隈なきもの言ひも、定め かねて、いたくうち嘆く。 左馬頭、夫婦間の寛容と知性を説く 「今はただ品にもよらじ、容貌をばさら にも言はじ、いと口惜しくねぢけがましき おぼえだになくは、ただひとへにものまめ やかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み どころには思ひおくべかりける。あまりのゆゑよし心ばせう ち添へたらむをばよろこびに思ひ、すこし後れたる方あらむ をもあながちに求め加へじ。うしろやすくのどけきところだ に強くは、うはべの情はおのづからもてつけつべきわざをや。 艶にもの恥して、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍び て、上はつれなくみさをづくり、心ひとつに思ひあまる時は、

言はん方なくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しの ばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなど に這ひ隠れぬるをりかし。童にはべりし時、女房などの物語 読みしを聞きて、いとあはれに、悲しく、心深きことかなと、 涙をさへなん落しはべりし。今思ふには、いとかるがるしく ことさらびたることなり。心ざし深からん男をおきて、見る 目の前につらきことありとも、人の心を見知らぬやうに逃げ 隠れて、人をまどはし心を見んとするほどに、永き世のもの 思ひになる、いとあぢきなきことなり。
『心深しや』など ほめたてられて、あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬかし。 思ひ立つほどはいと心澄めるやうにて、世にかへりみすべく も思へらず、 『いで、あな悲し、かくはた思しなりにける よ』などやうに、あひ知れる人、来とぶらひ、ひたすらにう しとも思ひ離れぬ男、聞きつけて涙落せば、使ふ人古御達な ど、 『君の御心はあはれなりけるものを、あたら御身を』

ど言ふ。みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心細ければ、 うちひそみぬかし。忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、をりをり ごとにえ念じえず、くやしきこと多かめるに、仏もなかなか 心ぎたなしと見たまひつべし。濁りにしめるほどよりも、な ま浮びにては、かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる。 絶えぬ宿世浅からで、尼にもなさで尋ね取りたらんも、やが てその思ひ出うらめしきふしあらざらんや。あしくもよくも、 あひ添ひて、とあらむをりもかからんきざみをも見過ぐした らん仲こそ、契り深くあはれならめ、我も人もうしろめたく 心おかれじやは。  また、なのめにうつろふ 方あらむ人を恨みて、気色 ばみ背かん、はたをこがま しかりなん、心はうつろふ 方ありとも、見そめし心ざ

しいとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべき に、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり。  すべて、よろづのこと、なだらかに、怨ずべきことをば、 見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも、憎から ずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。多 くはわが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにう ちゆるべ、見放ちたるも、心やすくらうたきやうなれど、お のづからかろきかたにぞおぼえはべるかし。繋がぬ舟の浮き たる例も、げにあやなし。さははべらぬか」と言へば、中将 うなづく。 「さし当りて、をかしともあはれとも心に入ら む人の、頼もしげなき疑ひあらむこそ大事なるべけれ、わが 心あやまちなくて、見過ぐさば、さし直してもなどか見ざら む、とおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、違ふ べきふしあらむを、のどやかに見しのばむよりほかに、ます ことあるまじかりけり」と言ひて、わが妹の姫君は、この定

めにかなひたまへりと思へば、君のうちねぶりて、言葉まぜ たまはぬを、さうざうしく心やましと思ふ。 左馬頭の弁--芸能のたとえごと 馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐ たり。中将はこのことわり聞きはてむと、 心入れてあへしらひゐたまへり。 「よろづの事によそへて思せ。木の道の匠の、よろづの 物を心にまかせて作り出だすも、臨時のもてあそび物の、そ の物と跡も定まらぬは、そばつきざればみたるも、げにかう もしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、今めかし きに目移りて、をかしきもあり。大事として、まことにうる はしき人の調度の飾とする、定まれるやうある物を、難なく し出づることなん、なほまことの物の上手はさまことに見え 分かれはべる。また絵所に上手多かれど、墨書きに選ばれて、 つぎつぎにさらに劣りまさるけぢめふとしも見え分かれず。 かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚のすがた、

唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などのおどろおど ろしく作りたる物は、心にまかせてひときは目驚かして、実 には似ざらめど、さてありぬべし。世の常の山のたたずまひ、 水の流れ、目に近き人の家ゐありさま、げにと見え、なつか しく柔いだる形などを静かに描きまぜて、すくよかならぬ山 のけしき、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、そ の心しらひおきてなどをなん、上手はいと勢ことに、わろ 者は及ばぬところ多かめる。  手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点 長に走り書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るにか どかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書 き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、いまひとたびとり 並べて見れば、なほ実になんよりける。はかなき事だにかく こそはべれ。まして人の心の、時にあたりて気色ばめらむ見 る目の情をば、え頼むまじく思うたまへてはべる。そのはじ

めの事、すきずきしくとも申しはべらむ」
とて、近くゐ寄れ ば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、頬杖をつき て、向ひゐたまへり。法の師の、世のことわり説き聞かせむ 所の心地するも、かつはをかしけれど、かかるついでは、お のおの睦言もえ忍びとどめずなんありける。 左馬頭の体験談--指喰いの女 「はやう、まだいと下臈にはべりし時、 あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつる やうに容貌などいとまほにもはべらざりし かば、若きほどのすき心には、この人をとまりにとも思ひと どめはべらず、よるべとは思ひながら、さうざうしくて、と かく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、心 づきなく、いとかからで、おいらかならましかばと思ひつつ、 あまりいとゆるしなく疑ひはべりしもうるさくて、かく数な らぬ身を見もはなたで、などかくしも思ふらむと、心苦しき をりをりもはべりて、自然に心をさめらるるやうになんはべ

りし。  この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、 いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、後れたる筋の 心をも、なほ口惜しくは見えじと思ひ励みつつ、とにかくに つけて、ものまめやかに後見、つゆにても心に違ふことはな くもがなと思へりしほどに、すすめる方と思ひしかど、とか くになびきてなよびゆき、醜き容貌をも、この人に見や疎ま れんと、わりなく思ひつくろひ、疎き人に見えば面伏せにや 思はんと、憚り恥ぢて、みさをにもてつけて、見馴るるまま に、心もけしうはあらずはべりしかど、ただこの憎き方ひと つなん心をさめずはべりし。  そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちに従ひ怖ぢたる 人なめり。いかで、懲るばかりのわざして、おどして、この 方もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむ、と思ひて、 まことにうしなども思ひて絶えぬべき気色ならば、かばかり

我に従ふ心ならば、思ひ懲りなむと思ひたまへえて、ことさ らに情なくつれなきさまを見せて、例の、腹立ち怨ずるに、
『かくおぞましくは、いみじき契り深くとも、絶えてまた 見じ。限りと思はば、かくわりなきもの疑ひはせよ。行く先 長く見えむと思はば、つらきことありとも念じて、なのめに 思ひなりて、かかる心だに失せなば、いとあはれとなん思ふ べき。人なみなみにもなり、すこし大人びんに添へても、ま た並ぶ人なくあるべき』やうなど、かしこく教へたつるかな と思ひたまへて、われたけく言ひそしはべるに、すこしうち 笑ひて、 『よろづに見だてなく、ものげなきほどを見過ぐし て、人数なる世もやと待つ方は、いとのどかに思ひなされて、 心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひ直らんをりを 見つけんと、年月を重ねんあいな頼みは、いと苦しくなんあ るべければ、かたみに背きぬべききざみになむある』と、ね たげに言ふに、腹立たしくなりて、憎げなることどもを言ひ

励ましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、指ひとつを引き寄 せて、食ひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて、 『かかる傷さへつきぬれば、いよいよ交らひをずべきにもあら ず。辱しめたまふめる官位、いとどしく何につけてかは人め かん。世を背きぬべき身なめり』など、言ひおどして、 『さ らば今日こそは限りなめれ』と、この指をかがめてまかでぬ。    『手を折りてあひみしことを数ふればこれひとつやは   君がうきふし え恨みじ』など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、   うきふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべき   をり など言ひしろひはべりしかど、まことには変るべきこととも 思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、あく がれまかり歩くに、臨時の祭の調楽に夜更けて、いみじう霙 降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせば、

なほ家路と思はむ方はまたなかりけり。内裏わたりの旅寝す さまじかるべく、気色ばめるあたりはそぞろ寒くやと思うた まへられしかば、いかが思へると気色も見がてら、雪をうち 払ひつつ、なま人わるく爪食はるれど、さりとも今宵日ごろ の恨みは解けなむと思ひたまへしに、灯ほのかに壁に背け、 萎えたる衣どもの厚肥えたる、大いなる寵にうちかけて、引 きあぐべきものの帷子などうちあげて、今宵ばかりやと待ち けるさまなり。さればよと心おごりするに、正身はなし。さ るべき女房どもばかりとまりて、『親の家にこの夜さりなん 渡りぬる』と答へはべり。艶なる歌も詠まず、気色ばめる消 息もせで、いとひたや寵りに情なかりしかば、あへなき心地 して、さがなくゆるしなかりしも我を疎みねと思ふ方の心や ありけむと、さしも見たまへざりしことなれど、心やましき ままに思ひはべりしに、着るべき物、常よりも心とどめたる 色あひしざまいとあらまほしくて、さすがにわが見棄ててん

後をさへなん、思ひやり後見たりし。  さりとも絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて、と かく言ひはべりしを、背きもせず、尋ねまどはさむとも隠れ 忍びず、かかやかしからず答へつつ、ただ、『ありしながら はえなん見過ぐすまじき。あらためてのどかに思ひならばな んあひ見るべき』など言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思 ひたまへしかば、しばし懲らさむの心にて、『しかあらため む』とも言はず、いたくつなびきて見せしあひだに、いとい たく思ひ嘆きてはかなくなりはべりにしかば、戯れにくくな むおほえはべりし。ひとへにうち頼みたらむ方は、さばかり にてありぬべくなん思ひたまへ出でらるる。はかなきあだ事 をもまことの大事をも、言ひあはせたるにかひなからず、龍- 田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじく、 その方も具して、うるさくなんはべりし」とて、いとあはれ と思ひ出でたり。中将、 「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、

長き契りにぞあえまし。げにその龍田姫の錦にはまたしくも のあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつき なくはかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。 さあるによりかたき世とは定めかねたるぞや」
と、言ひはや したまふ。 左馬頭の体験談--浮気な女 「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、 人も立ちまさり、心ばせまことにゆゑあり と見えぬべく、うち詠み走り書き、かい弾 く爪音、手つき口つき、みなたどたどしからず見聞きわたり はべりき。見るめも事もなくはべりしかば、このさがな者を うちとけたる方にて、時々隠ろへ見はべりしほどは、こよな く心とまりはべりき。この人亡せて後、いかがはせむ、あは れながらも過ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴るるに は、すこしまばゆく、艶に好ましきことは、目につかぬところ あるに、うち頼むべくは見えず、かれがれにのみ見せはべる

ほどに、忍びて心かはせる人ぞありけらし。  神無月のころほひ、月おもしろかりし夜、 内裏よりまかではべるに、ある上人来あひ て、この車にあひ乗りてはべれば、大納言 の家にまかりとまらむとするに、この人言 ふやう、
『今宵人待つらむ宿なん、あ やしく心苦しき』とて、この女の家はた避 きぬ道なりければ、荒れたる崩れより、池の水かげ見えて、 月だに宿る住み処を過ぎむもさすがにて、おりはべりぬかし。 もとよりさる心をかはせるにやありけん、この男いたくすず ろきて、門近き廊の簀子だつものに尻かけて、とばかり月を見 る。菊いとおもしろくうつろひわたり、風に競へる紅葉の乱 れなど、あはれと、げに見えたり。懐なりける笛取り出でて吹 き鳴らし、影もよしなど、つづしりうたふほどに、よく鳴る 和琴を調べととのへたりける、うるはしく掻きあはせたりし

ほど、けしうはあらずかし。律の調べは、女のもの柔かに掻 き鳴らして、簾の内より聞こえたるも、今めきたる物の声な れば、清く澄める月に、をりつきなからず。男いたくめでて、 簾のもとに歩み来て、 『庭の紅葉こそ踏み分けたる跡も なけれ』など、ねたます。菊を折りて、   『琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひき   やとめける わろかめり』など言ひて、 『いま一声。聞きはやすべき 人のある時、手な残いたまひそ』など、いたくあざれかかれ ば、女、声いたうつくろひて、    木枯に吹きあはすめる笛の音をひきとどむべきことの   葉ぞなき と、なまめきかはすに、憎くなるをも知らで、また箏の琴を 盤渉調に調べて、今めかしく掻い弾きたる爪音、かどなき にはあらねど、まばゆき心地なんしはべりし。ただ時々うち

語らふ宮仕人などの、あくまでざればみすきたるは、さても 見る限りはをかしくもありぬべし、時々にても、さる所にて 忘れぬよすがと思うたまへんには、頼もしげなく、さし過ぐ いたりと心おかれて、その夜のことにことつけてこそ、まか り絶えにしか。  この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだ に、なほさやうにもて出でたることは、いとあやしく頼もし げなくおぼえはべりき。今より後は、ましてさのみなん思う たまへらるべき。御心のままに折らば落ちぬべき萩の露、拾 はば消えなんと見ゆる玉笹の上の霰などの、艶にあえかなる すきずきしさのみこそをかしく思さるらめ、いまさりとも七 年あまりがほどに思う知りはべなん。なにがしがいやしき諌 めにて、すきたわめらむ女に心おかせたまへ。あやまちして 見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」と、戒む。  中将、例のうなづく。君すこしかた笑みて、さることとは

思すべかめり。 「いづかたにつけても、人わるくはしたな かりけるみ物語かな」とて、うち笑ひおはさうず。 頭中将の体験談--内気な女 中将、 「なにがしは、しれ者の物語をせむ」 とて、 「いと忍びて見そめたりし人の、 さても見つべかりしけはひなりしかば、な がらふべきものとしも思うたまへざりしかど、馴れゆくまま に、あはれとおぼえしかば、絶え絶え、忘れぬものに思ひた まへしを、さばかりになれば、うち頼める気色も見えき。頼 むにつけては、うらめしと思ふこともあらむと、心ながらお ぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきと だえをもかうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にも てつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、頼めわ たることなどもありきかし。  親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事に ふれて思へるさまも、らうたげなりき。かうのどけきにおだ

しくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりよ り、情なくうたてあることをなん、さる便りありて、かすめ 言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。  さるうき事やあらむとも知らず、心に忘れずながら、消息 などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて、心細か りければ、幼き者などもありしに、思ひわづらひて撫子の花 を折りておこせたりし」
とて、涙ぐみたり。 「さて、その文の言葉は」と、問ひたまへば、 「いさ や、ことなることもなかりきや、   山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよ撫子  の露 思ひ出でしままにまかりたりしかば、例の、うらもなきもの から、いともの思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきをながめ て、虫の音に競へる気色、昔物語めきておぼえはべりし。   咲きまじる色はいづれと分かねどもなほとこなつに

  しくものぞなき
大和撫子をばさしおきて、まづ塵をだになど、親の心をとる。   うち払ふ袖も露けきとこなつに嵐吹きそふ秋も来にけ り と、はかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見 えず、涙を漏らし落しても、いと恥づかしくつつましげに紛 らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく 苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またとだえおき はべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。  まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらん。あはれと 思ひしほどに、わづらはしげに思ひまつはす気色見えましか ば、かくもあくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さ るものにしなして、長く見るやうもはべりなまし。かの撫子 のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、 今もえこそ聞きつけはべらね。これこそのたまへるはかなき

例なめれ。つれなくて、つらしと思ひけるも知らで、あはれ 絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。今やうやう忘れゆく 際に、かれはた、えしも思ひ離れず、をりをり人やりならぬ 胸こがるる夕もあらむと、おぼえはべり。これなん、えたも つまじく頼もしげなき方なりける。  されば、かのさがな者も、思ひ出である方に忘れがたけれ ど、さしあたりて見んにはわづらはしく、よくせずはあきた きこともありなんや。琴の音すすめけんかどかどしさも、す きたる罪重かるべし。このこころもとなきも、疑ひ添ふべけ れば、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、 ただかくこそとりどりに、比べ苦しかるべき。このさまざま のよきかぎりをとり具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、い づこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば、法気づ き、霊しからむこそ、またわびしかりぬべけれ」とて、みな 笑ひぬ。 式部丞の体験談--博士の娘

「式部がところにぞ、気色あることはあ らむ。すこしづつ語り申せ」と、責めらる。 「下が下の中には、なでふことか聞こし めしどころはべらむ」と言へど、頭の君、まめやかに、 「お そし」と責めたまへば、何ごとをとり申さんと、思ひめぐら すに、 「まだ文章生にはべりし時、かしこき女の例をな ん見たまへし。かの馬頭の申したまへるやうに、おほやけご とをも言ひあはせ、わたくしざまの世に住まふべき心おきて を思ひめぐらさむかたもいたり深く、才の際、なまなまの博- 士恥づかしく、すべて口あかすべくなんはべらざりし。  それは、ある博士のもとに、学問などしはべるとて、まか り通ひしほどに、あるじのむすめども多かりと聞きたまへて、 はかなきついでに言ひよりてはべりしを、親聞きつけて、盃 もて出でて、わが両つの途歌ふを聴けとなん、聞こえごちは べりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を

憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに 思ひ後見、寝覚めの語らひにも、身の才つき、おほやけに仕 うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに、消息文 にも仮名といふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしは べるに、おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなん、 わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば、今にその 恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無- 才の人、なまわろならむふるまひなど見えむに、恥づかしく なん見えはべりし。まいて、君達の御ため、はかばかしくし たたかなる御後見は、何にかせさせたまはん。はかなし、口- 惜しと、かつ見つつも、ただわが心につき、宿世の引く方は べるめれば、男しもなん、仔細なきものははべるめる」
と、 申せば、残りを言はせむとて、 「さてさてをかしかりける女 かな」と、すかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこ つきて、語りなす。

「さて、いと久しくまからざりしに、ものの便りに立ち 寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心や ましき物越しにてなん会ひてはべる。ふすぶるにやと、をこ がましくも、またよきふしなりとも思ひたまふるに、このさ かし人、はた、かるがるしきもの怨じすべきにもあらず、世 の道理を思ひ取りて、恨みざりけり。声もはやりかにて言ふ やう、『月ごろ風病重きにたへかねて、極熱の草薬を服して、 いと臭きによりなん、え対面賜はらぬ。目のあたりならずと も、さるべからん雑事らはうけたまはらむ』と、いとあはれ に、むべむべしく言ひはべり。答へに何とかは。ただ、『う けたまはりぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやお ぼえけん、『この香失せなん時に立ち寄りたまへ』と、高やか に言ふを、聞きすぐさむもいとほし、しばし休らふべきには たはべらねば、げにそのにほひさへはなやかに立ち添へるも、 すべなくて、逃げ目を使ひて、

  
『ささがにのふるまひしるき夕暮にひるますぐせと言  ふがあやなさ いかなることつけぞや』と、言ひもはてず、走り出ではべり ぬるに、追ひて、   あふことの夜をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆ  からまし さすがに口疾くなどははべりき」と、しづしづと申せば、君- 達、あさましと思ひて、 「そらごと」とて、笑ひたまふ。 「い づこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向ひゐたらめ。 むくつけきこと」と、つまはじきをして、言はむ方なしと、 式部をあはめ憎みて、 「すこしよろしからむことを申せ」と、 責めたまへど、 「これよりめづらしき事はさぶらひなん や」とて、をり。 左馬頭、女性論のまとめをする

「すべて男も女も、わろ者は、わづかに 知れる方のことを、残りなく見せ尽くさむ と、思へるこそ、いとほしけれ。三史五経- 道々しき方を明らかに悟り明かさんこそ、愛敬なからめ、な どかは女といはんからに、世にあることのおほやけわたくし につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひま ねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまるこ と、自然に多かるべし。さるままには、真名を走り書きて、 さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすくめたる、あ なうたて、この人のたをやかならましかば、と見えたり。心- 地にはさしも思はざらめど、おのづからこはごはしき声に読 みなされなどしつつ、ことさらびたり。上臈の中にも多かる ことぞかし。  歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき故事 をもはじめより取りこみつつ、すさまじきをりをり、詠みか

けたるこそ、ものしきことなれ。返しせねば情なし、えせざ らむ人ははしたなからん。さるべき節会など、五月の節に急 ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、えならぬ根を 引きかけ、九日の宴にまづ難き詩の心を思ひめぐらし暇なき をりに、菊の露をかこち寄せなどやうの、つきなき営みにあ はせ、さならでも、おのづから、げに、後に思へば、をかし くもあはれにもあべかりけることの、そのをりにつきなく目 にとまらぬなどを、推しはからず詠み出でたる、なかなか心 おくれて見ゆ。  よろづの事に、などかは、さても、とおぼゆるをりから、 時々思ひ分かぬばかりの心にては、よしばみ情だたざらむな ん、めやすかるべき。すべて、心に知れらむことをも知らず 顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふし は過ぐすべくなんあべかりける」
と言ふにも、君は人ひとり の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。これに、足ら

ずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかなと、あり 難きにもいとど胸ふたがる。  いづかたに寄りはつともなく、はてはてはあやしき事ども になりて、明かしたまひつ。 品定めの翌日、源氏、左大臣邸へ退出 からうじて、今日は日のけしきも直れり。 かくのみ篭りさぶらひたまふも、大殿の御- 心いとほしければ、まかでたまへり。おほ かたの気色、人のけはひも、けざやかに気高く、乱れたるとこ ろまじらず、なほこれこそは、かの人々の捨てがたくとり出 でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりう るはしき御ありさまのとけがたく、恥づかしげに思ひしづま りたまへるを、さうざうしくて、中納言の君中務などやう のおしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑 さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえ たり。大臣も渡りたまひて、かくうちとけたまへれば、御几-

帳隔てておはしまして、 御物語聞こえたまふを、 「暑き に」と、にがみたまへば、人々笑ふ。 「あなかま」とて、 脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまひなりや。 源氏、紀伊守邸へ方違えにおもむく 暗くなるほどに、 「今宵、中神、内裏よ りは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。 「さかし。例は忌みたまふ方なりけり。二条- 院にも同じ筋にて、いづくにか違へん。いと悩ましきに」と て、大殿篭れり。 「いとあしき事なり」と、これかれ聞こゆ。   「紀伊守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる 家なん、このごろ水塞き入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こ ゆ。 「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべ からむ所を」と、のたまふ。忍び忍びの御方違へ所はあまた ありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて ひき違へ外ざまへと思さんはいとほしきなるべし。  紀伊守に仰せ言賜へば、うけたまはりながら、退きて 「伊-

予守朝臣の家につつしむことはべりて、女房なんまかり移れ るころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらん」
と下に嘆くを聞きたまひて、 「その人近からむなんうれし かるべき。女遠き旅寝はもの恐ろしき心地すべきを。ただそ の几帳の背後に」とのたまへば、 「げに、よろしき御座所に も」とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことごと しからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまは ず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。 「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東- 面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ば へなど、さる方にを かしくしなしたり。 田舎家だつ柴垣して、 前栽など心とめて植 ゑたり。風涼しくて、

そこはかとなき虫の声々聞こえ、螢しげく飛びまがひて、を かしきほどなり。人々渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒 のむ。あるじも肴求むと、こゆるぎのいそぎ歩くほど、君は のどやかにながめたまひて、かの中の品にとり出でて言ひし、 このなみならむかしと思し出づ。  思ひあがれる気色に、聞きおきたまへるむすめなれば、ゆ かしくて、耳とどめたまへるに、この西面にぞ、人のけはひ する。衣の音なひはらはらとして、若き声ども憎からず。さ すがに忍びて笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。格子を 上げたりけれど、守、 「心なし」とむつかりて、下ろしつれば、 灯ともしたる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りた まひて、見ゆやと思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふ に、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふ ことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。 「いといた うまめだちて、まだきにやむごとなきよすが定まりたまへる

こそ、さうざうしかむめれ」
「されど、さるべき隈にはよく こそ隠れ歩きたまふなれ」など言ふにも、思すことのみ心に かかりたまへば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも、人 の言ひ漏らさむを聞きつけたらむ時など、おぼえたまふ。  ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿宮の姫- 君に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこし頬ゆがめて語るも 聞こゆ。くつろぎがましく歌誦じがちにもあるかな、なほ見- 劣りはしなんかしと、思す。  守出で来て、燈篭かけ添へ、灯あかくかかげなどして、御 くだものばかりまゐれり。 「とばり帳もいかにぞは。さる 方の心もなくては、めざましきあるじならむ」と、のたまへ ば、 「何よけむともえうけたまはらず」と、かしこまりてさ ぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿篭れば、人々 も静まりぬ。 あるじの子どもをかしげにてあり。童なる、殿上のほどに

御覧じなれたるもあり、伊予介の子もあり。あまたある中に、 いとけはひあてはかにて、十二三ばかりなるもあり。 「い づれかいづれ」など問ひたまふに、 「これは故衛門督の末の 子にて、いと愛しくしはべりけるを、幼きほどに後れはべり て、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつき はべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思うたまへ かけながら、すがすがしうはえ交らひはべらざめる」と、申 す。 「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」 「さなんはべる」と申すに、 「似げなき親をもまうけたり けるかな。上にも聞こしめしおきて、 『宮仕に出だし立て むと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやものた まはせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのた まふ。 「不意にかくて、ものしはべるなり。世の中といふも の、さのみこそ、今も昔も定まりたることはべらね。中につ いても、女の宿世はいと浮びたるなんあはれにはべる」なん

ど聞こえさす。 「伊予介かしづくや。君と思ふらむな」   「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、すきずき しき事と、なにがしよりはじめて、承け引きはべらずなむ」 と申す。 「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきた らむに、おろしたてんやは。かの介はいとよしありて、気色 ばめるをや」など、物語したまひて、 「いづ方にぞ」 「みな下屋におろしはべりぬるを、えやまかり下りあへざら む」と、聞こゆ。  酔ひすすみて、みな人々簀子に臥しつつ、静まりぬ。 翌日、方違えの夜、源氏、空蝉と契る 君は、とけても寝られたまはず。いたづら 臥しと思さるるに御目さめて、この北の障- 子のあなたに人のけはひするを、こなたや かく言ふ人の隠れたる方ならむ、あはれやと、御心とどめて、 やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、 「も のけたまはる。いづくにおはしますぞ」と、かれたる声のを

かしきにて言へば、 「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬ るか。 いかに近からむと思ひつるを、されどけ遠かりけり」 と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、 妹と聞きたまひつ。 「廂にぞ大殿篭りぬる。音に聞きつる 御ありさまを見たてまつりつる。げにこそめでたかりけれ」 と、みそかに言ふ。 「昼ならましかば、のぞきて見たてま つりてまし」と、ねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。 ねたう、心とどめても問ひ聞けかしと、あぢきなく思す。 「まろは端に寝はべらん。 あな暗」とて、灯かかげなどす べし。女君はただこの障子口筋違ひたるほどにぞ臥したるべ き。 「中将の君は、いづくにぞ。人げ遠き心地してもの恐 ろし」と言ふなれば、長押の下に人々臥して答へすなり。 「下に湯におりて、ただ今参らむとはべり」と言ふ。  みな静まりたるけはひなれば、掛け金をこころみに引き開 けたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口に

は立てて、灯はほの暗きに見たまへば、唐櫃だつ物どもを置 きたれば、乱りがはしき中を分け入りたまひて、けはひしつ る所に入りたまへれば、ただ独りいとささやかにて臥したり。 なまわづらはしけれど、上なる衣おしやるまで、求めつる人 と思へり。 「中将召しつればなん。人知れぬ思ひのしるし ある心地して」とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物 におそはるる心地して、やとおびゆれど、顔に衣のさはりて、 音にも立てず。 「うちつけに、深からぬ心のほどと見たま ふらん、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心の中も聞こえ 知らせむとてなん。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅 くはあらじと思ひなしたまへ」と、いとやはらかにのたまひ て、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、 「ここ に人」とも、えののしらず。心地はたわびしく、あるまじき ことと思へば、あさましく、 「人違へにこそはべるめれ」 と言ふも、息の下なり。消えまどへる気色いと心苦しくらう

たげなれば、をかしと見たまひて、 「違ふべくもあらぬ心 のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。すきがましき さまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべ きぞ」とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもとに 出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。 「や や」とのたまふにあやしくて、探り寄りたるにぞ、いみじく 匂ひ満ちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひよりぬ。 あさましう、こはいかなることぞと、思ひまどはるれど、聞 こえん方なし。なみなみの人ならばこそ、荒らかにも引きか なぐらめ、それだに人のあまた知らむはいかがあらん、心も 騒ぎて慕ひ来たれど、どうもなくて、奥なる御座に入りたま ひぬ。障子を引き立てて、 「暁に御迎へにものせよ」と、 のたまへば、女はこの人の思ふらむことさへ死ぬばかりわり なきに、流るるまで汗になりて、いとなやましげなる、いと ほしけれど、例のいづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、

あはれ知るばかり情々しくのたまひ尽くすべかめれど、なほ いとあさましきに、 「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身な がらも、思し下しける御心ばへのほどもいかが浅くは思うた まへざらむ。いとかやうなる際は際とこそはべなれ」とて、 かくおし立ちたまへるを深く情なくうしと思ひ入りたるさま も、げにいとほしく心恥づかしきけはひなれば、 「その際- 際をまだ知らぬ初事ぞや。なかなかおしなべたるつらに思ひ なしたまへるなん、うたてありける。おのづから聞きたまふ やうもあらむ。あながちなるすき心はさらにならはぬを。さ るべきにや、げにかくあはめられたてまつるもことわりなる 心まどひを、みづからもあやしきまでなん」など、まめだち てよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよ いようちとけきこえんことわびしければ、すくよかに心づき なしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過 ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人がらのた

をやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地し てさすがに折るべくもあらず。  まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふか たなしと思ひて、泣くさまなどいとあはれなり。心苦しくは あれど、見ざらましかば口惜しからましと思す。慰めがたく うしと思へれば、 「などかくうとましきものにしも思すべ き。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまは め。むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなん、いと つらき」と、恨みられて、 「いとかくうき身のほどの定まら ぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、 あるまじきわが頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ 慰めましを、いとかう仮なるうき寝のほどを思ひはべるに、 たぐひなく思うたまへまどはるるなり。よし、今は見きとな かけそ」とて、思へるさまげにいとことわりなり。おろかな らず契り慰めたまふこと多かるべし。

 鳥も鳴きぬ。人々起き出でて、 「いといぎたなかりける 夜かな」 「御車引き出でよ」など言ふなり。守も出で来て、 女などの、 「御方違へこそ、夜深く急がせたまふべきかは」 など言ふもあり。君は、またかやうのついであらむこともい とかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はんことの、 いとわりなきを思すに、いと胸いたし。奥の中将も出でて、 いと苦しがれば、ゆるしたまひても、また引きとどめたまひ つつ、 「いかでか聞こゆべき。世に知らぬ御心のつらさも あはれも、浅からぬ世の思ひ出は、さまざまめづらかなるべ き例かな」とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。 鳥もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、    つれなきを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで   おどろかすらむ 女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、 めでたき御もてなしも何ともおぼえず、常はいとすくすくし

く心づきなしと思ひあなづる伊予の方のみ思ひやられて、夢 にや見ゆらむとそら恐ろしくつつまし。    身のうさを嘆くにあかで明くる夜はとりかさねてぞね   もなかれける ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒が しければ、引き立てて別れたまふほど、心細く、隔つる関と 見えたり。御直衣など着たまひて、南の高欄にしばしうちな がめたまふ。西面の格子そそき上げて、人々のぞくべかめり。 簀子の中のほどに立てたる小障子の上よりほのかに見えたま へる御ありさまを、身にしむばかり思へるすき心どもあめり。  月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、 なかなかをかしきあけぼのなり。何心なき空のけしきも、た だ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御- 心には、いと胸いたく、言伝てやらんよすがだになきをと、 かへりみがちにて出でたまひぬ。

殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。また、 あひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらん心の中い かならむと心苦しく思ひやりたまふ。すぐれたることはなけ れど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな、隈なく見 あつめたる人の言ひしことは、げにと思しあはせられけり。 源氏、小君を召して文使いとする このほどは大殿にのみおはします。なほ、 いと、かき絶えて、思ふらむことの、いと ほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、 紀伊守を召したり。 「かのありし中納言の子は得させてん や。らうたげに見えしを、身近く使ふ人にせむ。上にも我奉 らむ」とのたまへば、 「いとかしこき仰せ言にはべるなり。 姉なる人にのたまひみん」と申すも、胸つぶれて思せど、 「その姉君は朝臣の弟やもたる」 「さもはべらず。この二年 ばかりぞかくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ 嘆きて、心ゆかぬやうになん聞きたまふる」 「あはれのこ

とや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」
とのた まへば、  「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうと しくはべれば、世のたとひにて睦びはべらず」と申す。  さて、五六日ありてこの子率て参れり。こまやかにをかし とはなけれど、なまめきたるさましてあて人と見えたり。召 し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地にいとめで たくうれしと思ふ。妹の君のこともくはしく問ひたまふ。さ るべきことは答へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりた れば、うち出でにくし。されどいとよく言ひ知らせたまふ。 かかることこそはとほの心得るも、思ひの外なれど、幼心地 に深くしもたどらず、御文をもて来たれば、女、あさましき に涙も出できぬ。この子の思ふらんこともはしたなくて、さ すがに御文を面隠しにひろげたり。いと多くて、   「見し夢をあふ夜ありやとなげく間に目さへあはでぞ  ころも経にける

寝る夜なければ」
など、目も及ばぬ御書きざまも、霧りふた がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひつづけて、臥し たまへり。  またの日、小君召したれば、参るとて、御返り乞ふ。 「か かる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」と、のたまへば、 うち笑みて、 「違ふべくものたまはざりしものを、いかが さは申さむ」と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ知 らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。 「いで、およす けたることは言はぬぞよき。さば、な参りたまひそ」とむつ かられて、 「召すにはいかでか」とて、参りぬ。  紀伊守、すき心に、この継母のありさまをあたらしきもの に思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率て 歩く。  君、召し寄せて、 「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふ まじきなめり」と、怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。

「いづら」
とのたまふに、しかじかと申すに、 「言ふかひな のことや。あさまし」とて、またも賜へり。 「あこは知ら じな。その伊予の翁よりは先に見し人ぞ。されど、頼もしげ なく頸細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かくあなづり たまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この 頼もし人は行く先短かりなん」とのたまへば、さもやありけ ん、いみじかりけることかな、と思へる、をかしと思す。  この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたま ふ。わが御匣殿にのたまひて、装束などもせさせ、まことに 親めきてあつかひたまふ。 御文は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほか に散りもせば、かろがろしき名さへ取り添へん身のおぼえを、 いとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそ と思ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。ほのかなりし御 けはひありさまは、げになべてにやはと、思ひ出できこえぬ

にはあらねど、をかしきさまを見えたてまつりても、何にか はなるべき、など思ひ返すなりけり。  君は思しおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し 出づ。思へりし気色などのいとほしさも、情るけん方なく思 しわたる。かろがろしく這ひ紛れ立ち寄りたまはんも、人目 しげからむ所に、便なきふるまひやあらはれん、人のためも いとほしくと、思しわづらふ。 源氏、再び紀伊守の邸を訪れる 例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき 方の忌待ち出でたまふ。にはかにまかでた まふまねして、道の程よりおはしましたり。 紀伊守驚きて、遣り水の面目と、かしこまり喜ぶ。小君には、昼 より、 「かくなん思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮 れまつはし馴らはしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。  女も、さる御消息ありけるに、思したばかりつらむほどは 浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ、人げなきあ

りさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過 ぎにし嘆きをまたや加へんと、思ひ乱れて、なほさて待ちつ けきこえさせんことのまばゆければ、小君が出でて去ぬるほ どに、 「いとけ近ければかたはらいたし。なやましければ、 忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」とて、渡殿に、 中将といひしが局したる隠れに移ろひぬ。  さる心して、人とく静めて御消息あれど、小君は尋ねあは ず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうじて 辿り来たり。いとあさましくつらしと思ひて、 「いかにか ひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言ヘば、 「かくけしから ぬ心ばヘはつかふものか。 幼き人のかかること言ひ伝ふる は、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、 「『心地なや ましければ、人々退けず押ヘさせてなむ』と、聞こえさせよ。 あやしと誰も誰も見るらむ」と言ひ放ちて、心の中には、い とかく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けは

ひとまれる古里ながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、 をかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、い かにほど知らぬやうに思すらむと、心ながらも胸いたく、さ すがに思ひ乱る。とてもかくても、今は言ふかひなき宿世な りければ、無心に心づきなくてやみなむと、思ひはてたり。  君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく 待ち臥したまヘるに、不用なるよしを聞こゆれば、あさまし くめづらかなりける心のほどを、 「身もいと恥づかしくこ そなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりもの ものたまはず、いたくうめきて、うしと思したり。   「帚木の心をしらでその原の道にあやなくまどひぬる   かな 聞こえん方こそなけれ」とのたまヘり。女も、さすがにまど ろまざりければ、    数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消

  ゆる帚木
と、聞こえたり。  小君、いといとほしさに、眠たくもあらでまどひ歩くを、 人あやしと見るらんとわびたまふ。  例の、人々はいぎたなきに、一所、すずろにすさまじく思 しつづけらるれど、人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ちのぼ れりけると、ねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、か つは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、 さも思しはつまじく、 「隠れたらむ所になほ率ていけ」と のたまヘど、 「いとむつかしげにさし篭められて、人あま たはべるめれば、かしこげに」と聞こゆ。いとほしと思ヘり。 「よし、あこだにな棄てそ」と、のたまひて、御かたはら に臥せたまヘり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめ でたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに 思さるとぞ。
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